世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は隋・唐の歴史を語るうえで不可欠な存在である突厥とウイグルについてです。これらの遊牧民は隋・唐とどんな関係を結んだのでしょうか?
それではみていきましょう!
MQ:遊牧諸民族は隋・唐とどんな関係を結んだのか?
今回の時代はここ!
突厥
領土拡大
トルコ系の突厥(とっけつ)はもともと柔然(じゅうぜん)に服属していましたが、アルタイ山脈南西部で諸部族を統一していき、勢力を拡大させます。
突厥とは「テュルク」、すなわち「トルコ」の音を漢字に直したものなんです。なので突厥人はトルコ人だということですね。
ちなみに「トルコ」はポルトガル語由来で「テュルク」の方は原語に近い発音らしいですよ。
突厥族が住んでいた場所は鉄鉱石が産地であったことから、突厥は鉄製武器の製鋼に優れていました。
6世紀半ばには柔然を倒して中央ユーラシア(モンゴル高原一帯)を統一して領土を拡大していきます。
鉄鉱石の産地から大国へと成り上がったといえば、古代オリエントのヒッタイトも同じですね。
突厥は強力な中央集権的な支配はおこなわず、柔然から用いられていた君主を意味する可汗(かがん)が統率する部族連合国家でした。部族連合は遊牧国家の特徴ですね。
遊牧国家が使っていた「可汗」は、その後のモンゴル帝国の「カン(ハン)」の由来にもなっています。
中央ユーラシアの西側では、当時イラン付近を支配していたササン朝ペルシアと接触しました。
ササン朝は当時、イランで躍動していた遊牧民エフタルからの侵攻に悩まされていました。そこで君主のホスロー1世は背後に位置する突厥と手を結ぶことでエフタルを挟み撃ちにして、滅ぼすことに成功します。
突厥はこの報いとしてソグディアナを支配して、商人のソグド人を保護します。
その対価として隊商交易の利益を獲得することになったんですよね。
東側では当時の魏晋南北朝時代の北朝と接触していました。
突厥がモンゴル高原を統一したころは北魏が東西に分裂した後の時代でした。
魏晋南北朝の動乱を利用して、突厥は魚油の利を得るように勢力を拡大し、北周や北斉の頃には両国が突厥に対して臣下として使節を送るほどでした。
敵にするには中国内の動乱で余裕がないですし、味方であれば中国内の争いには心強いですもんね。
絹馬貿易
SQ:突厥は東西ネットワークをどのように活用したのか?
突厥は西はササン朝やビザンツ帝国(東ローマ帝国)、東は中国王朝と関係をもつことでユーラシア大陸を横断できるほどのネットワークを手にいれます。
突厥は東側の中国原産であった”絹”に着目しました。絹は西方ではもともと知られておらず、モンゴル高原でも生産されていなかったので、高価な贅沢品として世界中で重宝されていました。
突厥は自分たちが所有する馬と中国の絹織物を交換する絹馬貿易(けんばぼうえき)を行うことで、大量の絹織物を獲得していました。
馬は当時最速の輸送手段だったので中国でも需要があったからこその絹馬貿易ですね。
獲得した絹織物は可汗が家臣たちに与える下賜品(かしひん)になったり、ソグディアナを中心に活動していたソグド商人たちを介して西方諸国(主にビザンツ帝国)との交易に使われることで、突厥は莫大な利益を得ることができました。
この絹馬貿易は匈奴の時代からあったことから、交易路を「シルク=ロード」と呼ぶようになったんですね。
分裂と再建
突厥は北朝を威圧する存在でしたが、隋が中国を統一すると突厥に対して攻勢にでます。
突厥は隋からの侵攻や内乱などによって東西に分裂してしまいます。
分裂後、モンゴル高原を支配していた東突厥は、唐建国の際に騎馬を援助するなど共闘関係でしたが、唐の太宗の時代に敵対関係となってしまい争いました。
内紛や自然災害等で弱体化していた東突厥は唐に圧倒されるようになり、滅ぼされて唐の領土に組み込まれる形(羈縻政策)で服属してしまいました。
西突厥・・・分裂後トルキスタンを支配。東突厥滅亡後に唐の侵攻をうけて実質的に滅亡。
都護府の支配下にあった東突厥でしたが、7世期末に唐に対する反乱が成功して再度独立を果たします。
再建後は、略奪を目的とする侵攻よりも利益目的である絹馬貿易を重視するようになっていきます。
なので、8世紀にアラブ=ムスリム軍(イスラーム軍)にソグディアナ諸都市が攻撃を受けた際には、軍事的な支援をおこなったりもしました。
オアシス都市を失うと東西の隊商交易ができなくなっちゃいますからね。
しかし、8世紀から突厥に従属していたウイグルによって再度滅亡してしまうことになります。
文字と文化
再建後の東突厥は、中央ユーラシアの遊牧民としては初の突厥文字をもっていました。
モンゴル高原の草原には突厥文字が刻まれた突厥碑文も残されています。
内容は唐の玄宗が当時の可汗の功績を称える内容が記されていて、これによって中央アジアのトルコ系民族の活動が明らかになりました。
突厥の文化では固有の信仰をもっており、シャマニズムによる天神(テングリ)信仰がおこなわれていました。
可汗の権威もこの天神から授かったものとなっていたそうですよ。
シャマニズム・・・天神の預言を授かれるとされるシャーマン(呪術師)が占いや治療などをおこなうこと。
ウイグル
国家建設
8世紀になると、突厥に従属していた遊牧民のひとつであったウイグル(トルコ系)が突厥(再興した東突厥)の衰退と共に台頭してきます。
現在の中国内にある新疆ウイグル自治区に住んでいる人々は、このウイグル人とは直接の関係はないので注意しましょう。自治区の名称はウイグル時代の栄光から名前をお借りしているだけなんです。
744年に独立して可汗を名乗ってウイグル国家を打ち立てます。その後はモンゴル高原を支配するまでに成長します。
唐との関係
ウイグルはモンゴル高原を支配後、唐への影響を強めていきます。
節度使の安禄山が反乱を起こして、洛陽や長安を占領せれるまでに拡大した安史の乱では、唐はウイグルに救援をもとめ、ウイグルがそれに応えたことで洛陽を奪還するなど、安史の乱鎮圧に大きく貢献しました。
しかし、この反乱での「ウイグルが唐を助けた。」というストーリーはそんな単純な話ではなかったんです。
ウイグルは反乱中に、一時反乱軍と協力して唐を倒そうとした時期もあったんです。反乱を指導した安禄山はオアシス地帯のソグド系の血統であったため、反乱軍にはソグド人や遊牧民が多数参加していました。
ウイグルと関係が深かったんでしょうね。
交易路として使われた「オアシスの道」や「草原の道」も反乱軍が押さえていたことから、ウイグルは反乱軍に加担しようとしてのではないかと思われます。
あくまで忠誠心でなくて国家利益で動いていたことがわかりますね。しかし、最終的には唐側について反乱の鎮圧に貢献しました。
安史の乱後はその見返りとして絹馬貿易などをおこない利益を得ました。唐側についた要因の一つだったかもしれませんね。
ウイグルはその後も唐との関係が深まっていくと、草原に行政や交易の拠点となる都城を造り、その周辺では農業もおこなうようになります。
遊牧国家の特徴である複合国家化が進んでいったということですね。
マニ教の国教化
SQ:なぜウイグルではマニ教が普及したのか?
ウイグルは世界史上唯一のマニ教を国教化した国として知られています。
始まりは、ウイグルが安史の乱鎮圧に協力した際に、マニ教の僧侶らを連れて帰ったことから布教がおこなわれました。
そしてモンゴル高原から西域まで支配したことで、マニ教徒のソグド人たちが多数移住してきたことも普及の要因となりました。
ウイグルの可汗(君主)はマニ教を保護することで隊商交易を担っていたソグド人をうまく支配下に入れることができると考えたのです。
そうすれば隊商交易の利益を吸い取ることができますからね。これも国家利益を重視した考えですね。
しかし、可汗のマニ教保護には反対派も多かったそうで、可汗殺害がおこるなど混乱もありました。
まあ、もともとあった民間宗教がないがしろにされると怒る人たちも一定数いるでしょうからね。
滅亡と分裂
9世紀に入ると度重なる自然災害や内乱が起きたことで衰退し、ウイグルの支配を受けていたキルギスの攻撃によって滅亡することになりました。
キルギス・・・南シベリアの草原で遊牧生活を送っていたトルコ系民族。匈奴を服属していたが、突厥の支配下に入り、ウイグルの支配も受けていた。
滅亡後、ウイグル人の一部は西のオアシス地域に定着して国家を建設しました。
オアシス都市で商人となったり、周辺で農業を営むなど、ウイグル人などのトルコ系が中心となっていき、中央アジアのトルコ化が進みました。
このトルコ化によって中央アジアは「トルキスタン」と呼ばれるようになりました。
このように西のオアシス地域にトルコ系が定着したことで、やがて9世紀にトルコ系イスラーム王朝のカラハン朝が成立することになります。
文化
ウイグル人はソグド人を保護して東西交易を担っていたことで、さまざまな文化や宗教が入ってきました。
マニ教以外にもネストリウス派キリスト教や仏教も信仰され、ウイグル文字やウイグル語訳された仏教経典や壁画などの国際色豊かな文化が残っています。
まとめ
MQ:遊牧諸民族は隋・唐とどんな関係を結んだのか?
A:時代によって威圧的か友好的な違いはあったが、オアシス都市のソグド商人を保護したうえで、遊牧民の馬と隋・唐の絹を取引する絹馬貿易おこなう関係を築くことで利益を獲得した。
今回はこのような内容でした。
次回は遊牧国家の保護のもと、東西交易を担ったソグド人についてやっていきます。
ソグド人はアジアでどんな役割を果たしたんでしょうか?それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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