世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したPowerPointスライドもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回から新章[イスラーム教の広がりと西アジア]の中央アジアのイスラーム化をみていきます。イスラーム化は西アジアにどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:イスラーム教は中央アジアにどんな影響を与えたのか?
今回の時代はここ!
中央アジアのイスラーム化
中央アジアへの進出
イスラーム教が誕生した後、イスラーム勢力(アラブ=ムスリム軍)は各地に征服活動をおこないましたよね。
そして中央アジアにも7世紀中頃からイスラーム勢力(アラブ=ムスリム軍)が進出してきます。
8世紀から本格的に進出していき、ソグド人の強い抵抗や突厥の援軍との衝突もありましたが、それらも撃退してブハラやサマルカンドといった要衝を征服して支配下にいれていきました。
SQ:なぜイスラーム勢力は西アジアに進出していったのか?
ここでイスラーム教の復習も兼ねながら、なぜそもそも西アジアに進出したのかについて考えてみましょう。
まず第一の目的は、
①宗教的拡大
ですね。イスラーム教は布教と信仰の拡大を目的として各地に勢力を拡大しにいきました。
このような異教徒との戦いをジハード(聖戦)といいましたね。
この目的に繋がる形で、
②軍事的戦略
異教徒との戦いの中で、ササン朝などの敵対勢力の進出を防ぐために戦略的な拠点を確保する目的でもありました。
そしてここからが「どうして西アジアなのか?」についてです。
中央アジアにはオアシス地域が広がっていましたよね?
他にも各王朝にとって大事な何かが中央アジアにはありました。
いったい何かわかりますか?
中央アジアのオアシス地域を拠点としておこなわれていたのが、シルク=ロードを使った交易でしたね。
このシルク=ロード(中央アジアは「オアシスの道」)は、各文明を繋げる東西ネットワークの役割を果たしていましたよね。
なので、それを利用した交易の規模は莫大で、とてつもない利益をもたらしていました。
なので、イスラーム勢力の財政的にもシルク=ロード交易の経済的利益は、のどから手がでるほどほしかったはずです。
このようなシルク=ロードを通じた交易を支配することで経済的な利益を手にし、財源を満たす目的があったと考えられています。
③経済的利益
なのでシルク=ロード交易を担っていたソグド人と抗争になり、彼らを保護していた突厥とも衝突したんですね。
以上の①~③の複数の目的が合致したことで、中央アジアへの進出が進められたんですね。
中央アジアの進出によってイスラーム勢力は東に大きく領土を拡大していきますが、そこで当時中央アジアに同じく進出して支配していた中国文明と国境を接することになりました。
当時中国は唐が支配していて、皇帝は遊牧民の王「天可汗」の称号を手に入れて、中央アジアまで領土を拡大させていました。
対してイスラーム勢力は当時イスラーム帝国を成立させたばかりのアッバース朝でした。
この東西の大帝国が衝突した戦いがタラス河畔の戦いです。
この戦いは唐の節度使がイスラーム教徒の地方政権を攻撃し、それを助けるためにアッバース朝軍が援軍として駆け付けて衝突した戦いでした。
結果はアッバース朝軍の大勝利に終わり、唐軍は敗走したことで唐の勢力は中央アジアから大きく後退することになりました。
ちなみにこの時に捕虜となった唐人によってイスラーム世界に製紙法が伝わってイスラーム文化の発展に貢献しました。
こんな形での文化交流もあるんですね。
イスラーム化
シルク=ロードを支配下に置いたことで、ムスリム商人の活動が活発になっていきます。
ムスリム商人の活動が活発になるにつれて、地域の人々もイスラーム教を受け入れていき、中央アジアのイスラーム化が進んでいきました。
サーマーン朝
建国と拡大
アッバース朝によって中央アジアがイスラーム世界に組み込まれてしばらくすると、アッバース朝の地方政権としてサーマーン朝が建国されました。
サーマーン朝はソグディアナを支配したイラン人によって建国された中央アジア初のイスラーム政権でした。
当時はアッバース朝のカリフの権威が落ちて、事実上独立した地方政権が複数誕生している時期でもあったので、サーマーン朝のような王朝が成立しました。
アッバース朝を宗主国とするサーマーン朝はイスラーム学問の研究に力を入れて、イラン=イスラーム文化の発展に貢献しました。
アラビア文字でペルシア語を表記するなど、イラン=イスラーム文化の基礎を作った王朝でした。
サーマーン朝は現在のウズベキスタンやトルクメニスタン、イラン高原まで勢力を拡大させていき、中央アジアの強国として君臨しました。
サーマーン朝の廟(びょう)は現在でも遺跡として残っていて、焼きレンガが精巧に積み上げられて、ソグド人の伝統が取り入れられているなど、中央アジア最古のイスラーム建築として世界遺産に登録されています。
マムルーク(奴隷軍人)
このサーマーン朝の勢力拡大には、マムルークと呼ばれる奴隷軍人の存在がありました。
イスラーム世界ではアラブ人の正規軍のほかに、トルコ人やギリシア人などの異教徒や捕虜によって構成される奴隷軍団がいました。
その奴隷軍人の中でもトルコ人は草原地帯での騎馬技術に優れていて、マムルークの騎馬戦士としてサーマーン朝の軍事力を支えていたんです。
トルコ人の騎馬戦士は馬上からの弓を射ることが得意で、後ろを向きながら射ることもできたそうです。
ちなみにマムルーク(奴隷軍人)とは、「所有されるモノ」という意味らしいです。まさに奴隷の考え方ですね。
サーマーン朝はこのマムルークの高い戦闘力を軍事力だけではなく、商品としても利用しました。
中央アジアで手に入れたトルコ系のマムルークをアッバース朝カリフの親衛隊として供給したり、各地のイスラーム世界に輸出することで、王朝の収入源にしていたんです。
これによってマムルークは各地で活躍し、各王朝で重要な軍事力として重宝されるようになっていきました。
マムルークは奴隷軍人でしたが、マワーリーとなって奴隷から解放される人もいました。
これによるトルコ人のイスラーム化も進んでいきました。
このマムルークは後にイスラーム世界で表舞台に出てくることになります。
ちなみにサーマーン朝はこの後登場するカラハン朝によって滅ぼされてしまいました。
カラハン朝
その頃、中央ユーラシアの草原地帯ではトルコ系のウイグルが台頭していましたが、9世紀半ばにキルギスに滅ぼされてしまい、逃げるように西の中央アジアにウイグル人たちが進入してきました。
ウイグルなどのトルコ系の騎馬民族たちが中央アジアのオアシス地域に定着したことで、中央アジアのトルコ化が進んでいきます。
そしてトルコ系たちによって10世紀半ばに建国されたのがカラハン朝という王朝でした。
カラハン朝はイスラーム教を受け入れた後、初のトルコ系イスラーム王朝として、トルコ系特有の騎馬戦法によってサーマーン朝を滅ぼすなど躍進していきましたんです。
カラハン朝は11世紀から衰退していき、モンゴル高原から移動してきた西遼(カラ=キタイ)に併合されて滅亡しました。
中央アジアのトルコ化
トルコ系イスラーム政権のカラハン朝の拡大によって、中央アジアのトルコ化はさらに進んでいきました。
カラハン朝のもとで「トルコ語・アラビア語辞典」が編纂されるなど、トルコ語文学が発展したことで、それまで中央アジアで有力だったイラン系の人々も次第にトルコ語を話すようになっていったんです。
そうしたことから、中央アジアは「トルコ人の住む土地」という意味で「トルキスタン」と呼ばれるようになっていきました。
現在でも使われている「トルキスタン」という地域名はここからきていたんですね。
このようにカラハン朝による中央アジアのトルコ化によって、後にトルコ=イスラーム文化の基礎ができあがっていきます。
カラハン朝がイスラーム世界の西北に位置したことで、その後トルコ人たちはシルク=ロードを通じて西アジアに進出していくことになります。
先ほどの「トルコ語・アラビア語辞典」の序文から、トルコ人がその後、西アジアにどんな影響を与えたのかを考えてみましょう。
SQ:トルコ人はその後、西アジアでどんな役割を果たしたのか?
中央アジア出身のカーシュガリーは、1077年頃にバグダードで『トルコ語・アラビア語辞典』(『テュルク諸語集成』)を完成してカリフに献呈した。その序文で彼は、預言者ムハンマドの言葉を引用している。
「・・・・私は二人の信頼できる学識者から、トルコ人の出現を預言した預言者ムハンマドの言葉を伝え聞いた。トルコ語を学べ、彼らの支配は長く続くから、と。そうだとすれば、トルコ語を学ぶことは宗教的な義務である。たとえ、この伝承が正しくなかろうと、理智はこれを求める。」
このように中央アジアのトルコ化によって、後に序文のような本当にトルコ系イスラーム政権が文化の中心になっていく時代がやってくるんです。
具体的にはセルジューク朝やオスマン帝国など、世界史に大きな影響を与えた大国が誕生し、トルコ系イスラーム政権が西アジアの政治・経済・文化の中心となっていくようになっていきます。
なのでそういう意味で中央アジアのトルコ化は世界史的に重要なポイントなんですよ。
まとめ
MQ:イスラーム教は中央アジアにどんな影響を与えたのか?
A:トルコ系イスラーム政権であるカラハン朝のもとで中央アジアのトルコ化が進んだ。それによって後にシルク=ロードを通じて西アジアでトルコ=イスラーム文化が繁栄する礎を築いた。
今回はこのような内容でした。
次回は南アジアのイスラーム化についてみていきます。ヒンドゥー教やカーストが根強い南アジアでイスラーム教はどのように受け入れられていったんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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