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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は西晋が滅亡した後に興亡した五胡十六国以降の魏晋南北時代である北朝と南朝にわけて解説していきます!
それではいきましょう!
MQ:遊牧民はどのように中国を統治したのか?
今回の時代はここです!


北朝(北魏)
西晋の滅亡後に、華北では五胡十六国時代に入り、五胡を中心に様々な国々が興亡しました。

南は西晋の王族の生き残りが建てた東晋でしたね。
そして最終的にその群雄割拠時代を制したのはどこだったのか?
それを成し遂げたのは鮮卑族の拓跋氏(たくばつし)が建国した北魏(ほくぎ)でした。この「跋」という文字は特殊なので要注意です。
「鮮卑」という民族の中の「拓跋氏」という部族が建てた「北魏」という国家、という感じです。関係性がややこしいですね。

この北魏は3代目の太武帝(たいぶてい)の時代に、華北を統一(439年)したことで、五胡十六国時代を終わらせました。


それと同時期に北のモンゴル高原では柔然(じゅうぜん)と呼ばれる遊牧国家が強大化していました。この柔然は、遊牧国家でもともと使われていた王を表す「可汗(カガン)」を定着させて、のちにモンゴル帝国の「ハン」のもとになったりと、重要な役割を果たしています。

北魏はこの柔然の南下を防いで西方を支配したことで、群雄割拠で衰退していたシルクロードによる東西交易が再び活発になりました。インドから大量の僧侶が訪れて仏教が盛んになったのも北魏の時代です。
北の柔然に対抗する一方で、南では中国の農耕社会を安定させることに努めるようになっていきます。
その過程でおこわれたのが漢化政策です。漢化政策とは遊牧民の制度や習慣を漢人(中国)風にして支配をおこなうことを指します。
時の皇帝であった孝文帝(こうぶんてい)は首都を平城(へいじょう)から洛陽に移し、鮮卑の制度や習慣を漢人風なものに改めました。

・遊牧民の伝統衣装を着ることの禁止 ・中国語の使用 ・遊牧民と漢人の結婚を推奨 ・中国風の貴族制度を採用 etc.
SQ:なぜ北魏は漢化政策をおこなったのか?
北魏は鮮卑族(遊牧民)が治める国家でしたが、その国民のほとんどは遊牧民ではなく漢人だったので、国の安定は漢人の協力なしにはありえませんでした。
もしも遊牧民の制度を押し付けると、、、

遊牧民の制度の押し付けは生活が窮屈になる!
政府(北魏)を倒せー!
となって反乱や革命が起きても不思議ではないですもんね。実際に秦はこれをやって短命になってしまいましたからね。
北魏は、多数派の漢人たちとうまくやっていくために国家を漢人(中国)風にしたというわけなんです。
多数派の漢人を安定して統治するために、政治にいたるまで遊牧民の制度や風習を漢人(中国)風にする必要があったため。

ちなみに孝文帝は、均田制などの土地改革などもおこなって、国内を安定させようとしました。
北魏の分裂、滅亡
この北魏の漢化政策によって、中国文化を取り入れながら統治をおこなっていましたが、、、、
「孝文帝は国家の内情に合わせた政策をおこなえる、柔軟に対応できる人なんだな~。」
こう思った人は少しツメが甘いです。
孝文帝による漢化政策は、決して全員に受け入れられた政策ではなかったのです。
では、どういう人たちから反発があったのでしょうか?

この中国の文化を取り入れる漢化政策は、遊牧出身の人々はどう思っていたんだろう?
そうですね、もともと北魏は五胡の一角であった鮮卑族によって建てられた国家です。騎馬民族であることに誇りをもっていた武人たちからは、この漢化政策は不評だったんです。
漢化政策により、中央政府には漢人の官吏(官僚)や宦官(かんがん)が増えて、遊牧民出身の人々は肩身が狭くなっていました。

首都である洛陽は堕落している!騎馬民族の恥だ!
首都である洛陽の変化は、特に北方に残っていた遊牧民の武人たちから批判されていたんです。
このような遊牧民の間でおこった歪みが原因で起こった事件が、六鎮の乱(りくちんのらん)です。
北方の防衛にあたっていた騎馬遊牧民出身の武人たちによる反乱でした。もともと彼らは騎馬遊牧民の血統で、騎馬の戦闘が得意だったのですが、孝文帝の漢化政策によって軽視されてしまい、差別されてしまっていたんです。

もともと中央政府も騎馬遊牧民だったわけですから、武人たちからしたら許せないですよね。
この反乱は華北全域にまで発展しました。中央政府は内部の対立などもあって対応できず、軍人たちの台頭によって、北魏は「東魏」と「西魏」に分裂して滅亡してしまいました。
その後はそれぞれ政権が安定せず、実力者による禅譲によって「東魏→北斉」「西魏→北周」と国を変え、最終的には柔然にかわってモンゴル高原を支配していた突厥(とっけつ)と手を組んだ北周が華北を統一しました。


突厥(とっけつ)・・・トルコ系民族。柔然に服従していたが、良質な鉄器の生産などによって強大化し、柔然を破って覇権を握った。西のエフタル、ササン朝、ビザンツ帝国とも抗争。
この北魏から北周までの王朝を北朝といいます。
南朝(六朝)
南の東晋では、長らく北朝と接していたことで軍事的な緊張が続いていました。そうした中で、次第に軍人が台頭して政治に参入してくるようになります。
その中でも各地の反乱の鎮圧によって名声をあげた劉裕(りゅうゆう)が実権を握るようになり、420年に皇帝から禅譲されて東晋にかわって宋(そう)という王朝を建国しました。

しかし、この宋も長くは続かず、実力者の台頭による禅譲や、クーデターによって4つの王朝がつぎつぎと興亡しました。この4王朝をまとめて南朝とよびます。

南朝以前の東晋と呉(三国時代)も同じ健康(建業)を首都にしていたので、この2王朝も含めて六朝(りくちょう)と呼ぶこともあります。
呉 → 東晋 → 南朝(宋 → 斉 → 梁 → 陳)
まとめ
MQ:遊牧民はどのように中国を統治したのか?
A:多数派の漢人を懐柔させるために漢化政策を取り入れて、漢人の官僚を採用したり習慣を取り入れることで中国を統治した。
今回はこのような内容でした。

この魏晋南北朝時代に遊牧文化という新しい風が中国に入ってきました。最終的には北朝の北周が全国を統一して、その後に隋(ずい)と呼ばれる王朝が誕生します。この隋は大国中国の礎を築いた王朝でもあります。
次回は魏晋南北朝の文化をみていきたいとおもいます!それではお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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