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はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は唐のグローバル帝国の真髄である国際性と宗教についてです。唐の国際性はその後の中国にどのような影響をあたえたんでしょうか。それではみていきましょう!
MQ:唐初期の文化の特徴とは?
今回の時代はここ!
国際性
海外宗教の信仰(景教、祆教、マニ教)
唐の文化は、とにかくその国際性にあります。
唐は羈縻政策によって、いろいろな異文化圏を領土に組み込んだことで、周辺地域から使節や商人、留学生などが、首都の長安を中心に集まるようになります。
特にシルク=ロードの発達によって東西交易が盛んになり、東世界のササン朝ペルシア、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、イスラームなどの文化が唐に入ってきます。
なので長安には、仏教や道教の寺院の他にも、景教(けいきょう、キリスト教ネストリウス派)・祆教(てんきょう、ゾロアスター教)・マニ教など、東世界から入ってきた宗教寺院も建設されました。
キリスト教ネストリウス派・・・ローマ帝国で異端とされた宗派。
ゾロアスター教・・・火を聖視する。ササン朝ペルシアで国教とされた。
マニ教・・・ササン朝ペルシアで創始された、複数の宗教要素を取り入れた新宗教。
こうみると、長安にはいろいろな寺院があったことがわかりますね。
長安城地図上の左上にある大秦寺(たいしんじ)の境内には、「大秦景教流行中国碑」が建てられ、唐の時代にキリスト教の一派が信仰されていたことが、この碑文からわかっています。
外国人の活躍
この頃には、インド洋から東アジアまでの海域を結ぶ「海の道」が発達していたことで、海を使って中国を訪れるムスリム商人が増えて、中国沿岸の揚州(ようしゅう)、広州(こうしゅう)などの港町が発展しました。
ムスリム・・・イスラーム教徒
揚州は隋の時代に建設された大運河によって、洛陽や長安とつなげられて、交易拠点として発展しました。
広州は「海の道」の発展によって東西交易の拠点となり、国が徴税や交易事務を担当する市舶司(しはくし)も置かれ、発展しました。
さまざまな外国人が唐を訪れましたが、その中で優秀な外国人は、唐の官吏(官僚)として登用されることもありました。
8世紀に、日本からの留学生だった阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が、安南節度使として登用されていました。すごいですね。
ちなみに節度使は、募集された兵士を指揮する地方長官のことです。
なかでも、シルク=ロードの交易を担っていたソグド人は、軍事や経済などの分野で活躍して唐帝国を支えていました。
ソグド人については、また次回以降で詳しく扱っていきますね。
唐後半に起こった安史の乱をおこした節度使の安禄山も、ソグド人の血統でした。
SQ:当時の唐の国際性は、どのようなものだったのか?
下の文書をご覧ください。
この文書から、当時の唐の宮中では、どのような国際性が見られたのか考えてみましょう。
みなさんわかりましたか?模範解答はこんな感じです。
まあ、現代日本人が海外ブランドのファッションをして、文化を取り入れようとする、海外への憧れみたいなものと同じような感覚ですね。いつの時代も考えることは同じですね。(笑)
宗教
道教
唐の時代は、道教と仏教が国や貴族の保護をうけて発展しました。
道教は初代皇帝の李淵や2代目の李世民が信仰していたことから、国教として発展しました。仏教は、同じ拓跋国家である北魏から保護されていたことから、唐でもそれが引き継がれ、国家の保護のもとに発展しました。
この道教と仏教は度々対立して、唐の後半には仏教が弾圧を受けたりもしました。
仏教
外国との交流が盛んになったことで、外からの来訪とは逆に外の世界に留学にいく人たちもいました。
その中でも、玄奘(げんじょう)や義浄(ぎじょう)は、本場インドに留学して仏典を研究して持ち帰りました。
玄奘
唐建国当初の長安で仏教を学び始めましたが、中国での学びは飽き足らなくなって、本場インドで学びたい意欲が強くなっていきます。
現代でいう日本の英語教育ではモノ足らなくなって、英語圏に留学にいくような感覚ですかね。
ですが、当時の唐は海外への個人旅行が禁止されていました。ですが熱意がそれに勝ってしまって、玄奘は昼間隠れて夜行動することで、秘密裏に出国して陸路でインドまで向かってしまったんです。
すごい熱意ですね。(笑)
当時のインドはヴァルダナ朝のハルシャ王の時代で、仏典の研究が行われていたナーランダー僧院で5年間、仏典について学びました。
唐に帰ってからは、インドの仏典の漢訳に従事して、中国の仏教学の水準を高めるのに貢献しました。
玄奘の17年にも及ぶ旅行を弟子たちがまとめたのが『大唐西域記(だいとうさいいきき)』です。これによって、当時のインドや西域の状況が詳しく伝えられているんです。
義浄
義浄は、玄奘がインドへ渡った7世紀前半から時が経って、7世紀後半に海路を使ってインドへ留学に行った人物です。
玄奘と同じナーランダー僧院で仏典を学んで、多くの仏典を持ち帰りました。
インドに渡ってから唐に帰るまでの24年間を記した旅行記は『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』といわれ、インドだけでなく、帰りに寄った東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国で、仏教が盛んであったこともを伝えられています。
この2人は陸路と海路という違いはあれど、インドや西域、東南アジアの状況を伝えると共に、仏教学の基準を高めて発展に大きく貢献しました。
中国宗派(禅宗、浄土宗)
インドから持ち込まれた仏典などによって、中国では独自に宗派もうまれました。
禅宗は、経典を学ぶことよりも座禅を組んで瞑想することで、解脱を目指す宗派です。拳法で有名な少林寺などが有名ですね。
この禅宗の中でも、臨済宗や曹洞宗が日本の鎌倉時代に伝わりましたね。
浄土宗は、苦しい世の中から阿弥陀仏(あみだぶつ)に救済されることを信じて、極楽浄土に行こうとする宗派です。
自らの修行を基本とする禅宗とは異なって、信仰が他力本願で作法が簡単なので民衆に広がりました。
これも禅宗と同じく、浄土宗や浄土真宗として鎌倉時代の日本に伝わりました。
儒教
SQ:なぜ唐の時代に儒学の研究が盛んになったのか?
唐の時代になると、儒学(儒教)が重要視されて、研究されるようになります。
ではそれはなぜでしょう?
それは隋の時代に導入された科挙が大きく関係しています。
隋の時代から科挙が導入されたことで、試験科目として重視された儒学が盛んに学ばられるようになったんですね。
儒学の中でも特に唐の時代は、訓詁学(くんこがく)が重視されて、科挙の基準となる儒学が考えられました。
唐の初期に活躍したのが、孔穎達(くようだつ)です。隋の時代に科挙に合格して官吏となって、唐の李世民(太宗)にも仕えて活躍しました。
当時、経典だった「五経」の解釈はバラバラで、科挙の合格基準もバラバラになってしまっていました。なので、唐の李世民はこの孔穎達に統一された解釈書の作成を命令しました。
それによってできたのが『五経正義』です。これ以後、この書物が国が指定する儒学の教科書となって、科挙の基準になりました。
文学
唐の時代は、家柄に恵まれていない人が出世するには、科挙によってチャンスをつかむしかありませんでした。
なので、科挙の試験内容でもあった定型詩が流行しました。
その最高峰だったのが、李白(りはく)と杜甫(とほ)などの詩人でした。
李白は唐後半に、皇帝に仕えた経験も持つ詩人で、「詩仙(しせん)」と呼ばれたほど才能に恵まれた詩人でした。
晩年は若き頃の杜甫と一緒に自由気ままに暮らしたり、安史の乱に巻き込まれて投獄されるなど、波乱な人生を送った人物でもありました。
安史の乱・・・唐後半に、節度使の安禄山を中心とした反乱。
杜甫は、若き日を李白と共にすごして、李白とともに詩人の最高峰とされ「詩聖(しせい)」と称されました。
安史の乱が起こった際に、長安の荒廃を呼んだ詩は、日本でも有名な詩ですね。
李白や杜甫の詩や詳細については、下のこちらを参考にしてください。
資料:「世界史の窓」李白 (y-history.net)、杜甫 (y-history.net)
他にも、唐後半に白居易(はくきょい)が書いた皇帝玄宗と楊貴妃(ようきひ)の悲しい恋模様を描いた『長恨歌(ちょうごんか)』なども有名ですね。
まとめ
MQ:唐初期の文化の特徴とは?
A:周辺諸国から使節や留学生・商人などが唐に訪れ、唐からの留学生が文化を持ち帰ったりと、さまざまな文化が融合した国際性豊かな文化が特徴であった。加えて、科挙の影響から定型詩を詠む文学も盛んにおこなわれた。
今回はこのような内容でした。
今回はこれまで唐についてやってきましたが、次回からは唐の近隣諸国は、唐の影響をどのように受けながら国家形成をしたのかを見ていきます。それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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