世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
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前回はこのような内容でした。
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今回はアケメネス朝滅亡後の西アジア諸国についてです。パルティアとササン朝の繁栄はいったいどんな要因があったのでしょうか?
それではみていきましょう!
MQ:パルティアとササン朝の繁栄にはどんな要因があったのか?
今回の時代はここ!
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セレウコス朝(ギリシア系)
SQ:なぜ西アジアでギリシア系諸国が誕生したのか?
前330年のアケメネス朝滅亡に大きく関わったのは、ギリシアのアレクサンドロス大王の東方遠征でしたね。
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アレクサンドロス大王はアケメネス朝に限らずエジプトも征服し、インド西北部までまたがる大帝国を築きました。
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これによってギリシアとオリエント文化が融合したヘレニズム文化が花開きます。
しかし、アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の争いが起き、将軍の1人であったギリシア人セレウコスによって建てられたのがセレウコス朝シリアだったんです。
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セレウコス朝はイランを含めた旧アケメネス朝ペルシアの領土の大半を支配していました。
でかいですね。
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旧ペルシア帝国(アケメネス朝)領の大半を支配していましたが、セレウコス朝はギリシア人が建てた王朝なので、ペルシャ人王朝ではないことに注意しておきましょう。
セレウコス朝はギリシア人の移住やギリシア風の都市建設を推進して、ギリシア文化を西アジア一帯に浸透させます。
この影響によって、その後も西アジアにギリシア系諸国が誕生していくことになるんですね。
アレクサンドロス大王の支配によってギリシア文化が流入し、その後のセレウコス朝でもギリシア風の国家建設がされたため。
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バクトリア(ギリシア系)
独立と拡大
ギリシア風の国家建設をおこなったセレウコス朝でしたが、王朝の権威が弱まると各地で独立の動きが出てきます。
これは広大な領土をもつ王朝ならどこでも起こる問題ですね。
そしてセレウコス朝の中でも、インドとの交易の玄関口だったバクトリア地方の知事が独立して誕生したのがギリシア系のバクトリアでした。
SQ:なぜバクトリアは独立することができたのか?
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バクトリアがあった地域の特徴を押さえると、わかるかもしれませんね。
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先ほど「インドとの交易に玄関口」という説明があったので、交易による経済力があった地域だったから、国家として独立できたと思います!
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すばらしい!バクトリアは東西交易の要衝だったので、ヒトとモノ、カネが集まりやすく経済的に恵まれていた地域だからこそ独立できたんですね。
ちなみに独立した際に、セレウコス朝に侵攻されますが2年間にわたって攻撃に耐えて、バクトリアは独立を勝ち取っているんですよ。
インドとの東西交易の要衝として経済的に恵まれた地域であったため。
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バクトリアはその勢いのまま、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じて北インドまで領土を拡大していきました。
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ガンダーラ美術への影響
パルティアもギリシア人国家であったため、ヘレニズム文化が栄えました。
その文化はお隣のクシャーナ朝のインドにまで伝わり、ガンダーラ美術の誕生に大きな影響を与えました。
このようにバクトリアは東西文化融合に一役買っていたんですね。
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滅亡
しかし、拡大後は王朝内での権力争いやパルティアの侵攻などに苦しんで弱体化し、最終的にはスキタイ系遊牧民によって滅ぼされました。
パルティア(イラン系)
独立・拡大
バクトリアが独立した同じころ、セレウコス朝から独立した王朝が他にもありました。
それがイラン系遊牧民が建てたパルティアです。
イラン高原のパルティア地方の族長だったアルサケスによって独立して誕生した王朝でした。
パルティアはセレウコス朝と争いながら領土を拡大していき、メソポタミアを含むイラン全土を統一するまでに至ります。
西はローマ帝国、東はバクトリア、クシャーナ朝、大月氏と接するほどの大国へと成長していきました。
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その際に西のローマ帝国と対立し、その前線地帯(メソポタミア)に軍事都市が築かれました。そこが後の首都となるクテシフォンです。
クテシフォンは以後ササン朝の首都としても使われました。
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このクテシフォンが繁栄したことで、それまでメソポタミアの中心だったバビロンは衰退、消滅してしまいました。
パルティアは西のローマ帝国とはたびたび争っていましたが、4倍ものローマ将軍のクラッスス軍を撃破して敗死させるなど、善戦していたんですよ。
あのローマ帝国をです。強いですね。
「絹の道(シルク=ロード)」による繁栄
パルティアは、東西を結ぶ交易路「絹の道(シルク=ロード)」を押さえ、交易商人たちを保護したことで、ローマと中国(漢)との東西交易の利益を独占することに成功しました。
西アジアで最初に中国と交流をもった王朝でもあり、中国では「安息(あんそく)」として記されています。
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「安息」はパルティア建国者の「アルサケス」の音から取られています。
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衰退、滅亡
東西交易で繁栄したパルティアでしたが、ローマ帝国との抗争で徐々で疲弊してしまいます。
最後はローマ皇帝トラヤヌスにクテシフォンを占領され、イラン農耕民のササン朝によって滅ぼされました。
ササン朝ペルシア
アルダシール1世
パルティアの地方政権から、独立したのが農耕イラン人のササン朝でした。
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パルティアは遊牧系イラン人だったのに対して、ササン朝は農耕系イラン人だったことに特徴の違いがありますね。
独立後、父から地位を受け継いだのが建国の租アルダシール1世です。
アルダシール1世はパルティアとの戦いに勝利し、首都クテシフォンを征服してパルティアを滅亡させてしまいます。
クテシフォンはその後もササン朝の首都として機能しました。
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アルダシール1世はパルティアを征服後、、、
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私は「諸王の王」である。
アケメネス朝ペルシアの後継者でもある。ペルシア帝国を再興するのだ!
この後、国内の支配権を正当化するためにアケメネス朝が保護していたゾロアスター教の国教化なども行いました。
ということで、ササン朝はペルシア帝国の継承者の意味で「ササン朝ペルシア」と呼ばれるようになります。
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シャープール1世
アルダシール1世の後を継いだのが第2代のシャープール1世です。
このシャープール1世は「イラン人および非イラン人の諸王の王」を自称して、ササン朝をさらに巨大化させていきます。
まずは東のクシャーナ朝を服属させて東西交易路を押さえて莫大な利益を手に入れます。
加えて西でもシリアに進出してローマ帝国軍と対峙し、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にしてしまうほどの勝利を手にしました。
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ウァレリアヌスは軍人皇帝の一人で、捕虜になったことはローマ帝国に衝撃を与えたそうです。
これらの戦績によってササン朝は大帝国へと拡大していきました。
シャープール1世はゾロアスター教の保護を継続しましたが、当時新しく台頭していたマニ教にも保護を与えて宗教に寛容的な政治をおこなっていました。
ホスロー1世
その後しばらく経ち、5世紀の後半になるとササン朝を揺るがす敵が侵入してきます。
中央ユーラシアの遊牧民国家エフタルの侵攻です。
エフタルとの戦いでササン朝の王が殺されるなど、国内は混乱してササン朝は一時衰退してしまいました。
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エフタルはインドのグプタ朝にも侵攻して衰退させていましたね。こうみるとエフタルは西・南アジアに結構な影響を与えていますね。
そんな中で即位したのが、後にササン朝の全盛期を築いたホスロー1世です。
東側・・・エフタルと対峙
西側・・・ビザンツ(東ローマ)帝国と対峙
というふうに、当時はてんやわんやの状況でした。
●東側:エフタル
ホスロー1世はまず、ササン朝からみてエフタルの後方(東側)に位置していた突厥(トルコ系遊牧民)と同盟を結んで、エフタルを挟撃して滅亡させることに成功します。
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突厥はこれの報いとしてソグディアナの支配と商人のソグド人の保護を行っていましたね。
●西側:ビザンツ帝国
長らくローマ帝国(途中からビザンツ帝国)と西側で抗争していましたが、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスが地中海制圧に気を取られている間にホスロー1世は戦いを有利に進めていきます。
そしてエフタルを滅ぼした後に、ビザンツ帝国と50年の和平条約を結ぶことに成功して西側国境の安定に貢献しました。
東西を安定させた後には、現在のアラビア半島のイエメンを支配してビザンツ帝国とインドとの交易路を押さえて経済的にも成長させました。
このように領土と経済を拡大させてホスロー1世の時代にササン朝は全盛期を向かえたんですね。
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衰退、滅亡
ホスロー1世の時代にササン朝は最大領域に達しました。
しかし、度重なる軍事遠征によって国内では重税が課されるほど財政が悪化していきました。
加えて、ホスロー1世の死後は王宮で派閥争いが起きて内乱にまで発展していったなど、ササン朝は徐々に衰退してしまいます。
そして642年にアラブ人たちにニハーヴァンドの戦いに敗れて支配されてしまい、約400年にわたるササン朝は実質的に崩壊してしまいました。
SQ:アラブ人が台頭できた理由とは?
アラブ人はもともとアラビア半島に住んでいる民族でした。
この地域は砂漠で特に名産物もないような土地でした。
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しかし、アラビア半島の北ではササン朝とビザンツ帝国が長い間戦争をおこなっていました。
この戦争でもともと使われていた東西交易路が使えなくなり、商人たちは戦争をさけるように南のアラビア半島経由で交易をおこなうようになります。
それによってアラビア半島沿岸(メッカ、メディナ)にモノと富が集まるようになってアラビア人たちが台頭するようになったんです。
そして、そのような地域から世界を圧巻させるイスラーム教が誕生するんです。
なのでササン朝は自らがおこなっていた戦争の影で、滅亡に追い込む勢力を育んでしまったんですね。
ササン朝とビザンツ帝国との抗争によって交易路がアラビア半島経由に移り、それによってアラブ人のもとにモノと富があつまって台頭することができた。
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まとめ
MQ:パルティアとササン朝の繁栄にはどんな要因があったのか?
A:いずれも西側文明(ローマ帝国、ビザンツ帝国)と東側文明(中国、インド)の間に位置し、東西交易路を押さえられたことが繁栄できた要因である。
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今回はこのような内容でした。
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次回はイラン文明の特徴についてやっていきます。パルティアやササン朝の文化はどのような影響を世界に与えたのでしょうか?
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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