世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回の流れは、こんな感じでしたね。
今回は再びメソポタミアを統一し、繁栄を支えたあの人物が登場します。なぜ法典が作られたか、についても解説していきます。
MQ:ハンムラビ法典はなぜ作られたのか?
時代の流れはこんな感じです。
バビロン第1王朝とハンムラビ法典
建国
アッカド人が滅ぼされてからは、シュメール人が勢いを取り戻してウル第3王朝を建てます。
しかし、そこに西と北から侵入してきたのが、セム語系の遊牧民アムル人でした。
セム語系・・・現在のエチオピア人、アラブ人など
そして、しばらく闘争が続く混乱の後・・・
前19世紀(紀元前1800年代)にアムル人がバビロンを首都に、バビロン第1王朝を築きます。
そして第6代ハンムラビ王の時代に、周辺諸国を征服しメソポタミア統一に成功しました。
ハンムラビ王は優秀だったようで、各地に運河を造って治水・灌漑事業を推進して国家を繁栄させます。
当時の運河は最大の交通網。現在でいう高速道路です。つまりインフラ設備を充実させたんですね。
ハンムラビ法典
ハンムラビ王の最大の功績といえばハンムラビ法典ですよね。
では、この法典の何がすごかったでしょうか?その特徴と一緒にみていきましょう。
SQ:ハンムラビ法典の特徴とは?
みなさんは、この条文を読んでみてどう思いましたか?
きっとほとんどの人が、「え、厳しくね?」「なんか怖い。」と思いませんでしたか?
ではどのような法典だったのか、その特徴から見ていきましょう。
まずはこの条文を見てください。
196.他人の目をつぶしたならば、自分の目をつぶさなければならない。
まあ、現在ではありえないほど残酷に聞こえる条文ですね。
この条文は「目には目を、歯には歯を。」の言葉でも有名な条文です。
ちなみに「歯」についての条文も、200条に196条と同じような内容が記されています。
この条文からわかることは、「やられたらやり返す!」の原則。
そう、復讐法の原則です。
日本の戦国時代に、武田信玄がやっていた「喧嘩両成敗」と同じ原理ですね。「自分に嫌なことは相手にもするな。」ということです。
やられたらやりかえす!復讐法の原則
続いてはこちら、
199.他人の奴隷の目をつぶしたり、他人の奴隷の骨を折ったならば、奴隷の値段の半額を支払わなければならない。
おっと、先ほどの復讐法の原則が出てきたのに矛盾していますね。
これはなぜでしょう?
この条文では「奴隷」の扱いについて注目してみましょう。
先ほどの196条のような復讐法の原則が当てはまるのは、あくまで「同じ身分同士」の場合に限っているんですね。
当時は「上層自由人」→「一般自由人」→「奴隷」という3階層に身分が分かれていました。
特に奴隷は、「人」ではなく「誰かの所有物」という扱いだったんです。
現代でいう「基本的人権」がなかったんですね。
なので、みなさんが所有している「スマホ」。
誰かに壊されても、その人のスマホを壊したりしないですよね。
代わりに修理代だけ出してもらえばいいんですから。
当時の奴隷はその感覚で見られてたんですね。
奴隷はモノ扱い!被害者の身分によって刑罰に差がある身分法
以上のことから法典の特徴はまとめるとこんな感じ。
ハンムラビ法典の特徴については理解できましたが、そもそもなぜこんな「痛々しい刑罰」が載っているのでしょうか?
条文だけ読むと、ハンムラビさんがとても厳しい人に思えてきますね。^^;
しかし、そこには国の繁栄を一生懸命考えた統治者としての姿がありました。
当時、バビロン第1王朝の統一後まもなく、勝手な復讐や部族の独自ルールで国内の問題が解決されていました。
それでは復讐が復讐を呼び、憎しみが憎しみを生み、国内で争いが絶えず治安悪化が拡大してしまいます。
そこで、ハンムラビはシュメール法をもとに、勝手な復讐や解決を禁止し、”国が被害者に代わって加害者を罰する”というルールを作りました。
シュメール法・・・ウル第3王朝期に作成されたもの、ウルナンム法典ともいう。
これがハンムラビ法典です。
現在でも、各国の刑罰が国内の犯罪防止の役割を担っていますね。
当時、拡大しつつあった「個人の財産所有」や「経済格差」、「人口増加」に対応するための新ルールの役割もあった。
だって国が相手じゃ誰も勝てないし、文句も言えませんからね。(笑)
しかもハンムラビは過去の事例を取り上げることで、「法のもとの平等」を実現させたのです。
人によって罰の大きさが変わると不満が出てきますからね。そこは公平に。
このようにして、ハンムラビは事例をもとにした刑罰を作ることで、国内の治安維持をはかろうとしたんです。
なにかハンムラビの当時の類まれない努力がみえてきますね。
ヒッタイト、カッシート、ミタンニ
ハンムラビ王の時代に栄えた文明は、周辺の諸民族にも影響を与えました。
思い出してみてください。メソポタミア文明がどのような特徴であった覚えていますか?
そうですね。メソポタミアは多民族が入り乱れる複雑な歴史でした。
影響をうけた周辺民族は、やがてその富を求めてメソポタミアに侵入・移住を繰り返えすようになってしまいます。
ヒッタイト
そのうちに、アナトリア高原(小アジア)には強力な国家を築いたヒッタイト人がいました。
この民族の最大の特徴は鉄器の使用です。
当時はまだオリエントには青銅器しかなく、鉄製のものがなかったんです。
●青銅・・・銅鉱石と錫(すず)の合金(現在の10円玉とほぼ同じ) ← 融点約700℃ 特徴:融かしやすいが、少しもろい
●鉄・・・鉄鉱石 ← 融点約1200~1500℃ 特徴:融かすには高温にする技術がいるが、加工しやすく硬い
当然、鉄の方が硬くて丈夫です。ぶつかり合うと青銅は折れ曲がってしまうでしょう。
それに加えてヒッタイト人は鉄と馬を利用した戦車も発明しました。
戦車・・・古代では戦闘用の二輪馬車のことを指す。
機動力抜群で突進力もあり弓での遠距離攻撃も可能なので、当時はバビロン第1王朝も度肝を抜かれ手を焼いたことでしょう。
しかもずるいのが、ヒッタイトはこれらの技術を漏れないように秘密にしてたんですね。そりゃ強い。
前16世紀(紀元前1595)にバビロンに進撃し、なんとバビロン第1王朝を滅ぼしてしまいます。
あれほど繁栄した国家があっけなく滅亡したのにビックリですね。
ヒッタイトは全盛期を迎え、エジプト新王国ともシリアをめぐって激しく抗争します。
前1286年ごろには当時のエジプト(ラメセス2世)とのカデシュの戦いの後、エジプトと史上初の国家間の講和条約を結んでいます。
しかし、その後は衰退していき、前12世紀ごろに「海の民」の襲来によってヒッタイトは滅亡してしまいます。
「海の民」・・・民族系統不明 エジプトやギリシア文明にも侵入し、オリエント史に大きな変動をもたらした。
この「海の民」、各国を蹂躙したわりには資料が少なく謎が多いのです。何か世界史のロマンを感じるは私だけでしょうか。(笑)
これによって、ヒッタイトが秘密にしていた製鉄の技術がひろまり、オリエントに鉄器時代が訪れました。
カッシート、ミタンニ
バビロン第1王朝滅亡後のメソポタミア南部にはカッシート人(民族系統不明)が侵入し、バビロニアを約400年間にわたって支配していました。
メソポタミア北部ではフルリ人(民族系統不明)がミタンニ王国を形成し、ヒッタイトに服属するまで強大な国家でした。
服属・・・服従し従うこと
私が高校生の時は「北のミタンニ、南のカッシート!」とリズムで覚えていました。
こうしてオリエントは前15~前14世紀以降、諸王国が並立し複雑で混乱する時代が続くことになります。
まとめ
MQ:ハンムラビ法典はなぜ作られたのか?
A:国内の勝手な復讐や解決を禁止し、国が被害者に代わって加害者を罰するという「法のもとの平等」を確立させ、治安を維持させるために作られた。
今回はこのような流れでした。
この後、混乱の中から、次の時代をリードする新しい勢力が台頭し、新たな秩序を作り上げます。
次回は「メソポタミアの宗教と文化」についてやっていきます。
メソポタミアが今日に残した文化とはどのようなものなのか?一緒に見ていきましょう!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」 by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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