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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は世界史でも指折りの大帝国となったモンゴル帝国についてです。この時期に大帝国が成立したのにはどんな背景があったのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜモンゴル帝国のような巨大な帝国が出現したのか?
チンギス=カンと大モンゴル国の建国
大モンゴル国建国
今回の舞台は中央ユーラシア(モンゴル高原)から始まります。

中央ユーラシアでは10世紀に混乱に乗じてキタイ(契丹、遼)が建国されて12世紀まで支配が続いていました。
しかし、金と北宋の挟撃によってキタイ(契丹、遼)が滅亡して、西の中央アジアに逃れて西遼(カラキタイ)が建国されましたよね。
それによって中央ユーラシアでは統一国家が解体されてしまったので、遊牧民の間で権力闘争が起きます。

遊牧民と一言で言っても、当時は東はモンゴル系、西はトルコ系にわかれて、大小たくさんの部族・集団に分かれて闘争していたそうです。

しかし、13世紀になると一人のカリスマによって大きく勢力図が変わります。
それがモンゴル高原の東北部で頭角を現したモンゴル系のテムジンと呼ばれる人物でした。

このテムジンが後にモンゴル帝国の基礎を作ったチンギス=カン(ハン)です。
テムジンは次々とモンゴル系遊牧民を制圧していき、1204年にモンゴル高原を統一してしまいます。
そして統一したテムジンは、クリルタイ(部族長の集会)で君主を意味するカン(ハン)の称号が与えられて、名前をチンギス=カン(ハン)として君主に即位することになりました。

このクリルタイではカンの選出の他に、遠征などの重要なことを決める際に開かれていました。

今までの教科書では「チンギス=ハン」と表記されることが多かったですが、もともとの発音は「カン」で、時代が進んでいく中で「ハン」と呼ばれるようになっていったそうです。
この即位によってモンゴル高原に誕生した統一国家を大モンゴル国と言います。


千戸制
チンギス=カンがまず取り組んだのが、遊牧民集団の再編成でした。
再編成によって作られたのが軍事・行政組織の千戸制と呼ばれるものです。
この千戸制とは以前からあった部族制を再編成したもので、具体的な構成は以下の通りになります。
・1戸・・・1家族
・10戸×10=100戸
・100戸×10=1000戸 ← これで1単位
・それぞれに十戸長、百戸長、千戸長を置いて、戦時には千戸から1000人の兵士が徴収。
この千戸制では千戸ごとにカンから牧草地を指定されて集団生活を送り、戦時ではないときはそのまま行政組織として活用されました。
チンギス=カンは自らも95の千戸を所有して他に親衛隊を作るなど、強力な騎馬軍団を編成して国家の基礎を作っていきました。


当時の騎馬隊の戦闘風景は映画『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』で観ることができます。

チンギス=カンの領土拡大
チンギス=カン率いるモンゴル軍は、千戸制のもとで周辺諸国に対して征服戦争に乗り出します。
SQ:チンギス=カンの征服戦争の目的とは?

ではなぜ、チンギス=カンは周辺諸国に対して征服戦争に乗り出したんでしょうか?
ヒントは大モンゴル国はモンゴル高原に位置する新興国家だったということです。
おさらいですが、大モンゴル国はモンゴル高原に位置する新興国家でしたよね。
新興国家なので、まだまだ国家運営は不安定だったので、安定させるためには”お金(財源)”が必要ですよね。

そこで大モンゴル国の位置を見てみるとモンゴル高原にありますね。

当時、ユーラシア大陸には東西にある道が2本ありました。何か覚えてみますか?
当時、ユーラシア大陸には交易路として使われていた「草原の道」と「オアシスの道」が通っていました。
この2本を合わせたシルク=ロードでは交易が活発におこなわれていました。
交易が活発になっているということはお金がたくさん動いているということです。
なので、そのシルク=ロードを抑えて商人の交易活動を保護すれば、莫大な利益を受けることになります。
そこに目を付けたチンギス=カンが、財政安定のために東西の交易路を支配する周辺諸国に侵攻していったということなんです。
東西交易路を支配して財源を確保するために征服戦争に乗り出した。

そのような理由で征服戦争を始めたチンギス=カンは、まず初めに東方に位置していた金への遠征をおこないます。
モンゴル軍は金を圧倒して3年ほどで金の首都を占領してしまい、金王朝は開封まで後退することになりました。
東の勢力を制圧した後、チンギス=カンは西方の中央アジアの強国ホラズム=シャー朝と国交を開くために使者を派遣します。
ホラズム=シャー朝とは、セルジューク朝のマムルーク総督が独立してできたトルコ系イスラーム王朝でした。
そのホラズム=シャー朝は、チンギスからの使者の要求を拒否して殺してしまうんです。
この出来事に対してチンギス=カンは西方への遠征を決意することになります。

実際はこの数年前から西方遠征の準備をしていたので、これらの事件は侵攻するために口実だったかもしれませんね。
その際、ムスリム商人らの協力を得ることで中央アジア・イラン方面の遠征を優位に進めようとします。

ムスリム商人は交易ネットワークを持っているので、周辺諸国の情勢にも詳しかったんでしょうね。財力もあったでしょうから、ムスリム商人とチンギス=カンの間で何かしらのギブアンドテイクがあったんでしょうね。
チンギス=カンは中央アジアのオアシス地帯を次々と制圧していき、ホラズム=シャー朝に迫っていきます。
ホラズム=シャー朝の王族は撤退しながら約10年間抵抗を続けましたが、最終的にチンギス=カンの前に滅亡してしまいました。

チンギス=カンはホラズム=シャー朝への遠征の帰りに西夏にも侵攻します。
これは西夏が西方遠征への参加を拒んだことを口実におこなわれた侵攻でした。
西夏の首都を包囲して、滅亡まで目前のところまでいきますが、ここでチンギス=カンは病気にかかってしまい、ほどなくして亡くなってしまいました。

ここから先は子どもたちに託されますが、広大な領土拡大をおこなって交易路を抑えたことでモンゴル軍はさらなる拡大を続けることになります。


子孫による領土拡大

オゴデイ
チンギス=カンの死後、クリルタイによって次の君主に選ばれたのはチンギスの第3子のオゴデイでした。

オゴタイはカンよりも上の立場(皇帝)である”カアン”を称してオゴデイ=カアンと名乗りました。

なぜ第3子のオゴデイが君主に選ばれたかについては少し長くなるので、「世界史の窓」チンギス=ハンををご覧ください。
オゴデイ=カアンは西方遠征で一時的に侵攻がおさまっていた金を完全に支配するために遠征をおこないます。
モンゴル軍は数では圧倒的に不利でしたが、山での長期戦に持ち込んで、金軍を食糧不足に陥らせます。
そこでモンゴル軍が反転攻勢し、金軍はほぼ全滅するほどの大敗を喫してしまいます。

当時、金は人口増で食糧不足や疫病が社会問題になっていたんです。そうした社会状況も敗戦の原因となっていたんですね。
金の皇帝は撤退を続けましたが、最終的には自害に追い込まれて金王朝はオゴタイの前に滅亡することとなりました。

その後、オゴデイは新都カラコルムを建てて、官僚制や駅伝制(ジャムチ)を整備するなど、モンゴル帝国の基礎を作りました。


バトゥ(キプチャク=ハン国)
オゴタイはさらにチンギス=カンがやり残した西方拡大の事業を引き継ぐために、バトゥに西方大遠征を命じます。


バトゥはチンギスの長男ジョチの息子でした。もともとこのジョチに西方を統治させる予定だったそうなんですが、途中でジョチが亡くなったことでとん挫していたみたいです。
バトゥ率いるモンゴル軍は、周辺の遊牧民を吸収しながら勢力を拡大して、ロシアのキエフ公国に侵攻していきました。
次々と都市が陥落していき、遠征開始から5年ほどで首都キエフまで堕としてキエフ公国を滅亡させてしまいます。

この時のキエフ公国侵攻の猛威は、ロシア映画「フューリアス 双剣の戦士」で見ることができます。ぜひご覧ください。

キエフ公国を制圧したバトゥはその後、軍を二手にわけて一方をハンガリー、もう一方をポーランドに向かわせます。
バトゥ率いる部隊はハンガリー王国に侵攻して、首都ブタペストを破壊してハンガリー王国を壊滅させます。
もう一方の部隊はポーランドに侵攻して、ポーランド・ドイツ連合軍とワールシュタットの戦いを繰り広げました。
ドイツ・ポーランドは重騎兵による一騎打ちが戦いの中心だったので、モンゴル軍は軽装の騎馬隊の機動力で敵を翻弄して大勝利をおさめることになりました。

ハンガリー、ポーランドと攻め落としたバトゥ率いるモンゴル軍はヨーロッパ諸国を恐怖に陥れます。
その勢いのままオーストリアのウィーンに迫ろうとしたしましたが、そのタイミングでカアン(皇帝)のオゴタイが亡くなってしまいます。
報告を受けたバトゥは次のカアンを決めるクリルタイに出席するために、遠征を中止して退却することにしました。

このオゴタイが亡くなる事件によってヨーロッパ諸国は救われる形になりました。退却した時はホッとしたでしょうね。
退却したバトゥでしたが、なんとモンゴル高原には戻らず、サライという都市に軍を留めてキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)という王朝を建国したんです。

「キプチャク」とはバトゥが支配した地域に住んでいたトルコ系遊牧民で、モンゴル人がそれに同化していったので、キプチャク=ハン国と呼ばれています。
ちなみにジョチ=ウルスとは「ジョチ」がチンギスの長男の名で、もともとジョチに西方を支配させようとしていたからで、「ウルス」は国を表します。



ではなぜバトゥはモンゴル高原まで戻らなかったんでしょうか?
まずは政治の問題です。
バトゥとオゴタイは軋轢(あつれき)があったといわれていて、オゴタイの死後すぐに長男が即位したので、バトゥは身の安全のために戻らず留まったのではないかと言われています。
そしてもう一つは自国の発展のためです。
父であるジョチ(チンギスの長男)から引き継いだ土地を発展・繁栄させるために、クリルタイよりも統治を優先させたのではないかと言われてます。
これらの理由から、バトゥは戻らずに留まってキプチャク=ハン国を建国したのではないかというわけなんです。

フラグ(イル=ハン国)
その後、3代目カアンが急死してしまい、4代目カアンに就いたのがモンケでした。


モンケはバトゥの西方遠征に参加していて、バトゥの支持を受けてカアンになりました。その際に政敵だったオゴタイ家とチャガタイ家(チンギスの次男家)を処刑・追放して権力を握ったそうです。
モンケ=カアンは弟だったフレグに西アジア遠征、クビライに東アジア遠征を命じます。
フレグは西アジアのイスラーム勢力を次々に支配していき、都バグダードを陥落させて最後のカリフを殺害したことで約500年続いたアッバース朝を滅ぼしてしまいました。
しかし、その後モンケが亡くなってしまったので戻ろうとしましたが、兄のクビライがカアンに即位したので、フレグは西アジアに留まって統治に専念することにしました。
これによって建国されたのがイル=ハン国(フレグ=ウルス)という王朝です。

「イル=ハン」とは「部族の王」や「国王」という意味になります。
その後、フレグ率いるイル=ハン国はエジプトやアラビア半島を支配していたマムルーク朝と対立しますが敗れてしまい、拡大は西アジアでストップすることとなりました。

その後はイスラーム化が進んでいくんですよね。


チャガタイ(チャガタイ=ハン国)
チンギス=カンの頃に少し話を戻します。
チンギスはホラズム=シャー朝を滅ぼして中央アジアを支配しましたよね。
その後、その中央アジアの支配を任されたのが次男のチャガタイでした。


しかし、その後チャガタイ家はモンケのカアン即位に反対して処刑されたり、クビライの時に支配者が反乱(ハイドゥの乱)を起こすなどして混乱が続きました。
そして100年弱経った時にようやくカアンから独立政権として認められて、成立したのがチャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)と呼ばれる王朝でした。


クビライ(元)
4代目カアンのモンケの際、フレグが西アジア遠征をおこないましたよね。
それとは別でもう一方、東では弟のクビライが東アジア攻略を攻略を命じられていました。

クビライ率いるモンゴル軍は、チベットや雲南を攻略し、南宋への侵攻に向けて準備をしていきます。
しかし、そのタイミングでモンケ=カアンが亡くなってしまいました。
親族間で後継者問題を抱えていたクビライは、モンケの死後直後に独自のクリルタイの開催を強行して、5代目カアンに就いてしまいます。
しかし、それを許さなかったモンケの末っ子と後継者争いになりますが、これに勝利してカアンの座を確実のものにすることに成功します。
その後、クビライは自分の領土を「元(げん、大元ウルス)」と中国風に改めて中国支配に本格的に乗り出し、南宋を滅ぼして中国全土を支配することとなりました。


モンゴル帝国の成立
こうして、チンギスから続くモンゴル勢力による領土拡大で、東西ユーラシアにかけてモンゴル人による政権(ウルス)が複数並び立ちました。
各政権(ウルス)は、独立性が強くてお互いに戦争になることもありましたが、基本的にはカアンを最高権力としてゆるやかに連合していました。

最終的にはクビライ=カアンのもとで元(大元ウルス)が各政権を統合する権利を持っていました。
この連合によってモンゴル勢力は世界史上屈指の規模で成立することになったので、モンゴル帝国と呼ばれるようになりました。
このモンゴル帝国は広大だったため、あらゆる民族や宗教を抱え込んでいました。
特にモンゴル帝国の西側ではモンゴル人君主なども含んだイスラーム化やトルコ化が進んでいくことになります。

まとめ
MQ:なぜモンゴル帝国のような巨大な帝国が出現したのか?
A:モンゴル高原に権力の空白が生じたことを背景に、チンギス=カンが台頭した。彼は千戸制を導入して効率的な統治と組織的な軍制を整え、強力な騎馬軍団を編成して急速に領土を拡大した。その後、彼の子孫たちは東西交易路であるシルク=ロードを活用して勢力を伸ばし、それぞれの地域にモンゴル政権(ウルス)を樹立した。これらの政権は独立性を保ちながらも、カアンの権威のもとで緩やかな連合体を形成していた。このようにして、ユーラシア全体を覆うような巨大なモンゴル帝国が出現したのである。

今回はこのような内容でした。

次回は第5代カアンのクビライが治めていた元についてです。モンゴル帝国の支配は中国にどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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