世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は、長かった魏晋南北朝時代が終わり、隋という統一国家が現れます。しかし、この隋はわずか2代38年で滅んでしまいました。なぜ隋は早くに滅んだのか。そして隋はその後の中国にどんな影響を与えたのか。
それでは一緒に見ていきましょう!
MQ:隋はなぜ早くに滅亡したのか?そしてその後の中国王朝に与えた影響とは?
今回の時代はここ!
やっと時代が少し進みましたね。(笑)
隋の建国と中国統一
まず、長く続いた魏晋南北朝時代は、このような流れでしたね。
6世紀末ごろの中国は、北朝の北周と北斉、南に南朝の陳が隣接し合って、勢力争いをしていました。
そんな中、579年に北朝の北周が北斉を滅ぼして華北の統一を果たします。「周」と「斉」の違いだけなので覚えるのが難しいですね。(笑)
その統一に大きく貢献したのが、鮮卑族出身の楊堅(ようけん)という将軍でした。この人物が後に隋(ずい)を建国します。
彼は外戚でもあったため、北周の最高位に就いて政治の実権を握っていきます。当時の皇帝は警戒して楊堅を政界から遠ざけようともしましたが、志なかばで死去してしまいました。
これによって楊堅は次期皇帝から禅譲を受けて晴れて皇帝(文帝)となり、隋を建国しました。
文帝(楊堅)が隋を建国したころ、北のモンゴル高原には、騎馬遊牧国家の柔然(じゅうぜん)から独立した突厥(とっけつ)が広大な部族連合国家を築いて勢力を拡大していました。
突厥は、東の中国だけでなく西のオリエントとも抗争や交流があり、現在のトルコの源流をもっていたりと、世界史に大きな影響を与えた民族です。
この突厥は、北魏が西と東に分裂したころから台頭し始め、後の中国王朝を悩ませていました。
しかし、隋の文帝は建国前から対抗関係であった突厥を圧迫して東西に分裂させることに成功し、南では北周時代は苦戦を強いられた南朝の陳をも滅ぼしました。
これによって589年に、隋は約370年も続いた魏晋南北朝時代を終わらせ、中国の統一を果たしたんです。すごい!
隋の内政(科挙、大運河建設)
科挙の創設
SQ:科挙はどのような目的で作られたのか?
隋は、魏晋南北朝時代に作られた各国の政策を引き継ぎつつ、中央集権化をおこないました。
中央集権化には、官吏(役人)の役割が重要になります。広大な領土をしっかりと管理できるかは、官吏たちにかかっていますからね。
ですが、当時は九品中正によって、上級官吏は貴族階級(豪族の世俗化)によって独占されていました。
隋の頃には、家柄によって官吏の役職が固定されてしまっていたので、優秀な人材を確保するのが困難な状況だったんです。
必ずしも優秀な人だけではなかったでしょうし、貴族階級による癒着や汚職もあったでしょうから、皇帝には忖度などもあってやりずらかったでしょうね。
なので、、、
中央集権化には優秀な役人(官吏)が必要だ。家柄にとらわれず、必要な人材を登用できる制度を作るのだ!
これによって考案されたのが、科挙(かきょ)と呼ばれる官吏登用法でした。
これは九品中正で貴族が進出する原因となっていた、登用担当の役人との癒着を無くすために、学科試験をおこなうことによって客観的な視点のみで官吏を選ぼうとしたものです。
現在の公務員試験に近いですね。試験でみれば家柄関係なく実力を測ることができます。学科試験の内容には儒学が重要視されました。
この科挙は、後の唐の時代に体制化され、途中停止した時期を挟みながらも、20世紀はじめの清の時代まで使用されました。それだけ中国にとって良い制度だったということです。
隋の時代の科挙は、まだ完全な実用化まではいかず、毎年試験に合格したのは数名程度だったそうです。まだまだ貴族が幅をきかせていましたが、後の中国王朝を支える制度が隋で始まったところに注目しておきましょう。
大運河の建設
文帝は当時それまで横に広がっていた大河川(黄河と長江)を縦につなぐ、大運河の建設を計画し、実行しました。
SQ:なぜ大運河を作る必要があったのか?
文帝は、漢王朝以降に首都になってから北周まで使用されていた長安が老朽化したことから、近くに新しい都城として大興城(だいこうじょう)を建設していました。
しかし、人口が増えていくにつれてあることが問題となっていきました。何かわかりますか?
そう、食糧問題です。
多くの人口を支える首都圏の華北に、食糧を安定供給できるシステムを作る必要性が出てきたんです。
それまでの中国の経済は、横に伸びる大河川(黄河、長江)を中心にそれぞれで経済圏を作っていました。
南北の経済圏をつなげて、食糧問題を解決するのだ!
このように、長江付近の江南では開発が進んで豊かな穀物地帯をもっていました。なので、食糧不足の首都圏の華北への食糧供給先として大運河建設が必要になったんです。
この大運河建設は、2代目の煬帝(ようだい)にも受け継がれました。
南北の経済圏が大運河で繋がったことで、それまでバラバラだった経済圏が一つになって、中国の経済的統一が果たされます。
しかし、それまでも構想はあっても難易度の高さから、隋の時代まで行われなかった大運河建設。完成までは10万人以上が動員され、民衆にとって重い負担が問題化しました。
この隋への不満が後々、国の命運に影響してきます。
大運河建設は隋にとっては結果的に負担の大きい事業になってしまいましたが、後の中国王朝はこの運河の整備をさらに整えて、中国経済圏の発展に必要不可欠な存在となっていきます。
隋の大運河建設なしに、中国王朝繁栄はなかったといっても過言ではないでしょう。
まさに隋は「大国中国」の礎を築きました。
隋の外政(高句麗遠征、日本との関係)
高句麗遠征
煬帝の時代に北の突厥との戦いには勝利したものの、高句麗は朝鮮三国で唯一冊封に従わず、隋と敵対関係にありました。
さらに高句麗が隣接する突厥と手を組むのを恐れた煬帝は、高句麗遠征をおこないます。なので、煬帝時代に建設された大運河は、対高句麗の軍事物資輸送も想定されて建設されました。
この時代に、隋に使節を送って冊封をうけたのが、厩戸王(聖徳太子)によって遣わされた小野妹子率いる日本の遣隋使でした。
厩戸王は仏教興隆の目的でしたが、「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや。」という書簡を送って対等な関係を主張して煬帝を不快にさせたエピソードは有名ですね。
では、なぜ隋の煬帝は日本の冊封を受け入れたのですか?
日本を不快と思っても、当時は高句麗遠征の準備中でもあったので、地理的に背後に位置する日本を取り込むことで遠征を有利にしたかったのでしょう。煬帝が己のプライドよりも国の情勢を優先したあたりが君主らしいですね。
しかし、この高句麗遠征はなんと三度も行われたにも関わらず失敗に終わってしまいました。
第1回・・・高句麗が投降したふりをして、隋の遠征軍が油断したところを急襲して約半数の高句麗軍に敗北。
第2回・・・高句麗に侵攻中に隋で反乱が起き、王宮が占拠されそうになったので遠征を中止。※反乱は間一髪のところで鎮圧に成功。
第3回・・・首都付近まで侵攻したところで高句麗は降伏したが、その後に隋の指示を聞かなかったため、再び遠征を行おうとしたが、将兵が疲弊していたため出陣できず。
圧倒的大国であった隋でしたが、高句麗の巧みな戦術と外交によって退けられてしまったんですね。
高句麗からすると国家存続でバンザイですが、隋にとってはただただ損害が出ただけでした。
隋の滅亡
上記でも触れた通り、大運河の建設は史上まれにみる大事業であったため、民衆の負担が大きく不満の種になっていました。
そこに3度もの高句麗遠征の失敗によって、民衆の不満が最高潮に達したことで、第3回高句麗遠征中に農民反乱がおこってしまいます。
それに刺激されて続々と内乱が発展して、618年に煬帝は無残にも自分を守る親衛隊の隊長によって殺害されてしまい、隋王朝は滅亡してしまいました。
信頼をおく側近に裏切られるということは、それだけ煬帝の政策に嫌気が差していたんでしょうね。
まとめ
MQ:隋はなぜ早くに滅亡したのか?そしてその後の中国王朝に与えた影響とは?
A:史上初の大運河建設に取り組んだことや、度重なる高句麗遠征の失敗から民衆の不満が高まり、内乱が起きたことで滅亡した。しかし、大運河の建設によって、その後の中国王朝の経済発展に大きく貢献し、「大国中国」の礎を築いた。
今回はこのような内容でした。
次回は、隋末期の混乱に乗じて自立した武将の李淵(りえん)によって、中国は統一され唐(とう)が建国されます。
この唐は当時世界最大のグローバル国家を築いていくことになります。それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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