世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でしたね。
今回の文化②では、宗教や生活についてです。魏晋南北朝時代にはどのような文化が好まれたのか?
一緒に見ていきましょう!
MQ:魏晋南北朝時代に仏教や道教が盛んになったのはなぜか?
今回の時代はここ!
清談の流行
魏晋南北朝時代は、とにかくいろいろな国が興亡した時代でしたよね。
難しい言い方をすると、この時代は「政治変動期」だったので、知識人(エリート)の中には、
もう政治に関わるのは疲れたよ。自由に意見を言い合える場所で語り合いたいな。
そりゃ、いろんな国や民族がせめぎ合う世の中なので、本来、政治に関わるような知識人たちも現実逃避したくなりますよね。
このように、現実から逃避して、自由に様々な物事について議論し合う清談(せいだん)をおこなう知識人たちが現れ、流行となりました。
彼らは議論する際に、琴(こと)を弾いて、お酒を飲みながら「正しい世の中」について自由に議論しました。
今でいうと、ビジネスマンがBGMのかかったカフェやBARで、新規ビジネスの構想や夢について熱く語り合うような感じでしょうか。現実逃避という点では異なりますが、、、。
彼らは、魏晋南北朝時代というカオスな時代を生きていたので、老子と荘子が考えた「無為自然」を理想としていました。
それだけ知識人たちは、この時代の情勢に疲れていたんでしょうね。
仏教の布教、研究
以下は世界の宗教分布図です。
この図をみて、日本を含む東アジアは、何の宗教が主流となっているでしょうか?
そうですね、仏教なんです。現在、中国だけでも2億人前後いるといわれています。
では、そんな仏教ですが、紀元前5世紀にインドで発祥していから、中国に伝来したのはいつ頃だったのでしょうか。
日本に仏教が伝来したのは、紀元6世紀。
それは紀元前2年ごろに大月氏の使者が伝えたといわれています。その後は、勝手にキリスト教のように、「なんか偉い僧侶」が来て、布教したというイメージを持っている人が多いかもしれませんが、仏教の伝来はシルクロードを使っていた仏教徒の商人によって広がったともいわれています。
仏図澄の布教活動
そして、紀元4世紀ごろの五胡十六国時代に、西域からシルク=ロードを伝ってきた仏図澄(ぶっとちょう)という人物によって、華北に仏教が布教されました。
この仏図澄は西域のクチャ(亀茲)というオアシス都市出身の僧侶でした。この都市は、東西を結ぶ隊商貿易の拠点であったため、中国よりも早くに仏教が伝わっていたんです。
クチャは現在、新疆ウイグル自治区に位置しています。
鳩摩羅什の仏典翻訳
この仏図澄の後、同じクチャ出身で、インド人の父を持つ鳩摩羅什(くまらじゅう)も、五胡十六国時代に西域から華北に入ってきた僧侶です。
彼は華北で仏典の翻訳をおこない、中国仏教の基礎を作って布教に貢献しました。
この鳩摩羅什は、出身の西域の言語以外に、インドでサンスクリット語をマスターし、中国に渡来後に漢語もマスターしたことで、三か国語を話せるトリリンガルでした。
鳩摩羅什さんは、当時から超エリート僧として、中国で有名な人だったんですよ。
なので、国が変わるごとに王朝に迎え入れられて、最終的に3王朝で研究をおこないました。
法顕のインド留学
仏図澄や鳩摩羅什らによる仏教の布教活動もあり、中国から本場インドへ仏教を学びにいく人たちも出てきました。「仏教留学」ですね。
その中でも有名なのが東晋時代にインドに渡った法顕(ほっけん)です。
法顕は仏典をもとめてインドへ陸路を使って旅にでて、3年間インドで仏典を研究しました。帰りは海路で戻ってきたのですが、インドや旅路で書いた「仏国記」は当時のインドの様子がわかる貴重な資料にもなっています。
ちなみに法顕が渡ったころのインドはチャンドラグプタ2世が統治するグプタ朝の時代でした。
みなさんが書いた旅日記や旅ブログも、遠い未来に歴史的資料になっているかもしれませんね。(笑)
ちなみに法顕がインドに向かったのは、64歳の時でした。「挑戦に遅すぎることはない。」ということを教えてくれていますね。レッツチャレンジ!
石窟寺院の造営と変化
西域のオアシス都市はインド・中央アジアを経てやってきた仏教が、中国へと入る玄関口になっていました。
中でもオアシス都市の敦煌(とんこう)は、その玄関口の中心的存在だったため、4世紀以降、壮麗な石窟寺院が造られました。
壮麗(そうれい)・・・規模が大きくて美しいこと。
石窟寺院・・・岩壁の岩を削って、仏像を安置したり、壁に仏像を刻み出したお寺のこと
SQ:雲崗と竜門の石窟寺院の特徴の違いとは?そしてその理由とは?
北魏の時代に入ると、道教の影響が強くなって、太武帝に保護されたことから、廃仏がおこなわれ、仏教が弾圧されてしまいます。
その次の皇帝で、仏教が復興されることになりますが、その際、、、
また廃仏の憂き目にあわないように、簡単には破壊できない仏像を作ろう。
こうした理由から中国でも石窟寺院が造られるようになったんですね。たしかに木や粘土より岩や石のほうが丈夫ですもんね。
代用的なものは、5世紀後半に北魏の都であった平城の近くに造られた雲崗(うんこう)石窟寺院と、洛陽に遷都した後に造られた竜門(りゅうもん)石窟寺院です。
では、この2つの石窟寺院をみて、どのような特徴の違いがあるでしょうか?
雲崗の仏像は、鼻が高かったりと、ハッキリとした顔だちをしています!
竜門はそれに比べて、顔だちが薄くて、なんだか優しそうな印象があります!
そうですね。雲崗は当時のインドから入ってきた「ガンダーラ美術」の影響を受けています。それに比べて竜門は中国独自の様式の影響を受けていると考えられます。
雲崗石窟寺院が造られた頃は、インドから入ってきたギリシア彫刻(ヘレニズム文化)の影響をうけたガンダーラ美術の影響をうけていました。
なので、顔だちが西洋人のようなハッキリとした彫刻になっていますね。
ではなぜ、竜門石窟寺院の仏像は純アジア系の顔立ちになったのでしょうか?
ヒントは当時の皇帝が孝文帝だったことです。彼はどんな政策をしていましたか?
遊牧民の習慣を中国風に改める漢化政策をおこなっていました!
そうです。この漢化政策の影響から、竜門石窟寺院では仏像が中国風になったんですね。
道教の成立と発展
SQ:道教と儒教の違いとは?
仏教が普及したことによって、仏教に刺激をうけた民間信仰も発展していきました。
中国では各地で、様々な自然的事象に対して霊魂が宿り、信仰するアニミズムが存在していました。
その中に「不老不死」である仙人(神仙)を目指して、修行や薬の調合をおこなう神仙思想があったんですが、そこに諸子百家の道家の道徳観や、仏教の慈悲や救済などが取り入れられて、できた宗教が道教なんです。
なので、簡単にいうと道教とは、「民間信仰が、外来の宗教の刺激をうけてブレンドされた宗教」といった感じでしょうか。
日本でも鎌倉時代に、もともとあった神道に外来の仏教が合体して「神仏習合」という考えが生まれたりしましたね。
この道教は、中国で信仰されていますが、これと似て非なるものが儒教です。儒教とは孔子が説いた、政治・生活全般におよぶ道徳を説いたものです。
儒教は「徳」に対する哲学や思想の宗教に対して、道教は「不老不死」を基本とした様々な信仰がブレンドされた宗教なので、そこは区別できるようにしておきましょう。
道教は、北魏時代に寇謙之(こうけんし)が教団を作り、太武帝に保護されるなどして普及していきました。
道教は「不老不死」追求の考えがあるため、権力者はその権力維持のため、その力を欲して道教を保護したんでしょうね。
その際、廃仏が行われるなど、仏教との対立なども見られました。
南朝文化
魏晋南北朝時代は、何度も言っているように「カオスな時代」です。なので、国々が興亡したカオスな華北から、南の江南に逃れた貴族たちによって、南朝では六朝文化が花開きました。
文学
南朝でも、戦乱に疲れた知識人たちが、現実逃避して田舎の自然や田園から文学や芸術を見出しました。
没落した貴族出身で、官職を辞めて田園で詩を読んだ陶淵明(とうえんめい、陶潜)はその代表ですね。戦乱の世を嘆いて理想郷を描いた「桃花源記」は彼の代表作です。
また、南朝の梁の皇太子だった昭明太子によって編纂された、周から魏晋南北朝時代の127人の名文を集めた『文選(もんぜん)』は、日本の平安時代に伝わり、平安文学にも影響を与えました。
絵画
東晋時代に宮廷につかえた顧愷之(こがいし)は、中国史上最初の画家とされ「画聖」と呼ばれています。
彼が描いた『女史箴図(じょししんず)』は、宮中の女性の立ち振る舞い方が示されており、女中たちが宮中で過ごすためのガイドブックとして使用されました。
『女史箴図』・・・六朝文化の傑作とされ、後世の絵画にも影響を与えた。現在は大英博物館にて保管。
書道
こちらも東晋に貴族として仕えた王羲之(おうぎし)が有名ですね。彼の一族である王氏は東晋建国で一番の功績があった一族で、王羲之も高官として働いていました。
しかし、政治になじめず、地方官として赴任した先で文化人たちと交遊しながら余生をすごしました。書道に精通し、後世の書の模範となったことから「書聖」と呼ばれています。
ちなみにこの王羲之の「羲」は特殊な漢字なので、書く際は注意してください。
まとめ
MQ:魏晋南北朝時代に仏教や道教が盛んになったのはなぜか?
A:西域のオアシス都市を経緯して、華北に仏教が伝わり、布教や仏典翻訳をおこなったことで普及された。それに刺激されるように、民間信仰の神仙思想から道家や仏教の要素を取り入れた道教が誕生し、皇帝に保護され仏教と対立をおこしながら普及された。
今回はこのような内容でした。
次回は、魏晋南北朝時代の中国情勢が朝鮮半島や日本にどんな影響を与えたのかをみていきます。
日本史でも出てくる卑弥呼やヤマト政権の時代です。ようやく具体的な日本の歴史が登場してきますね。
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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