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[2-4.2]唐の建国と拡大

2-4.隋、唐

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は、短命に終わった隋の後を継いだ唐の建国とその拡大についてです。7世紀から約300年もの間、中国を支配した王朝はどのように拡大していったのでしょうか?

それではみていきましょう!

MQ:唐の支配圏はどのように広がったのか?

今回の時代はここ!

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唐の建国(李淵)

隋は末期に煬帝の急進的な政策によって、民衆の不満から内乱が起きて滅亡しましたよね。

歴史法則

急進的な政策中央集権化は、自らの身(国)を滅ぼす。

その内乱が起きた時に、挙兵したのが後にを建国する李淵(りえん)と呼ばれる人物でした。

李淵

この李淵は、もともと隋の文帝の頃から仕えていた官僚でしたが、内乱の混乱に乗じて挙兵し、首都の大興城を占領して、煬帝の孫を皇帝に建てて実権を握っていました。

煬帝は、大運河建設を重要視していた関係で、他の都市に滞在することが多かったので、首都の大興城には、文帝時代から溜め込まれた財貨や武器が大量に残っていたので、李淵は台頭できたんです。

そして煬帝が殺害されたのを機に、禅譲をうけて皇帝(高祖)となってが建国されました。

唐の建国

李淵(高祖)は、隋の首都であった大興城を長安と改めて、唐の首都としました。長安は大規模に拡張整備され、北側に宮城があり、東西南北に碁盤目状に区画された左右対称が特徴の都が造られました。

この長安の区画を参考にして、日本や渤海などの周辺国家の都も造られましたんです。比較すると、とても良く似ています。日本はこうした唐の影響をうけながら平安時代にかけて文化が進んでいきます

唐の長安城、日本の藤原京と平城京、渤海の上京竜泉府の都市プラン

SQ:隋・唐は漢民族王朝だったのか?

唐を建国した李淵は、漢民族ではなく隋の文帝と同じく鮮卑族の出身でした。

なので、少し前までは漢民族王朝としての「唐」というイメージがもたれることがありましたが、厳密には鮮卑族の拓跋氏の流れを組む王朝であるため、純粋な漢民族王朝ではないんです。

しかし、北魏の時代から漢化政策や混血によって、漢民族の人や文化と融合していたため、漢民族王朝のイメージがついたと考えられているんですね。

以上のことから北魏から隋・唐にいたるまでの王朝は、「拓跋国家とも呼ばれています。

SQ:隋・唐は漢民族王朝だったのか?

隋・唐は、北魏から続く鮮卑族の拓跋氏の流れを組む王朝であるため、正確には純漢民族の王朝とは言えない。従って、この一連の王朝は「拓跋国家」と呼ばれている。

拓跋国家

李淵は新しい貨幣(開元通宝)を鋳造したり、唐の最初の律令を制定したりと、国家政策を打ち出していきます。

しかし、この時代はまだ中国に王朝が群雄割拠している状態であり、唐の支配圏が全国には及んでいませんでした

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唐の中国統一(李世民)

李世民のクーデター

李淵の後を継いで2代皇帝となったのは、次男の李世民(りせいみん)でした。

李世民

この李世民は、李淵と共に挙兵して唐の建国に大きく貢献した人物でしたが、嫡男(長男)ではなかったため、もともと皇太子ではありませんでした

李世民は挙兵に貢献したにも関わらず、ないがしろにされてしまい、能力が普通で酒癖の悪い兄が皇太子となったことから、クーデターを画策しました。

クーデター画策の理由には、背後に宗教の覇権争いがあった説など、諸説あるので気になる方は李世民/太宗 (y-history.net)を見てください。

626年、李世民は長安の玄武門で兄と弟を殺害し、父である李淵(高祖)を幽閉する「玄武門の変を起こしました。

これによって李世民は皇太子になった後、李淵(高祖)を太上皇帝にまつりあげることで、自分は2代皇帝太宗(たいそう)となったわけなんです。

李世民 玄武門の変

中国の統一と貞観の治

李世民は皇帝太宗となったあと、国内の独立政権を征服して唐の中国統一を果たしました。

李世民(太宗)は、クーデターによって異常な手段で皇帝となった人物ですが、国内の律令(法)を整備したり、三省・六部という官僚の分業体制が整えられたりと、内政を安定させて唐は大きな繁栄期を迎えました。この時代をこの時の年号から「貞観(じょうがん)の治」と呼ばれています。

律令や三省・六部については次回の記事で紹介させていただきますね。

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唐の領土拡大(世界帝国へ)

李世民(太宗)と次の高宗(こうそう)の時代は、さらに支配圏を拡大した唐の全盛期でした。

李世民(太宗)の内モンゴル支配

李世民の時代は、隋の時代に分裂した東突厥が北の草原地帯を支配していました。

東突厥

李淵と李世民らが、隋に対して挙兵した際は、東突厥から援軍をうけるなど共闘関係にありました。突厥も隋によって分裂するなどの恨みから、隋の反対勢力に協力したんでしょうね。唐も、隋や国内の諸勢力と戦うためには、騎馬民族の力を借りなければ厳しかったのでしょう。

しかし、唐が中国を統一した後は、その脅威から再び東突厥に対して攻勢に転じていきます。

そして630年に、李世民(太宗)の遠征によって東突厥は滅亡してしまいました。

その後、唐に協力した遊牧民から「天から権力を授かった遊牧民の支配者」を意味する天可汗(てんかがん)を授かって、遊牧諸民族を支配下にいれて内モンゴル地域を統治していきます。

ここから唐は漢民族だけではなく、北方の遊牧民族も支配する世界帝国へと発展していきます。

唐の内モンゴル支配 天可汗

高宗の領土拡大

国内は安定した李世民(太宗)の後を継いだ、3代皇帝の高宗(こうそう)は積極的に領土の拡大に努めました。

グシャケン
グシャケン

唐の高宗(7C)、南宋の高宗(12C)、朝鮮王朝の高宗(19~20C)と3人いるので、覚えるときは時代と国名とセットで覚えておきましょう。

高宗
①西域

まず高宗は、西域を支配していた西突厥を圧迫していきました。最終的には、内乱に付け込んで可汗を捕らえたことで、実質的に西突厥を滅亡させました。

この西突厥の支配圏を手に入れたことで、「オアシスの道」を押さえて東西交易の利益を得ることができるようになりました。

②朝鮮半島

唐の高宗の時代、朝鮮半島では3国(高句麗、新羅、百済)が覇権を争っていました。

朝鮮三国時代

このうち、新羅と百済の争いの中で、領土を侵された新羅が冊封していた唐に対して救援を求めました。高宗はこれを機に朝鮮半島への支配を強めようと、新羅と連合して百済に進軍します。

この時に、ピンチになった百済が救援を求めたのがヤマト政権率いる日本(倭)だったんです。ヤマト政権は南の加羅諸国に影響力をもっていたので、百済とは友好的な関係を築いていました。

グシャケン
グシャケン

日本に仏教を伝えたのも百済から僧侶だったんですよ。ちなみにこの時の日本は、中大兄皇子が天智天皇になった「大化の改新」あたりの時代ですね。

新羅と唐の連合軍に敗れて滅亡した百済を復興させるために、日本は大水軍を派遣して白村江の戦で新羅・唐連合軍と戦いましたが、結果は大敗してしまい、日本(倭)は朝鮮半島への影響力を失うことになりました。

白村江の戦い

唐はこの後、新羅との挟撃で高句麗を滅ぼすことにも成功し、朝鮮半島への支配を強化しました。

しかし、百済や高句麗の領土を支配下に置き、新羅にも服従を求めたことに対し、新羅が反抗したため戦争に発展してしまいました。

結果は新羅が勝利したことで、唐は朝鮮半島から撤退することになってしまいます。朝鮮三国時代は、最終的に新羅の朝鮮半島統一によって幕を閉じることになりました。

新羅の朝鮮半島統一

ちなみに、唐は南のベトナムにも進出して、直接支配下に置きました。

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羈縻政策

SQ:羈縻政策と冊封体制の違いとは?

唐以前の中国王朝は、周辺諸国の君主に称号を与えて従属させる「冊封体制」を敷いていました。

冊封体制

しかし、唐の時代からは、支配した地域を直接国内の州県に組み入れて、現地の有力者(首長など)を長官として任命する羈縻政策(きびせいさく)を行いました。

州県制・・・魏晋南北朝以降は、郡の上である州が多くなり、郡の存在意義がなくなっていた。

グシャケン
グシャケン

羈縻(きび)という意味の分からない単語が出てきましたね。「羈」「縻」は家畜の綱を意味し、「諸民族を綱でつなぎとめて制御する。」というような意味で羈縻政策と呼ばれています。

それぞれの支配地域には、中央から派遣された官吏や軍隊が駐在する都護府(とごふ)が置かれて、各地域を監視していました。

羈縻政策

どうして唐は羈縻政策をおこなうようになったんですか?

グシャケン
グシャケン

いい質問ですね。これは東突厥滅亡後の対応によってできた体制なんですよ。

唐は東突厥滅亡後に、遊牧諸民族から「支配者(君主)」を意味する「天可汗」の称号をもらっていましたよね。これによって唐は「遊牧民の王」を兼ねることになったので、東突厥には君主が置かれなかったんです。

これでは、君主に称号を与えて服属させる「冊封体制」ができなくなってしまいます。

そこで、直接国土に組み込んで、長官として現地の首長に自治させ、都護府を置くことで監視する羈縻政策が完成した、というわけなんです。

羈縻政策は、冊封体制に比べて直接支配的なので、中国王朝の影響力は強くなったんですが、現地有力者(首長)が統治することで、伝統や文化は守られ、一定の自治が認められていました

SQ:羈縻政策と冊封体制の違いとは?

周辺諸国の君主に称号を与えて従属させる冊封体制に対して、羈縻政策は国土に組み込み、現地首長を長官に置いて都護府に監視させるなど、直接的な支配が強まった点に違いがある。

もともとは、遊牧民の計らいによってできた矛盾に対応するためだったんですね。

この羈縻政策によって、唐帝国はさまざまな民族を抱える世界帝国へと発展していきました。

唐 勢力図
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まとめ

MQ:唐の支配圏はどのように広がったのか?

A:太宗や高宗の時代に対外戦争によって、西域や朝鮮半島、ベトナムまで勢力を拡大した。支配した地域は、直接領土に組み込んで現地首長に統治させ、都護府によって監視する羈縻政策を行ったことで、唐の領土は拡大し、世界帝国へと発展していった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

唐の建国と拡大 まとめ

次回は、世界帝国へと発展した唐の制度や文化についてやっていきます。グローバル国家唐はどのような国家だったのか。

それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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