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[2-4.7]安史の乱と社会変化

2-4.隋、唐

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は唐後半にかけての社会変化をみていきます。唐後半に起こった安史の乱によって、唐の社会はどのように変化していったのでしょう。それではいきましょう!

MQ:安史の乱後、唐の社会はどのように変化していったのか?

今回の時代はここ!

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開元の治

玄宗の登場

中国史上唯一の女帝であった武則天(ぶそくてん)の治世は比較的安定した時代でした。

死後は中宗という人物が皇帝となりますが、皇后の韋后(いこう)武則天にならって実権を握ろうとし、旦那である皇帝を毒殺してしまうなど、王朝内は混乱していました。

グシャケン
グシャケン

武則天と韋后という2人の皇后が立て続けに政治の実権を握ったことから、この出来事を「武韋の禍(ぶいのか)といいます。この「禍」は「わざわい」という意味で使われています。「コロナ禍」もそういう意味で使われていますね。

これは当時の女性を見下すような儒教的な考えが入っています。

この混乱をおさめるためにクーデターをおこし、後の皇帝となったのが玄宗(げんそう)という人物です。

玄宗
武韋の禍と玄宗のクーデター

開元の治

玄宗は皇帝となってから律令制を再整備して、優秀な科挙官僚たちを積極的に登用するなど、積極的な改革をおこないました。

これらの改革によって、玄宗の治世前半は政治的に安定した時代となったので、太宗時代の貞観の治と並んで、開元の治(かいげんのち)と呼ばれています。

SQ:なぜ玄宗の治世に改革が必要になったのか?

なんで玄宗はすでに整備されている制度を改革したんですか?

グシャケン
グシャケン

それは時の流れによる唐の社会変化が原因なんです。

唐初期の太宗の時代は、唐の人口はせいぜい1,300万人程度でしたが、玄宗の時代になると4,000万人を超えるほどの人口を唐はかかえるようになります。

これだけ急激に人口が増えると、それまでの律令体制では対応できない事態も増えて機能しなくなってしまいます。

グシャケン
グシャケン

唐ができたのが約100年前です。律令は更新されていたとはいえ、100年経てば生活や状況もかわります。

現在の令和でいうと100年前は大正時代です。大正時代の法律だと令和では対応できそうにないですよね。(笑)

このような社会の変化をうけて、玄宗は新しい時代に対応できるように律令体制を再整備して、改革をおこなったんですね。

SQ:なぜ玄宗の治世に改革が必要になったのか?

急激な人口増加などによる社会変化に従来の律令体制では対応できなくなってしまったため、改革をおこなった。

玄宗の開元の治

ではここから玄宗の時代にどのような改革がおこなわれたかをみていきましょう。

税制改革

唐では均田制によって徴税を管理して財政をまかなっていました。

しかし、府兵制が課せられた地域では負担が大きく、逃戸(とうこ)と呼ばれる逃亡者が増えて均田制は機能しなくなっていました

そこで財源を新たに確保するために逃戸を逃亡した先で新たに戸籍に登録し、軽い税だけを課す制度をつくりました。

これによって、なんと約80万もの戸籍登録に成功して財源を確保することに成功したんです。

逃亡者を罰せず新たに再登録して課税するあたり、これを考えた官僚たちの度量がうかがえます。それだけ財源を確保したかったのでしょうね。

逃戸の再登録制度
募兵制

均田からの逃亡者が増えたことによって、それをもとに徴兵をおこなっていた府兵制も機能しなくなります

なので、増大していく兵員の不足を補うために新たに実施されたのが募兵制(ぼへいせい)と呼ばれる制度でした。

税負担である徴兵ではなく、字のごとく兵士を募集して国が給与を払いながら兵役に就くというシステムでした。

まさにこの募兵制は傭兵制度だったんです。

募兵制

兵士も募集しても集まるものなのですか?

グシャケン
グシャケン

当時の戦争参加は民衆からすれば副業収入的な側面もあったので、自ら進んで出兵する人も少なくなかったんです。なので国から給料が払われる募兵制も一定以上の募集は十分あったと考えられます。

節度使

募兵制による職業軍人たちは、辺境などでの任期が徐々に長くなるにつれて、現場に常在するための軍鎮(ぐんちん)が置かれました。

それまで中央から派遣されるた役人によって監視する都護府にかわって、現地の募兵を管理・指揮する司令官として節度使(せつどし)が置かれました。

人口が増大した辺境は中央からの管理では追い付かなくなっていたので、この節度使は軍事権だけではなく現地の行政も任されるようになっていき、辺境の統治を一手に任される存在へとなっていきます。

グシャケン
グシャケン

節度使は長城より北は武官や異民族が、長城より南は文官が就くのが通例となり、この後に安史の乱を起こした安禄山(あんろくざん)という人物はソグド系と突厥系の血を引く節度使でした。

文官では日本の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)などが就いていました。国際性豊かですね。

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安史の乱

節度使は軍事権だけではなく、行政権も委任されていたことで地方統治者として強大な権力を持っていました。

その節度使が唐に対して反乱を起こし、国内を大きく混乱させたのが安史の乱(あんしのらん)です。

中心となったのはソグド人と突厥人の血をひく安禄山(あんろくざん)と、ソグド系武将だった史思明(ししめい)という人物でした。

安禄山
グシャケン
グシャケン

安禄山と史思明が中心となったことから2人の頭文字をとって「安史の乱」と呼ばれています。

安禄山は、時の宰相(王朝No.2)に認められて節度使になり、玄宗の愛妃だった楊貴妃(ようきひ)にも気に入られて王朝での影響力を強めていました。

グシャケン
グシャケン

楊貴妃といえば、世界三大美女にも選ばれている人物ですね。

ちなみにあと2人はエジプトのクレオパトラ、日本の小野小町です。

楊貴妃

しかし可愛がってくれた宰相が亡くなり、楊貴妃の親戚が新しい宰相となってからは安禄山の権威が脅かされるようになっていきます。

その宰相を排除するために決意して史思明と共に挙兵して起こしたのが安史の乱でした。

安史の乱

この反乱は節度使安禄山が率いる軍に加えて、ソグド人や突厥人も加わり大規模な反乱となりました。

唐王朝に対して異民族は思うところがあったのでしょう。

反乱軍は洛陽・長安と中心都市を次々と占領し、玄宗や楊貴妃は長安を脱出せざるをえない状況になってしまうほど唐は追い込まれてしまいます。

グシャケン
グシャケン

皇帝たちは長安を脱出したところで、護衛に迫られて元凶となった宰相と楊貴妃は殺されてしまいました

安禄山は「オアシスの道」を手中におさめていたことから、それによって経済力が維持できたことも中心都市の占領、反乱の拡大に大きく貢献しました。

安禄山は洛陽で皇帝を宣言しますが、病気にかかって自暴自棄になって遊びふけ、地方でも従わない官僚がいたりと、新国家も一筋縄ではいかなかったみたいです。

追い詰められた唐は外部勢力に助けを求めました。それは当時モンゴル高原を支配していたウイグルでした。

ウイグル

唐・ウイグル連合軍は、反転攻勢に転じて洛陽・長安を奪還することに成功します。

遊びにふけった安禄山は息子に殺されてしまい、その後は史思明が受け継ぎますが、最終的に史思明も遊びにふけるようになり、最後は部下によって殺されてしまい、安史の乱は終結することになります。

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安史の乱後の社会変化

約9年にもおよんだ安史の乱は、その後の中国を大きく変えていくことになりました。

反乱軍やウイグル軍の蹂躙によって農村は荒廃し、全盛期に5,000万人を超えていた人口も安史の乱後は約1,700万人にまで落ち込んでしまいました。(引用:『詳説世界史研究』山川出版社)

これによって、大国唐の中央集権的な支配はさらに崩壊していくことになります。

このような社会変化にともなって、国の制度も転換を迫られます。

節度使の軍閥化

SQ:なぜ安史の乱後に節度使が軍閥化していったのか?

安史の乱後、荒廃化や人口減少などで弱体化した唐に対して周辺諸国からの圧力が強くなっていきました。

羈縻政策は管理が行き届かなくなり崩壊オアシス地域も手放すことになってしまいます。吐蕃や南詔、ウイグルなどからの侵攻などにも悩まされ、中国内地にも唐の支配が及ばないところが出てきてしまいます。

こういった状況から、辺境だけでなく中国内地にも節度使を置いて統治を任せざるを得なくなりました

この全国各地に配置される節度使は、軍事と行政を握っていたため、唐の支配力が弱まるにつれて、地方政権として力を持つようになり軍閥化していきました。

SQ:なぜ安史の乱後に節度使が軍閥化していったのか?

安史の乱によって弱体化したことで、周辺からの侵攻が増えたことによって、中央政府の直接支配が弱まった。それに従って節度使に頼りざる負えなくなり、次第に軍閥化していった。

こうした軍閥化した節度使は藩鎮(はんちん)とも呼ばれます。

藩鎮

両税法

均田制が崩壊し、各地で節度使が自立していた唐王朝の税収は減少していく一方でした。なので唐の存続には新たな財源の確保が急務でした。

そこで安史の乱後に、宰相についていた陽炎(ようえん)が提案した制度が両税法(りょうぜいほう)と呼ばれる税制でした。

SQ:両税法は租調庸と比べて何が画期的だったのか?

両税法の主な内容は以下の通りです。それまで従来租調庸との違いを考えてみましょう。

両税法の概要

●土地所有を認め、毎年の予算に応じて、土地の面積や生産力に応じて課税

●現物納税ではなく、貨幣納税が基本

●夏(6月)と秋(11月)の2回課税

●農民だけでなく商業に対しても課税

それまでの租調庸と比べて大きく異なる点は、

・定額制ではなく、予算に応じて税が課せられている

・人(農民)に課すのではなく、土地の面積や生産力に応じて税が課されている。

人ではなく、土地に課税することで確実に税収を確保しようとしていますね。しかし、私有地の所有が認められたので、国内の格差はさらに拡大していきました。

・貨幣納税にすることで、国が為替の影響を受けないようになっている。

貨幣納税は国にとっては安定して良いですが、農民にとっては作物を貨幣に替えてから納税する必要があるので、為替の影響や商人に安く売ってしまったりと、かえって税負担は重くなってしまいました。

麦作の普及により、夏の課税が可能になった。※麦は冬に種まき、夏に収穫

唐の中期以降、華北地方を中心に遊牧民から伝わった小麦粉料理が食べられるようになり、麦作が普及していました。

小麦粉料理・・・麺、餃子、クッキーなど

唐代の軽食(麦を使用したクッキー) 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

・商業など、課税対象が拡大している。

技術発展で麦作や稲作の生産量が増えたことで、商品の流通量も増え、商人たちが大きな組合を結成するなど活動が活発になっていたので、8世紀ごろから課税されるようになりました。

だいたいこんなものですかね。まとめるとこんな感じです。

SQ:両税法は租調庸と比べて何が画期的だったのか?

資産に応じて土地ごとに課税し、銭納を基本としたこと。加えて、農業や商業の変化や発展に合わせて課税時期や課税対象が拡大していること。

両税法

塩の専売

中国王朝では財政難に陥った時は、塩を王朝が独占し専売することで切り抜けるということが度々ありました。

なんで塩なんですか?

グシャケン
グシャケン

塩は古代から世界中で必需品とされ重宝されていたんです。

味付けもそうですが、生贄のお清めに使われたり、冷蔵庫や冷凍庫が無かったので保存料としての役割も果たしていました。

古代ローマでは、兵士が塩を買うための特別手当があったほどなんですよ。

唐も財政難解決の一環として塩の専売がおこなわれました。8世紀中ごろから専売制となり、塩の価格に加えて10倍以上もの税金を上乗せして販売されました。

グシャケン
グシャケン

現在の日本だと、スーパーに置いてある食塩100gが130円だとすると、唐の専売価格で[本体価格130円+税1,430円]で約1,430円にもなります。びっくりですね。

気づけば塩の専売による収入は、国家歳入の半分を占めるまでに拡大していきました。

両税法と合わせて安史の乱後の約150年間の財政を支えました

しかし、これほどの塩に対する重税と専売によって、もともと塩を販売していた商人たちが安価な塩を密売して出回るようになってしまいます。

自分も消費者側なら10分の1以上で安く買える闇市で買いたいですよね。(笑)

唐政府は当然これを規制するようになり、最終的に塩の密売人である黄巣が反乱を起こすことになります。黄巣の乱については次回取り扱っていきます。

塩の専売
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まとめ

MQ:安史の乱後、唐の社会はどのように変化していったのか?

A:外敵からの侵攻が増えたことで、藩鎮とよばれる節度使の軍閥化が拡大した。それに伴い、中央政府の直接支配が縮小したため、税収減少の対策として両税法や塩の専売などの新税制がおこなわれた。税収は安定したが、格差の拡大や塩の密売などの社会問題も生じた。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

唐は財政難を両税法と塩の専売によって、その後約150年間にもわたる唐王朝を支えました。

しかし、三省などの中央集権体制は機能しなくなり、次回起こる反乱によってついに唐は滅びてしまうことになります。

唐の滅亡の経緯とその後の中国はどうなっていったのか。それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
グシャケン

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主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

2-4.隋、唐
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