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はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は、グローバル世界帝国「唐」の周辺諸国は、唐との外交によって制度や文化を摂取して、唐を中心とする東アジア文化圏を形成します。
では周辺諸国は、いったいどのような影響をうけていたのでしょうか。それではみていきましょう!
MQ:周辺諸国は、唐の体制や文化からどんな影響をうけたのか?
今回の時代はここ!
チベット周辺
中国の南西部には、チベット高原とよばれる世界最大の高原が広がっています。
高原・・・高いところにある草原地帯。気候は乾燥している。
吐蕃(とばん)
チベット高原周辺には、5世紀にチベット王朝が建てられ、7世紀にもなるとソンツェン=ガンポがという人物が諸民族を統一し、唐では「吐蕃(とばん)」と呼ばれた統一王朝が誕生しました。
ソンツェン=ガンポ率いる吐蕃は、唐とは西域のオアシス地域を争う関係にあり、ときには唐に侵攻することもありました。
オアシス地域を押さえれば隊商交易の利益を預かれますからね。
李世民(太宗)の時代には、唐が皇帝の人質を嫁がせて和睦を図るなど、吐蕃はあの大帝国唐と対等な関係を結んでいたんです。
吐蕃は周辺国の中では唐と対等な関係を結んでいた特殊な存在だったんですね。
吐蕃の特徴としては、東に唐、南にインドがあったことから、唐だけでなくインドからも文化を吸収することができました。
ソンツェン=ガンポはインドからも夫人を迎えており、インドの仏典を翻訳するために、大臣を派遣してインド文字を学ばせたことから、インド文字をもとにしたチベット文字ができました。
仏教も唐とインドの両方から文化の影響をうけていたことから、吐蕃では民間信仰と融合しながら独自に発展した宗教であるチベット仏教がうまれました。
SQ:チベット仏教の特徴とは?
では以下のチベット仏教の特徴を読んで、どんな宗教なのか簡潔にまとめてみましょう!
1.チベット仏教は、インド仏教の流れを直接受け継いでいる。サンスクリットの原典を正確に翻訳し、思想哲学や実践修行の面でも、インド仏教の伝統を忠実に踏襲している。
2.チベット仏教には、中国や日本へ伝わっていない教えが数多く存在する。なかでも、最高の思想哲学であるプラサーンギカ派、最奥義の実践修行アヌッタラヨーガタントラの両者はチベット仏教最大の特色である。
3.仏教には、たとえば小乗、大乗、密教といった具合に、一見相互に矛盾するそれらを全て整合性のある数理体系にまとめあげ、実践の指針を提示している。
4.釈尊は弟子たちに、自ら良く考えて教えの中味を吟味し、その後ではじめて教えを信奉するように説いている。チベット仏教では、釈尊のこうした戒めを肝に銘じ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による志向を重視している。
みなさんわかりやすくまとめられましたか?
簡単にいうとこんな感じですかね。
チベット仏教といえば現在、最高指導者であるダライ=ラマ14世が中国の支配に反発した結果、インドへ亡命した後、平和活動によってノーベル平和賞を受賞していますね。
唐後半の8世紀に入ると、オアシス地域に侵攻して唐と国境を定めるほど強大化していきますが、9世紀に入ると内乱やウイグルの進出によって衰退していくことになります。
ウイグル・・・突厥の後にモンゴル高原を支配した騎馬遊牧民族
南詔(なんしょう)
現在の中国南部の雲南省のあたりは、唐が進出する前から複数国家が群雄割拠する状態でしたが、8世紀に統一されて南詔(なんしょう)という国家が建国されます。
ちなみに南詔の「詔」とは「王」を意味し、直訳すると南詔は「南の王」という意味になります。
上の地図をみてもわかるように、南詔は吐蕃と唐に挟まれるように位置していたため、緩衝国として独立を維持していたんです。
緩衝国(かんしょうこく)・・・強国同士の間に位置し,両国の衝突を防いでいる国家。
南詔は気候的に湿度が高い地域でもあったため、唐が討伐しようと遠征した時も多湿に苦しめられて失敗するなど、国家存続という意味では地政学的に恵まれていた国といえるかもしれませんね。
文化的には唐の影響を強くうけて、仏教を推奨したり漢学を推奨するなど、東アジア文化圏の一員となっていました。
しかし10世紀になると、漢人の宰相(大臣)に実権を奪われる形で滅亡することになります。
朝鮮半島周辺
新羅(しんら)
朝鮮半島では朝鮮三国時代を経て、唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした新羅が、その後唐の勢力を追い払う形で朝鮮半島統一を果たしました。
日本のヤマト朝廷も百済救済のために軍を派遣して、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れていますね。
新羅は統一後、唐の冊封体制に加わって親密な交流をおこないます。唐の律令制を導入するなど、官吏(官僚)を中心とする中央集権的な体制を築いていきました。
しかし、新羅の統治体制は唐と大きく違う点がありました。それが骨品制(こっぴんせい)と呼ばれる独自の身分制度です。
この骨品制は、氏族やその出身によって大きく5つの等級に分類し、その等級によって官職が決まったり、結婚などにも制限がある身分制度でした。
骨品制の階級・・・聖骨・真骨・六頭品・五頭品・四頭品 引用:骨品制 (y-history.net)
統治制度は唐を参考にしつつ、官吏(官僚)制度は独自の身分制で運営されていたんですね。
骨品制は古代日本の氏姓制度にも似ていますね。
新羅では歴代の王に仏教が保護され、首都の金城(きんじょう)を中心に寺院が多く建立されて、仏教文化が発展しました。
金城・・・新羅時代の呼称で、現在では慶州(けいしゅう、韓国)と呼ばれている。
渤海(ぼっかい)
一方、滅亡した高句麗の跡地では、高句麗の生き残った人々を吸収して大きな勢力となった渤海(ぼっかい)が朝鮮半島北部一帯を支配しました。
この渤海は、8世紀に入ると唐から冊封をうけて唐の文化を吸収していきます。
唐の三省・六部などの官僚制を導入し、首都の上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ)も唐の長安をモデルに造られました。
SQ:なぜ渤海は日本と親密に交流したのか?
渤海は日本(奈良~平安時代)と頻繁に使節を送り合うなど、親密な交流をおこなっていたことが記録からわかっています。
渤海の上京竜泉府から日本の和同開珎(銅銭)が出土するなど、頻繁に交易していたこともわかっているんですよ。
当時、日本海の横断は行方不明者が多数出るなど困難でした。それにも関わらず、なぜ日本と親密な交流をしていたのでしょうか。
その理由は地政学的な問題でした。
渤海は朝鮮半島北部まで進出していたので、半島を支配していた新羅とは緊張関係にありました。お互い唐の冊封をうけていたといえどです。
なので、新羅の背後に位置していた日本と関係を持つことで、新羅との対立を有利に進めようとしたんです。
日本も新羅との関係が悪くなったときは、渤海経由で遣唐使をおくるなど、お互い頼りにしていたみたいですね。
渤海は次第に内乱が起こるようになり、10世紀に遊牧民系の契丹(きったん)によって滅亡することになります。
日本
日本は後漢の時代から中国との交流があり、隋や唐の時代も朝貢関係を築いて日本からの遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)によって中国文化に大きく影響を受けました。
遣隋使は煬帝の時代に、厩戸王(聖徳太子)が仏教発展のために小野妹子を遣わせましたね。
ちなみに日本が仏教を発展させようとしたのは、朝鮮(百済)から隋が仏教に熱心だったことを聞いて、国造りの参考として仏教を取り入れたそうですよ。
「まずは先を進む先人から学べ。」というやつですかね。
社会制度
SQ:日本の大化の改新はなぜ起こったのか?
唐に代わってからも交流は続き、途中白村江の戦いなどによって関係が悪化して中断した時期もありましたが、9世紀までに15回もの使節派遣を行いました。
では日本(ヤマト政権)は唐からどのような影響を受けたのでしょうか?
唐初期の日本(ヤマト政権)は有力豪族の蘇我氏を中心とする連合政権でした。
その強大過ぎる蘇我氏の政治を良く思わない中大兄皇子や中臣鎌足が、蘇我氏に対するクーデター(乙巳の変)を起こして天皇中心の新政権を建てました。
その後おこなわれた大化の改新によって、天皇中心の中央集権化が進んだんですね。
中国に習って独自の年号を作ったり、「天皇」という呼び方になったのもこの時期だったりと、内外に独立国家として認識されるようになっていきました。
これらの改革の背景にあったのが、大国「唐」から入ってきた文化なんです。
唐の律令制などが日本の朝廷に伝わったことで、それに習って蘇我氏の連合政権から中央集権国家にしようという動きが出てきて起こったのが大化の改新だったんですね。
この大化の改新以後も日本では唐の制度が多く取り入れられていきます。
●大宝律令 ← 唐の律令制度
●班田収授法 ← 唐の均田制
●租調庸制 ← 唐の租調庸制
●和同開珎(銅銭) ← 唐の開元通宝
●藤原京、平城京、平安京など ← 唐の長安
文化
日本は社会制度だけでなく、文化でも多くの影響をうけて独自の文化を形成しました。
遣唐使によって、仏教の経典などを持ち帰ったほか、唐がグローバル国家であったことから西域やイラン・インドの工芸品なども持ち帰られて、唐の国際色豊かな文化の影響をうけました。
これらの影響から、日本では奈良時代に中国(唐)の文化から影響を強くうけた、国際色豊かな貴族文化である天平文化(てんぴょうぶんか)が花開くことになります。
まとめ
MQ:周辺諸国は、唐の体制や文化からどんな影響をうけたのか?
A:唐の律令制などの中央集権体制が周辺諸国で模倣され、各国の特色に合わせた制度が敷かれた。文化面でも漢学や仏教が学ばれ、国際色豊かな東アジア文化圏が形成された。
今回はこのような内容でした。
次回は唐に戻って唐後半の変容と混乱をみていきます。東アジアの中心を担った大帝国唐も終わりが近づいていきます。それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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