[4-1.3]イラン文明の特徴(ゾロアスター教、マニ教、文化)

4-1.アケメネス朝、パルティア、ササン朝
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世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。このブログから世界史を深めてくれると嬉しいです。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

※1記事で教科書0.5~1ページほどの文量です。実際の授業は記事複数分に相当すると思いますので、MQ、SQの設定などは各自で自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

今回はイラン文明の特徴についてやっていきます。パルティアやササン朝での文化は東西文明の間でどんな役割を持っていたんでしょうか。

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:イラン文化は東西文明の間でどんな役割を果たしていたのか?

今回の時代はここ!

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ゾロアスター教

ゾロアスター教とは?

イラン人のゾロアスター(前1300~前1000年頃 or 前630~前553年頃)という人物が創始した宗教がゾロアスター教と呼ばれるものでした。

この宗教はイラン人に広く信仰されて、火や光の崇拝を重視していた宗教でした。

偶像はなく、特に火を神聖な象徴にしていたので、別名「拝火教(はいかきょう)とも呼ばれています。

そして、このゾロアスター教の世界観は善悪二元論に基づいていました。

言い方が難しいですね。簡単に説明すると、

ゾロアスター教の善悪二元論

アフラ=マズダ(善、光明の神) VS アーリマン(悪、暗黒の神)

世界はこの神々による絶え間ない戦いが続いていて、最終的には光明神であるアフラ=マズダが勝利し、最後の審判」で善人の魂が救われるというものです。

なので、ゾロアスター教徒たちは最後の審判に向けてアフラ=マズダの勝利を信じて崇拝するんです。

ゾロアスター教

悪のアーリマンが打ち負かされて善のアフラ=マズダが最後に残るという「最後の審判」の世界観は、後にユダヤ教やキリスト教の一神教に影響を与えたといわれているんですよ。

ゾロアスター教の変遷

ゾロアスター教は、アケメネス朝ペルシアの時代に保護されて、イランで広く信仰されるようになります。

しかし、アケメネス朝の滅亡後にイランでは、アレクサンドロス大王の影響でギリシア文化(ヘレニズム文化)が広まったので、ゾロアスター教も一時衰退してしまいます。

イラン系のパルティアが建国されてからも、しばらくはギリシア語が公用語になるなどギリシア文化が続いていましたが、支配層がイラン人だったので徐々にイラン文化が浸透し始めます。

そして農耕イラン人のササン朝が建国された際に、

ササン朝
ササン朝

アケメネス朝のペルシア帝国を再興するぞ!

となったことで、アケメネス朝で保護されていたゾロアスター教にも光が当たって、ササン朝ペルシアでは国教化されることになったんです。

ゾロアスター教

さらにゾロアスター教は交易路を通じて中国(南北朝、隋、唐)まで伝わって、祆教(てんきょう)」と呼ばれて寺院などが建立されました。

中国でも信仰されていたのは意外でしたね。

教典『アヴェスター』

SQ:なぜササン朝の時代に教典が編纂されたのか?

ゾロアスター教は創始者ゾロアスターが語った教義が口頭によって受け継がれていました。

グシャケン
グシャケン

広範囲かつ長期間、口頭伝承をおこなった際にどんな問題が起きそうですか?

伝言ゲームをしてみるとわかりますよ。(笑)

場所や時期によって伝えられる内容がバラバラになってしまうと思います!

グシャケン
グシャケン

そうなんですよ。時間が経てば経つほどその内容が変化しやすい問題があるんですね。

なので、ササン朝でいざ国教化がおこなわれた際に、

地域によってゾロアスター教の教えが違って混乱が起こっています!

なのでササン朝は各地の教えの違いを統一する必要が出てきて、それによって編纂されたのが教典『アヴェスターだったんです。

SQ:なぜササン朝の時代に教典が編纂されたのか?

国教化された際に、口頭伝承によって生まれた教義の違いを統一するため。

アヴェスター
グシャケン
グシャケン

ちなみに「イラン」という名称も『アヴェスター』から引用されているんですよ。それまではペルシアと呼ばれていたんですが、1935年にパフレディー朝が国号に採用したことで一般化されました。(引用:アヴェスター (y-history.net)

このアヴェスターはイスラーム教が支配する以前のイラン文化を知る貴重な資料となっています。

イランの一部では減少傾向ですが、現在でも数万人規模のゾロアスター教信者がいるとされています。

●「MAZDA」の由来

日本を代表する自動車メーカーに「マツダ(MAZDA)」という企業があります。

スライド(MAZDAロゴと自動車)

この「マツダ」という社名は実は創業者の松田重次郎から取られたものなんですが、英語表記の「MAZDA」はゾロアスター教のアフラ=マズダ(Ahura Mazda)から取られたものなんです。

アフラ=マズダは善(光明)神であり、調和と知性、叡智を司る神であるため、

自動車産業界の「光明」となるのだ!

という思いから「MAZDA」という表記になったそうです。

こんなところにルーツがあったとは驚きですね。

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マニ教

マニ教とは?

ゾロアスター教以外にも、ササン朝では3世紀にマニ教と呼ばれる宗教が誕生しました。

バビロニアに生まれたマニによって創始された宗教で、内容を簡単に説明すると、

マニ教

「ゾロアスター教+ユダヤ教+キリスト教+仏教+ギリシア哲学」を折衷(せっちゅう)した宗教

なんだかいろんな宗教が混ざり合っていますね。(笑)

このマニ教は一時ササン朝で保護されて、世界各地(北アフリカ~中国)で信仰されるほどの勢いを見せました。

SQ:なぜマニ教がササン朝で誕生したのか?

ではなぜこのような「ごちゃ混ぜ宗教」がササン朝のイランで誕生したのでしょうか?

それはササン朝イランの地理的特徴が要因の一つとされているんです。

この地図をみると、東西文明の間に位置していて東西交易の中継地にあたることがわかりますね。

これは[4-1.2]セレウコス朝、バクトリア、パルティア、ササン朝でも取り上げているので、ぜひご覧ください。

西のビザンツ帝国(東ローマ帝国)西のインドや中国王朝からモノやヒトが行きかうことで、さまざまな文化がイランのササン朝に集まっていました。

なので、ササン朝では多様な文化が共存している状況から、他文化に対して寛容的な習慣が出来上がっていました。

なのでマニ教のような折衷宗教ができてもおかしくない環境であったことが考えられます。

SQ:マニ教がササン朝で誕生した要因とは?

ササン朝(イラン)が東西交流の場であり、多文化共存の環境であったことからマニ教が誕生した。

マニ教
グシャケン
グシャケン

マニ教は各地に影響を与えていて、キリスト教の教父アウグスティヌスやアルビジョワ派などの一部に影響を与えているんですよ。

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イラン文化の波及

ササン朝(左)と法隆寺(右)の「獅子狩」図案  資料:『詳説世界史探究』山川出版社

このササン朝と日本の「獅子狩」を見てみると、とても似ていると思いませんか?

なぜ遠い文明でこれほど似たものがあるのでしょうか?

ササン朝時代は東西交易の影響もあって建築・美術・工芸が発展した時代でもありました。

イラン人は装飾技術に優れていたため、その芸術性が文化で発揮されたんですね。

ササン朝はイスラーム勢力によって滅ばされますが、その文化は継承されてイスラームと一緒に東西へと広がっていきました。

東の中国(唐)ではササン朝滅亡後に、多くのイラン人が唐の長安に移住したので、唐の国際性が高まったともいわれているんです。

こうしたササン朝のイラン文化は、中国の南北朝~隋唐から海を渡って日本(飛鳥~奈良時代)にまで伝わってきたんです。

奈良時代の天平文化はこの影響を受けているんですよ。

天平文化・・・唐文化の影響を受けて栄えた貴族文化

このようなことから、日本でも唐を介してイラン文化が伝わってきて文化に影響を与えられたんです。

正倉院の拍瑠璃椀(上)とササン朝のカットグラス(下) 資料:『詳説世界史探究』山川出版社
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まとめ

MQ:イラン文化は東西文明の間でどんな役割を果たしていたのか?

A:東西文化の交流地であったため、それらが融合した独自のイラン文化を育んだ。そしてそれらが東西へと広がったことで、各地で国際性豊かな文化に影響を与えた。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回からは地中海へと舞台を移していきます。まず初めは「ギリシア文明」です。いったいギリシア人はどんな文明を築いたのでしょうか?

それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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