世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はローマ帝国が分裂した後に長期間繁栄したビザンツ帝国(東ローマ帝国)についてです。
なぜ西ヨーロッパに比べて混乱がなく、繁栄することができたのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ビザンツ帝国は、なぜ西欧とは対照的に繁栄することができたのか?
今回の時代はここ!
成立とギリシア化
SQ:なぜビザンツ帝国と呼ばれるようになったのか?
ビザンツ帝国は、4世紀にローマ帝国のテオドシウス帝の死後、帝国が東西に分けられて、東ローマ帝国として成立したのが始まりでしたね。
その後、西ローマ帝国はゲルマン人の大移動の混乱の中、滅亡してしまいました。
なので東ローマ帝国がローマ帝国の意志を受け継いでいくことになりました。
ですが、ここから東ローマ帝国の性質が変化していくんです。
みなさん、東ローマ帝国の首都はどこだが覚えていますか?
コンスタンティノープルです!
そうでしたね。
コンスタンティヌス帝時代に経済の中心地となるビザンティウムに遷都して名付けられた所でしたね。
コンスタンティノープルは東側にある文明との中継地として、「第二のローマ」とも呼ばれ、繁栄していました。
しかし東ローマ帝国はローマ帝国を継承してといっても、もともとの中心地だったローマから離れていて、地域的にもギリシア人が多く住む場所でした。
なので、自然とギリシア文化が浸透していって、公用語だったラテン語も次第にギリシア語に代わっていったんです。
当然文化もギリシア古典文化が浸透して、東ローマ帝国はローマ帝国とは違う文化や習慣が出来上がったというわけです。
なので、7世紀ごろになるとローマ帝国との性質の違いから、かつてコンスタンティノープルに存在した都ビザンティウムに由来して「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになったんです。
ゲルマン人の大移動の影響
4世紀にゲルマン人の大移動によって、西ヨーロッパを中心に勢力図が大きく変わる大混乱が起きましたよね。
その中で先ほどから言っているように西ローマ帝国も滅亡してしまいます。
ではビザンツ帝国はこの混乱によってどんな影響を受けたんでしょうか?
実はゲルマン人の大移動による打撃はあまり受けていなかったんです。
SQ:なぜゲルマン人の大移動の打撃を受けなかったのか?
ではなぜビザンツ帝国は打撃を受けることなく、繁栄できたんでしょうか?
①軍事力と防衛力
もちろんゲルマン人たちはビザンツ帝国に向かう方法もあったんですが、ビザンツ帝国では軍隊が整備されていて、特にコンスタンティノープルの城壁が強固だったことで、ゲルマン人の侵入を最小限に留めことができたんです。
②地理的条件
ビザンツ帝国の守りが固かったのもあると思いますが、大移動の原因だったフン人が東からやってきたことから、多くのゲルマン人は西に向かって移動したため、主に侵入は西ローマ帝国に集中する結果となりました。
③外交力
ビザンツ帝国は逆にこのゲルマン人の大移動を利用しました。
傭兵として兵力増強のために西ゴート人を帝国内に受け入れたり、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを討伐するためにランゴバルド人と手を組んだりしました。
このような巧みな外交によってゲルマン人と同盟を結んで上手く利用したんです。
まあ結果的には、西ゴート人には反乱を起こされて和約する形になり、ランゴバルド人には隙を見てイタリア半島を取られてしまいましたが・・・
④財政力
そしてこれまでの条件はすべてビザンツ帝国の財政力によって支えられていました。
だってお金ないと何もできないでんすもんね。
当時首都だったコンスタンティノープルは、東西文明の中継地として交易が活発におこなわれていました。
加えて遷都を決めたローマ帝国のコンスタンティヌス帝が鋳造させたソリドゥス金貨が流通したことで、さらに交易が活発になっていきました。
いろいろな通貨が使われるより、統一されているほうが使い勝手がいいですからね。
しかも帝国お墨付きの金貨であれば信用があるので他の通貨との為替もしやすいでしょうし。
ちなみに「ソリドゥス」はラテン語だったので、次第にギリシア語の「ノミスマ」と呼ばれるようになっていき、中世まで地中海交易の象徴として重宝されました。
同時にコンスタンティノープルも中世までヨーロッパ世界最大の交易都市として繁栄していました。
交易によって経済力を高まった結果、財政も潤うことになって、それが強固な城壁による防衛力や巧みな外交を支えたわけなんです。
これら①~④の条件によってビザンツ帝国はゲルマン人の大移動の打撃をあまり受けずに済んだわけなんですね。
ビザンツ皇帝とギリシア正教会
ビザンツ帝国にはキリスト教の五本山の1つのコンスタンティノープル教会があり、5世紀半ばにはローマ教会と同等の地位をもつ存在にまでなっていました。
なのでキリスト教世界においてもビザンツ帝国は重要なポジションに就いていたということです。
そのコンスタンティノープル教会ですが、ビザンツ帝国はギリシア文化の影響を強く受けた帝国だったので、キリスト教も同じくギリシア文化の影響を受けて、帝国内で独自の発展を遂げていきました。
典礼にはギリシア語が使われて、ローマ教会とは違い、「正統」を主張したことからコンスタンティノープル教会を中心としたキリスト教を「ギリシア正教会」と呼ばれて区別されるようになっていったんです。
ギリシア正教会はビザンツ皇帝と結びついて、政治面は“ビザンツ皇帝”、宗教面は“コンスタンティノープル教会が担う役割分担がしっかりとできていて、ビザンツ皇帝はギリシア正教会を管理する立場にありました。
なので、ビザンツ皇帝はイエス=キリストの代理人として地上を統治する権限が与えられていました。
基本的にはローマ帝政期以来の巨大な官僚制を中心とした皇帝の専制支配が続いていたので、このようなギリシア正教会との関係性から、政治・宗教の両方においてビザンツ皇帝は絶大な権力者として君臨していたんです。
このような状況から、ギリシア正教会はビザンツ皇帝の保護を受けて発展していくことができたので、後に東ヨーロッパやロシアなどにも広がっていき、「ロシア正教会」などの独立教会に発展していきました。
ビザンツ帝国(東ヨーロッパ)ではキリスト教と皇帝が結びついていたんですが、西ヨーロッパでは後に皇帝と教皇とい2つの権力がそれぞれ存在するような複雑な関係ができていきます。
まとめ
MQ:ビザンツ帝国は、なぜ西欧とは対照的に繁栄することができたのか?
A:防衛力や地理的条件、外交などによってゲルマン人の大移動の打撃を最小限に留め、コンスタンティノープルを中心とした交易事業によって繁栄することができた。
今回はこのような内容でした。
次回はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の発展をみていきます。ユスティニアヌス帝というカリスマによって一気に地中海世界の覇者として君臨していくことにあるビザンツ帝国。その文化面も合わせてみていきましょう。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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