広告

[2-3.1]三国時代、晋、五胡十六国

2-3.魏晋南北朝

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

広告

はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は長期王朝だった漢(後漢)が滅んで、群雄割拠の時代に入っていきます。その中でまたしても遊牧民の介入によって中国王朝は複雑化していきます。

その変遷をたどっていきましょう!

MQ:中国の群雄割拠が長く続いたのはなぜか?

今回の時代はここ!

魏晋南北朝時代

今回から複数回にわけて扱う魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、三国時代~隋(ずい)の統一までを指します。長くて複雑ですが頑張っていきましょう!

広告

三国時代(魏・呉・蜀)

後漢は末期には宦官と官吏との権力闘争などによって政治が混乱し、農民による黄巾の乱などが起きましたよね。その王朝衰退をみて各地の豪族たちが軍事政権を建てて台頭したことで後漢は滅亡していきました。

後漢は宦官と官吏の権力闘争の中で、軍事力で権力を握って皇帝を保護した曹操(そうそう)によって形式上王朝を保っていましたが、220年に皇帝が曹操の息子である曹丕(そうひ)に禅譲したことで後漢は名実ともに終わりを告げました。

禅譲(ぜんじょう)・・・前皇帝から平和的に帝位を継承して新たな王朝を開くこと。詳しくは[15]殷・周でご確認ください。

後漢滅亡後は、皇帝を形式上継承した曹丕、漢王室の末裔(まつえい)だと自称する劉備(りゅうび)の、豪族から大国を築いた孫家である孫権(そんけん)の、が並び立って覇権を争った三国時代に突入しました。

三国時代

いわゆる日本でも人気の「三国志」の時代です。このストーリーを話すと長くなるのでここでは割愛させていただきます。書籍や漫画等でお楽しみください。ちなみに個人的には「赤壁の戦い」や「諸葛良孔明」などが好きです。

この三国「魏・呉・蜀」は周辺の異民族を引き入れながら抗争を繰り返しました。

その際に魏と繋がっていたのが日本の邪馬台国なんです。卑弥呼(ひみこ)さんが統治していた国家ですね。

魏は当時、呉と戦争中であり、東の邪馬台国を優遇して従わせれば、呉との戦いを有利に進められると判断、冊封したといわれています。

なので邪馬台国に使者を出して、当時日本になかった銅鏡などを卑弥呼に献上した話は有名ですね。

魏と邪馬台国
広告

晋(西晋)

そして三国時代は最終的にどこが覇権を取ったのか、、、

なんと(しん)」という王朝が中国を統一しました!

えーっ!三国じゃないっ!どこそこ!?

て感じですよね。(笑)

この晋(西晋)は魏の将軍であった司馬炎(しばえん)によって建国された王朝です。

晋(西晋)・・・滅亡して後に再び晋(東晋)が復興されたことから、区別するためにこの王朝は西晋(せいしん)と呼ばれる。

司馬炎

司馬炎の祖父にあたる司馬懿(しばい)は魏の曹操や曹丕に仕えた将軍でしたが、曹丕の死後にクーデターを起こして権力を握り、皇帝を意のままに操っていました

そして司馬炎の時代に皇帝に禅譲させたことで、できた王朝が晋(西晋)なんです。

晋の建国

曹操の時代から魏(厳密には後漢末から)は、荒廃した土地を国有化して貧民や奴隷、兵士に割り当てて耕作させる屯田制によって国力を上げていました

屯田制・・・税率は5割(牛を借りた場合は6割)と割高だったが、現物納税で銅銭に変える必要がないことから、貧民などに受け入れられて普及した。※貨幣納税だと景気によって穀物換金率が変動するため。

屯田制

土地を国有化して国民に割り当てるという屯田制のような政策は後の王朝にも引き継がれていきます

これを引き継いだ司馬炎は皇帝即位前に蜀を滅ぼし、晋を建国後に呉も滅ぼして中国統一を成し遂げたのです。

盛り塩」の起源

みなさん「盛り塩」はご存じですか?

お清めや厄除けに使うイメージが強いかもしれませんね。

この「盛り塩」の起源は晋の司馬炎の習慣からできたといわれているんです。

司馬炎は中国統一に夢中になる一方で、女性に対しても夢中になる一面がありました。

中国を統一後に後宮の宮女も各国から統合されたことで、総勢1万人の大所帯となっていました。

後宮・・・皇后や妃(きさき)などが住む宮殿

司馬炎は、その後宮を羊が引く車に乗って移動して、その羊が止まった所にいた宮女と一夜をともにするという習慣がありました。

後宮には1万人の宮女がいるので、

宮女
宮女

なんとか羊を止めて皇帝と一夜をともにしたいわ!

という思いから、車を引く羊を止めるために住居の前に竹の葉や盛り塩を置いたという話からできた習慣が「盛り塩」なんですね。

この「引き留める」という意味合いから、日本では飲食店などが店前での「盛り塩」を置いたことで、習慣化されたらしいです。

晋は統一を機に、軍を縮小させて農耕をさせる(帰農)ことで国力を安定させようとしました。

しかし、司馬炎の次期皇帝は精神障害を抱えていたらしく、皇后や外戚が実権を握るありさまになってしまいました。

それに対して各地を経営(統治)していた諸王(司馬一族)は不満から次々と挙兵して反乱を起こしました。司馬家の有力な8人の王が覇権を争ったことから八王の乱と呼ばれています。

八王の乱

この反乱をきっかけにある人たちが中国に進出してきます。

モンゴル高原の騎馬遊牧民たちです。

SQ:なぜ八王の乱の時期に騎馬遊牧民が進出してきたのか?

グシャケン
グシャケン

八王の乱によって各諸王はある問題に突き当たりました。それは何だと思いますか?

それは兵力の不足です。晋は兵士たちを帰農させていたので国全体の軍事力が低下していたんです。

では不足する兵力はどうすればよいでしょうか?

いちから訓練するには時間がかかります。手っ取り早く軍事力を補強するためには、周辺の勢力から借りてくればいいのです。つまり傭兵ですね。

その傭兵となったのが、北方で暮らす騎馬遊牧民たちでした。

八王の乱

はじめ遊牧民は傭兵として利用されていましたが、段々と自分たちの戦闘力の高さを自覚するようになります。そして次第に遊牧民自ら中国(農耕社会)へ進出して勢力を拡大させていきました。

SQ:なぜ八王の乱の時期に騎馬遊牧民が進出してきたのか?

初めは権力闘争の傭兵として利用されたが、次第に自ら農耕社会への進出を伺うようになり、進出してきた。

遊牧民からしたら安定して食糧が手に入る農耕社会を支配下にいれると便利ですもんね。

結果、華北に進出していた五胡(ごこ)が蜂起して、八王たちは滅ぼされ、晋も匈奴の侵攻によって首都の洛陽が陥落してしまいました。皇帝は長安へ逃げましたが、そこも攻略されて316年に晋(西晋)は滅亡します。

五胡・・・匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、(けつ)、(てい)、(きょう)の5つの遊牧民を指す。

五胡
広告

五胡十六国時代

五胡の進出によって司馬一族はほとんどが殺されてしまいましたが、その虐殺をのがれた王族の司馬睿(しばえい)が、南に逃れて晋を再建します。この晋は司馬炎の西晋と区別して東晋(とうしん)と呼ばれます。

華北ではすでに五胡が進出しており、多くの国が建てられました。その興亡は数にしてなんと135年間で16国です。

なのでこの五胡の興亡の時代は五胡十六国時代と呼ばれています。

五胡十六国時代

※十六国の中には漢人が建てた国もあるのでご注意を。

遊牧民が建てた国家とはいえ、決して漢人を排除しながら統治したわけではなく、漢人を官僚として採用するなど、漢人の文化と融合させながら統治していました。

まさに遊牧国家の特徴である複合国家ですね。

遊牧民文化との融合

五胡十六国時代は遊牧民が漢人の人材や文化を取り入れながら、お互いの文化や習慣が融合していった時代でもありました。

なので遊牧民の生活習慣である騎馬の習慣や椅子での生活、主食が米から小麦が使われるようになったりと、現在の中国の人たちの生活にもつながっているものがたくさんあるんです。

椅子が遊牧民から伝わっていたのは衝撃ですね。それまで「椅子に座る。」という概念がなかったのが驚きです。

広告

まとめ

MQ:中国の群雄割拠が長く続いたのはなぜか?

A:漢人同士の争いに傭兵として遊牧民を利用したことで、中国王朝への遊牧民の進出が進んだ。遊牧民は次第に勢力を拡大し、中国の混乱期を利用して華北を中心に遊牧国家を興亡させたことで、群雄割拠の時代が長期化した。

今回はこのような内容でした。

この華北地方の遊牧民たちの群雄割拠(五胡十六国時代)は、5世紀前半に鮮卑(せんぴ)の拓跋氏(たくばつし)によって建国された北魏(ほくぎ)によって統一されることになります。

この北魏と東晋が建てられた後の南朝は、その後どうなっていったのかをみていきたいと思います!

それではお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

2-3.魏晋南北朝
広告
mk-historyをフォローする
広告

コメント

タイトルとURLをコピーしました