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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はビザンツ帝国の衰退と滅亡についてです。東ヨーロッパの大国として君臨したビザンツ帝国はなぜ衰退してしまったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ビザンツ帝国は衰退した原因とは?
今回の時代はここ!

領土縮小

まずビザンツ帝国の復習を少ししておきましょう。
ビザンツ帝国は別名「東ローマ帝国」と言い、4世紀末にローマ帝国が東西分裂した際の東側の帝国として、コンスタンティノープルを首都に繁栄した帝国でしたね。
そして6世紀のユスティニアヌス帝の時代に地中海周辺を統一して全盛期を向かえました。
ギリシア正教の拡大や首都が世界一の国際貿易都市として発展するなど繁栄を極めますが、ユスティニアヌス帝が亡くなった後からビザンツ帝国に陰りが見え始めます。
[5-2.2]ゲルマン人の大移動に乗じて支配していたイタリア半島を征服に協力していたランゴバルド人に奪われてしまい、フランク王国にも侵入されて失ってしまいます。
加えて7世紀には西アジアでイスラーム教が誕生して、アラブ=イスラーム軍がビザンツ帝国領に侵入してきました。
当時はササン朝ペルシアとも抗争していたので、抗争によって疲弊した軍隊をそのまま向かわせたことでアラブ=イスラーム軍にボロ負けしてしまい、シリアとエジプトも失ってしまいました。

特にエジプトは穀倉地帯だったので、特に痛手になってしまったようです。
その後もウマイヤ朝などがコンスタンティノープルを包囲するなど危機を向かえますが、なんとか撃退して帝国は存続することになります。
しかし、帝国ではゲルマン人の大移動と一緒になって移動していた、東からの異民族にも悩まされることになりました。
東方のスラヴ人や中央アジアのトルコ系ブルガール人などがバルカン半島に進出してきて、ビザンツ帝国の領土を圧迫してきたんです。

特にブルガール人はスラヴ人と同化しながら、バルカン半島南部にブルガリア帝国を築いてビザンツ帝国と抗争するなど大国としてビザンツ帝国を脅かしました。
このような異民族の進出も相まってビザンツ帝国は領土を縮小していくことになりました。


テマ制(軍管区制)
ビザンツ帝国では、初め広大な領土を属州にわけて総督を置いて行政を委任する方法を採っていました。
しかし、7世紀ごろから異民族の侵入が激しくなったので、属州制を改めて帝国を複数の軍管区(テマ)にわけて、そこの司令官に行政に加えて軍事の権限も与えるテマ制(軍管区制)を実施して対応しました。
軍事権も与えることで異民族に迅速に対応しようとする狙いがあったんです。
軍管区(テマ)では農民に農地を与えて農作物を納税させて、戦時には兵士として徴兵する屯田兵制がおこなわれました。
これによって自分の土地を持つ農民(自作農民)が増えていき、ビザンツ帝国を支える存在となっていくことになります。
しかし、テマ制では司令官に権限が集中していたので、皇帝のコントロールが効かない独立政権のようになったので、皇帝に反乱を起こす軍管区も現れました。
これに対して皇帝は、テマの再分割や皇帝直轄軍の編成によって司令官の暴走を抑えて中央集権化を進めていきました。

混乱と滅亡
プロノイア制
10世紀以降、ビザンツ帝国は改革や巧みな外交手段によって国力を回復していきました。
軍事的にもブルガリア帝国を滅亡させるなど、勢力を拡大させることにも成功します。
しかし、首都のコンスタンティノープルに富と権力が集中しすぎたせいで、周辺との経済的格差が社会問題となってしまい、権力争いや地方反乱が絶えず起きるようになってしまいます。
しかもそのタイミングで侵攻してきたのがセルジューク朝でした。

セルジューク朝は西アジアで勢力を拡大していたイスラーム政権でしたね。
アナトリア(現在のトルコ)での戦いでビザンツ帝国はセルジューク朝に大敗してしまい、アナトリア領土の多くを失ってしまうことになります。
帝国内の反乱やセルジューク朝などの侵入によって帝国内が荒れてしまったことで、テマ制(軍管区制)によって土地を与えられていた屯田制の農民たちが大量に土地を失ってしまい、、帝国の軍事力と徴税力が減少してしまいました。

こうした状況を打開するために打ち出された政策がプロノイア制と呼ばれる制度です。
プロノイア制とは、戦いで活躍した貴族(大土地領主)に対して、新たな土地とそこの徴税権を与えるというものでした。
もともと実施されていたテマ制(軍管区制)の機能が低下してしまっていたんで、それによって失った軍事力を補うために実施されたのがこのプロノイア制だったということなんです。

土地がもらえるなら貴族たちも頑張って戦ってくれそうですもんね。

SQ:プロノイア制によって帝国で起きた問題とは?
しかし、このプロノイア制の実施によって帝国ではある問題が起きてしまいました。

これは西ヨーロッパの封建社会での国王の立場を思い出せば理解できるかもしれませんね。
プロノイア制によって貴族たちに土地が与えられたことで、貴族たちは帝国が介入できない大土地を所有することになりました。
これによって中央集権的なテマ制(軍管区制)が崩壊することになってしまい、帝国内での貴族たちの勢力が拡大して地方分権的な国家へとなっていきました。

初めは世襲できなかったんですが、時代が進むにつれて世襲が認められるようになって、封建化が進んでいきました。
結果、プロノイア制によって貴族たちは土地を手に入れて勢力を拡大し、土地を手放していくことになった皇帝の権力は弱体化していくということになりました。
貴族の大土地所有化が進展して勢力を拡大した反面、皇帝は帝国内での権力が弱体化していく問題を抱えた。

衰退
帝国の軍事力強化を図るなどの対策をおこないましたが、セルジューク朝の侵攻を食い止めることができなかったので、ビザンツ皇帝はそれまで対立していたローマ=カトリック教会に救援要請をすることで問題を解決しようとしました。
これによって結成されたのが十字軍でしたね。
十字軍は一時は聖地を奪還するなどの成果を上げましたが、その目的は徐々にずれていって第4回十字軍の際に、ビザンツ帝国にとっての悲劇が起こりました。
ヴェネツィア商人の経済的な理由によって起きたコンスタンティノープルへの攻撃です。
この第4回十字軍によって首都コンスタンティノープルが陥落してしまい、ラテン帝国が建国されたことで、ビザンツ帝国は領土のほとんどを失って地方に亡命政権を作る羽目になってしまいました。

まさに帝国存続の危機ですね。
しかし、その後ラテン帝国が周辺諸国との争いに敗れて衰退していったので、そのスキを突いてビザンツ帝国はコンスタンティノープルの奪還に成功して、なんとか帝国を再興させました。
しかし、全盛期の領土の大半を回復することはできず、首都周辺とギリシアの一部に限定されてしまいました。

もうかつての繁栄が取り戻すことはできなかったんです。

滅亡
弱体化したものの、ローマ帝国の後継であることとギリシア正教会の本山としての権威はなんとか保っていたビザンツ帝国でしたが、14世紀中ごろからはオスマン帝国に領土を圧迫されるようになります。
オスマン帝国からの圧迫に約100年ほどは耐えたんですが、オスマン帝国のメフメト2世によってコンスタンティノープルが陥落してしまい、1453年に約1000年にも及んだビザンツ帝国は滅亡することとなりました。

まとめ
MQ:ビザンツ帝国は衰退した原因とは?
A:相次ぐ異民族の侵入や十字軍からの攻撃によって領土を縮小させ、貴族の封建化が進んだことで皇帝の権威が低下してしまい、国力を回復させることが困難になってしまったこと。

今回はこのような内容でした。

次回はビザンツ帝国の文化についてみていきます。ビザンツ文化はその後の世界に何を残したんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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