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[5-2.2]ゲルマン人の大移動

5-2.ヨーロッパの発展

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は多様なヨーロッパの民族の中でもゲルマン人による大移動の歴史をみていきます。

なぜゲルマン人は大移動することになったのか?それはヨーロッパにどんな影響を与えたんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜゲルマン人の大移動が起こったのか?それによる影響とは?

今回の時代はここ!

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ゲルマン人とは?

ゲルマン人とは、インド=ヨーロッパ語族に含まれる民族です。

現在では、イギリス、ドイツ、オランダ、デンマーク、スウェーデンなどの祖先にあたり、ヨーロッパ各地に広がっています。

ヨーロッパの民族分布 資料:https://nacssee.blogspot.com/2021/06/blog-post_876.html
グシャケン
グシャケン

ゲルマン人の特徴としては、長身、ブロンドの髪、碧い目、高い鼻などですかね。

みなさんが想像する「THE・西洋人」といった感じですかね。

ゲルマン系のモデル 資料:Tiger of Sweden | Spring 2018 | Men’s Campaign | Mathias Lauridsen (thefashionisto.com)

もともとは現在のバルト海沿岸に複数の部族に分かれて住んでいましたが、歴史と共に拡大して現在のようになっているんです。

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ゲルマン人の東ヨーロッパへの拡大

先住民ケルト人

ヨーロッパには、もともとケルト人が住み着いていました。だいたい前6世紀ごろからだそうです。

ケルト人はアルプス以北に広く分布していて、西ヨーロッパに鉄器を普及させて高い技術を持っていました。

現在のイベリア半島(スペイン)からギリシアまで分布して各部族に分かれて勢力争いを繰り返していました。

ケルト人

ゲルマン人の拡大

そのケルト人の勢力範囲に入ってきたのがゲルマン人でした。

彼らは農耕・牧畜をして暮らしていましたが、長い時間をかけながらケルト人を圧迫しながら東から西に移動していき、紀元前後にはローマ帝国と国境を接するまでに勢力を拡大させていきました。

グシャケン
グシャケン

この時代のローマはちょうどカエサルオクタウィアヌス(後アウグストゥス)が活躍した時代で帝政期が始まる前後の頃ですね。

なぜ東から西へと拡大したのかについては前回の授業で触れましたね。

あくまで一説として参考にしてください。

その後も拡大は止まらず、ローマ帝政末期にもなると帝国内に移住して下級官僚や傭兵、コロヌスになるゲルマン人も多く現れるようになりました。

ゲルマン人

SQ:なぜゲルマン人は拡大していったのか?

では、なぜゲルマン人はこれだけの拡大ができたのか?

それはゲルマン人たちの農耕スタイルにありました。

上記でも触れたように、ゲルマン人は農耕・牧畜を中心としていましたね。

このゲルマン人の農耕の生産力が低かったことが拡大の原因だったんですよ。

ゲルマン人たちは、耕す際には肥料も使わず、土地を休ませる(休閑、きゅうかん)という方法も知らなかったので、栽培量が少なく、土地の栄養が枯れてしまうのも早かったんです。

なので頻繁に農地を移動しなければいけなかったので、自然と移動する頻度も増えていき、次々と土地を開拓していったんです。

こういった農地不足解決ゲルマン人拡大のパワーとなったんですね。

SQ:なぜゲルマン人は拡大していったのか?

農耕の生産性が低かったために、農地不足となり、開拓を進めていく過程で拡大していった。

ゲルマン人

ゲルマン人社会

そうして拡大したいったゲルマン人の社会は、数十の部族に分かれていて、すでに貴族・平民・奴隷の身分制度がありました。

しかし、重要な政策などの決定は成年男性(奴隷以外)が集まって決める民会おこなわれていたんです。

グシャケン
グシャケン

たまに野蛮人と勘違いしている方もいらっしゃいますが、ゲルマン人社会は私たちが想像するよりも先進的だったんですよ。

小部族にわかれていたゲルマン人でしたが、拡大するにつれて戦闘に優れた指導者が部族をまとめていき、大部族へと発展していきました。

ゲルマン人社会
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ゲルマン人の大移動の始まり

フン人のヨーロッパ侵入

ローマ帝国の国境に触れてローマ帝国内にも進出していったゲルマン人でしたが、4世紀に歴史を動かす大事件が起きます。

フン人のヨーロッパ侵入です。

フン人は中央アジアからやってきた遊牧系騎馬民族で、トルコ系・モンゴル系の遊牧騎馬民族とされています。

グシャケン
グシャケン

この「フン人」とはヨーロッパ側の呼び方で、謎が多い民族とされています。

一説にはモンゴル高原にいた匈奴が前1世紀に南北に分裂した際に、北匈奴が西に移動してフン人と呼ばれるようになったと言われています。

このフン人は375年に突如として現在の東ヨーロッパに侵入し、ゲルマン人部族を征服、圧迫し始めます。

フン人はまず、東ゴート人の大半を征服してしまいます。

その後、西ゴート人にも侵攻して、西ゴート人はフン人から逃げるように南に進んでローマ皇帝保護求めて帝国内に移住していきました。

これをきっかけに他のゲルマン民族も押されるように大規模な移動を始めます。

そしてその後、民族移動が約200年続いたことから、ゲルマン人の大移動と呼ばれるようになったんです。

フン人 東ゴート人 西ゴート人 ゲルマン人に大移動
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大移動の変遷

西ゴート人

西ゴート人は東ゴート人がフン人に征服されるのを聞いて、逃れるようにローマ皇帝に保護を求めて、ローマ帝国内に移住していました。

ローマ帝国は兵力増強のチャンスとみて移住を許可しましたが、その後の待遇が良くなく、西ゴート人は反乱を起こし、テオドシウス帝の時に和約して自治を勝ち取りました。

ローマ帝国が東西に分裂する前後からは、西ゴート人はアラリックに率いられて東西ローマ帝国に度々侵入を繰り返します。

西ローマ帝国がゲルマン人の排除を計画した際には都ローマを占領して略奪の限りを尽くしました

西ゴート人強し、、、

その後、西ゴート人はアルプスを越えて、イベリア半島に移動して西ゴート王国を建国しました。

711年にイスラーム教の勢力に征服されるまでキリスト教国として繁栄しました。

西ゴート人

ヴァンダル人

このゲルマン人の大移動で一番長い距離を移動したのが、このヴァンダル人でした。

ヴァンダル人はもともと現在のドイツとポーランドの国境沿いに住んでいた民族でした。

他と同じくフン人の圧迫に押される形でローマ帝国内に流れ込み、ヒスパニア(現在のスペイン)まで移動していきました。

しかし、そこに同じくやってきた西ゴート人との戦いに敗れて、船でジブラルタル海峡を渡って北アフリカまで逃れていきます。

そしてその後、ようやくカルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国しました。

グシャケン
グシャケン

地図で見てもとても大変な長旅でしたね。

その後は艦隊を率いて、シチリア島やサルデーニャ島などの地中海の島々を制圧しました。

都ローマにも侵攻して略奪していたんですよ。西ゴート人に続いて都ローマをボコボコにしたことで西ローマ帝国の滅亡を早めたといわれています。

6世紀に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス帝によって滅亡されるまで北アフリカで繁栄しました。

ヴァンダル人

ブルグンド人

ブルグンド人はバルト海沿岸に住んでいた民族でした。

大移動の過程でガリア(現在のフランス)に移動して、ブルグンド王国を建国しますが、6世紀にフランク王国に征服されてしまいました。

グシャケン
グシャケン

ブルグンド王国があった場所は現在ブルゴーニュ地方として残っています。

ブルゴーニュってそういう意味だったんですね。

フランク人

そしてライン川付近に住んでいたのがゲルマン民族で後に唯一の生き残りになるフランク人でした。

フランク人はガリア北部(現在のフランス北部)に移動してフランク王国を建国しました。

グシャケン
グシャケン

フランク王国については後の授業で詳しく扱っていくので、詳細は次回のお楽しみに!

ブルグンド人、フランク人

アングロ=サクソン人

アングロ=サクソン人はもともと北海沿岸に住んでいました。

大移動によって大ブリテン島(現在のイギリス)に移住し、先住民のケルト人を征服して9世紀までのあいだにアングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)を建国しました。

現在のイングランドEngland )という地名はアングロ=サクソンの「アングル人の土地」という意味から取られているそうです。

グシャケン
グシャケン

ちなみに現在学校で習う「英語」もこのアングロ=サクソン人の言語が始まりとされています。

「English」という言葉は、「アングル人の言葉」という意味で使われるようになりました。

この言葉は、アングル人の名前「Angl-」から派生しているので、ケルト系のスコットランドやアイルランドの人々は「English」と呼ばれることを好んでいないようです。これは彼らがアイデンティティを大切にしているためでしょうね。

アングロ=サクソン人

フン人の帝国崩壊

ゲルマン民族を突如圧迫したフン人は、そのまま進軍を続け、5世紀前半にパンノニア(現在のハンガー)周辺に帝国を築きました。

アッティラ王の時に全盛期を向かえて、東西ローマと争いながら勢力を拡大していきました。

アッティラ 16世紀のレリーフ

しかし、西ローマ帝国とゲルマン人の連合軍と戦ったカタラウヌムの戦いでは敗北てしまいます。

その後、アッティラ王が疫病で亡くなってしまった後は、フン人の帝国は急速に衰退してしまい、滅亡してしまいました。

フン人 アッティラ王 カタラウヌムの戦い

西ローマ帝国の滅亡

このような混乱の中で、西ローマ帝国はボロボロの状態の中でゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅亡してしまいます。

東ゴート人

東ゴート人はフン人の被害を最も受けたと言っていい民族で、フン人がヨーロッパに侵入した際に一番最初にフン人の圧迫を受けて大半を征服されてしまいました。

しかし、フン人が衰退した後テオドリックに率いられて東ローマの要請で都ローマに向かい、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを暗殺して、そこに東ゴート王国を建国することに成功しました。

しかし、その後はユスティニアヌス帝率いる東ローマ帝国と度々交戦していましたが、最終的には東ローマ帝国によって滅亡されてしまいました。

東ゴート人 テオドリック

ランゴバルド人

もともとエルベ川流域に住んでいたランゴバルド人は、大移動によって東ローマ帝国内で住むことになります。

その後、ユスティニアヌス帝による地中海征服に協力して、東ゴート王国滅亡に加担したりもしました。

しかし、東ローマ帝国が衰退していくのを見計らってイタリア半島に侵入して、東ローマ軍を追い出してランゴバルド王国を建国してしまいました。

ランゴバルド王国はその後、約200年ほど王国は続きましたが、8世紀にフランク王国のカール大帝によって滅亡してしまいました。

ランゴバルド人
グシャケン
グシャケン

このランゴバルド王国の建国で、ゲルマン人の大移動は一旦落ち着いて終わりを迎えました。

なので、

ゲルマン人の大移動

西ゴート人の移動(375年)~ランゴバルド王国建国(568年)

がゲルマン人の大移動の期間になりますね。

ゲルマン人の大移動
ゲルマン人の大移動 資料:『詳説世界史探究』山川出版社
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まとめ

MQ:なぜゲルマン人の大移動が起こったのか?それによる影響とは?

A:ゲルマン人は農耕地の不足などによって徐々に移動範囲を拡大していたが、フン人による侵入で一気に移動が大規模になったことでゲルマン人の大移動が起こった。この大移動によって各地にゲルマン人国家が建国され、西ローマ帝国が滅亡に追い込まれるなど、ヨーロッパ世界の勢力図が大きく変化する影響与えた

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

回は、前回やその以前から度々登場しているビザンツ帝国(東ローマ帝国)についてです。西ヨーロッパが混乱している最中、ビザンツ帝国は約1000年にも及ぶ繁栄を築きました。いったいなぜ繁栄することができたのか?

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

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