この記事で使用したPowerPointスライドは「note」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はビザンツ文化についてです。この文化はその後の世界に何を残したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ビザンツ文化はその後の世界に与えた影響とは?
今回の時代はここ!

とりあえず今回は文化なので、ビザンツ帝国全体を指しておきますね。
ビザンツ文化とは?
まずビザンツ文化の特徴的なところは、“ギリシア古典文化”の影響を強く受けていることです。
ビザンツ帝国では7世紀以降からギリシア語が公用語として使われるようになったので、ギリシア文化の影響をうけてキリスト教も「ギリシア正教会」として独自の文化を作り上げていました。

なぜギリシア語が公用語になったのかは、[5-2.3]ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の成立をご覧ください。
なので、ビザンツ帝国ではギリシア古典文化の研究も盛んにおこなわれていたので、このギリシア古典文化とギリシア正教が合わさってビザンツ文化が作られていくことになります。
ビザンツ文化 = ギリシア古典文化 + ギリシア正教


ではここからはビザンツ文化の内容についてみていきましょう。
ギリシア語文学
先ほども言った通り、ギリシア語が公用語となったことで帝国の各地でギリシア古典文化が学ばれるようになり、歴史や小説などさまざまな書籍がギリシア語によって書かれるようになりました。
後の西ヨーロッパで起こったルネサンスでもギリシア古典の文献が広く知られるようになるんですが、その背景には、このようなビザンツ帝国でのギリシア語文化が発展していたからと考えられているんです。
キリスト教神学もギリシア語を通じて研究されるようになって、学者たちによって聖像崇拝問題が議論されたりするなどの盛り上がりを見せました。

聖像崇拝問題とは、イエスなどの偶像崇拝を巡ってローマ=カトリック教会と対立した論争でしたよね。

ビザンツ様式とイコン
ビザンツ様式
美術でも、キリスト教と関連のある教会や壁画や聖画像などがペルシア(イラン)や古代エジプト、メソポタミアなどの東方文化と融合して独特な文化ができあがりました。

ビザンツ帝国はアナトリア(現トルコ)にも領土を持っていたので、オリエントと国境を接していたので文化交流が起こったんですね。
教会ではドームとモザイク壁画を特徴とするビザンツ様式という建築が施されました。
このモザイク壁画とは、カラフルな色合いで細かくされた大理石やガラス片、貝殻などで装飾された壁画のことを言います。

この壁画技術はペルシア帝国などの東方からローマ時代に伝わったとされていて、ビザンツ帝国の時代に発展したそうです。

ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂にあるユスティニアヌス帝のモザイク壁画が有名です。
ビザンツ様式の代表的な教会では、以下の2つが有名です。
●ハギア=ソフィア聖堂
ハギア=ソフィア聖堂はユスティニアヌス帝の時代にギリシア正教の権威を示すために再建された教会で、ビザンツ様式の代表的建築物となっています。
その後オスマン帝国によって征服された後は、イスラーム教のモスクとして再建されていて、現在でもトルコのイスタンブールで見ることができます。

なので、聖堂にはイスラーム教建築の特徴でもあるミナレットが付け加えられていますね。

●サン=ヴィターレ聖堂
サン=ヴィターレ聖堂はイタリアのラヴェンナにあるんですが、これはユスティニアヌス帝の時代にイタリア半島を支配していたので、建設されたビザンツ様式の聖堂でした。
この聖堂は先ほども紹介した内装のモザイク壁画で有名な聖堂です。

イコン
他にも美術では聖母子像などを描いたイコンがギリシア正教会の教会で飾られていました。

イコンはギリシア語で「イメージ」という意味で、あくまでも偶像ではないという扱いだったそうです。
このイコンは印刷技術が登場するまで聖書を教える際の教材に使われていたので、イコンを通して信仰を深める役割を果たしました。

スラヴ人への影響
SQ:スラヴ人を文化圏に取り込んだ影響とは?
ビザンツ文化はスラヴ人を取り込むことで、その後の東ヨーロッパ文化にも影響を与えました。

スラヴ人は神聖ローマ帝国のオットー1世の時にも登場していましたね。
ではなぜスラヴ人たちを取り込んでいったんでしょうか?
まずスラヴ人は昔から東ヨーロッパに広く住んでいて、居住地を拡大して他の民族と同化しながら各地に影響を与えていました。
なので、バルカン半島にも領土をもっていたビザンツ帝国やその周辺に多くのスラヴ人が住んでいたので、ビザンツ帝国の影響を受けることになったんです。
とりわけ、スラヴ人はビザンツ帝国との交易も盛んで、帝国の傭兵として働くスラヴ人も多かったことから、ビザンツ文化に触れる機会が多く、建築や芸術、文字、ギリシア正教がスラヴ人の間で広がっていきました。
ビザンツ文化を取り込んだスラヴ人たちはその後、さらに東ヨーロッパ中に拡大していき、さまざまな国家を成立させて自立したことで、東ヨーロッパ文化圏を作っていくことになります。

なので、ビザンツ文化がその後の東ヨーロッパ文化の基盤となって影響を与え続けることになったので、それがビザンツ文化の功績といえるでしょうね。
ビザンツ文化を取り込んだスラヴ人がその後、東ヨーロッパに拡大して自立したことから、ビザンツ文化を基盤とした東ヨーロッパ文化圏が形成された。

まとめ
MQ:ビザンツ文化はその後の世界に与えた影響とは?
A:ギリシア古典文化を継承して、その後西ヨーロッパで起こるルネサンスに影響を与えたのに加えて、スラヴ人を取り込んだことでその後の東ヨーロッパ文化圏の形成に影響を与えた。

今回はこのような内容でした。

次回は、東スラブ人やセルビア人などの動きについてみていきます。各地でこのような民族はどのような活動をおこなったのか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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