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はじめに

前回はこのような内容でした。



今回はスラヴ人の第2回目で、西スラヴ人とその周辺民族についてみていきます。西スラヴ人や周辺民族はどのようにして自立していったのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:西スラヴ人やその周辺民族はどのようにして自立したのか?
今回の時代はここ!

西スラヴ人とは?
まず西スラヴ人とは、もともとスラヴ人が原住していた地域から西に移動したスラヴ人たちのことを指します。

場所でいうと、現在のドイツ、ポーランド、チェコにまたがる地域に移動しました。
西スラヴ人は西ヨーロッパ世界と接していたので、その影響をうけて多くの西スラヴ人国家がローマ=カトリック教に改宗することになりました。
これは[7-2.3]スラヴ人①(東スラヴ、南スラヴ)で東スラヴ人国家がビザンツ帝国の後ろ盾を手にするためにギリシア正教に改宗したのと同じで、西ヨーロッパで影響力のあったフランク王国や神聖ローマ帝国などと繋がりをもつローマ=カトリック教会の後ろ盾を手に入れることで、西スラヴ人は国家を安定させようとしたんです。


今回は西スラヴ人の中でもポーランド人とチェック人についてみていきたいと思います。
西スラヴ人①(ポーランド人)
ポーランド王国
西スラヴ人のポーランド人は、10世紀にはポーランド王国を成立させてローマ=カトリック教を受け入れました。
ローマ=カトリック系のスラヴ国家として神聖ローマ帝国から王国として公認をもらうほど力をつけていきましたが、この時代ドイツ騎士団などの東方植民によって領土を奪われてしまうのに悩んでいました。
しかし、このドイツ人による東方植民問題を解決したのがカジミェシュ(カシミール)大王という人物です。

カジミェシュ(カシミール)大王は、ドイツ騎士団の進出を防ぐのに見事成功して交易を強化して国力の増強に努めてポーランド王国を豊かにしました。

他にも法を整備や貨幣を鋳造、大学の設立など王国に必要な制度を整えました。
これらの功績からカジミェシュ(カシミール)はポーランド史上唯一の「大王」と呼ばれるようになったんです。

ヤゲウォ朝
そして中央集権化をおこなったカジミェシュ(カシミール)が亡くなった後、ポーランド王国は北に接していたリトアニア大公国と同君連合を結んで新たな王朝を成立させることになります。
それがヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国と呼ばれる同君連合の王朝でした。
同君連合・・・複数の独立国家が同じ君主をたてて連合すること。


この時はリトアニア大公がポーランド国王を兼任することになりました。
MQ:ヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国が誕生した背景とは?
ではなぜ同君連合という形がとられたんでしょうか?

それには「敵の敵は味方」理論があったんです。
では誰と誰の敵が共通していて、敵は誰だったんでしょうか考えてみましょう。
さきほども説明したように、ポーランド王国はドイツ騎士団による東方植民に悩んでいましたよね。
そしてポーランド王国の北にあったリトアニア大公国も同じ悩みを抱えていたんです。
しかもリトアニア大公国はヨーロッパで唯一キリスト教を受け入れてなかった国だったので、ドイツ騎士団から、

異端のリトアニア大公国を倒すのだ!
という大義名分を掲げられて激しい侵攻を受けていました。
というわけでここにドイツ騎士団の侵攻に悩むポーランド王国とリトアニア大公国の利害が一致して、同君連合を組むことになったんです。
なので同君連合を組んだ背景は“ドイツ騎士団からの防衛”という目的があったからなんですね。
ドイツ騎士団による東方植民からの防衛。

その後、ヤゲウォ朝はベーメン王やハンガリー王も牽引するようになって広大な領土を持つ強国へと発展していきました。

この時代は他国から王を迎え入れることがよくあったんですが、これは国内の貴族(諸侯)がそのほうが自分の権力を維持できると考えてそうしていたそうです。
途中オスマン帝国の攻撃を受けたりもしながら、最終的にヤゲウォ朝は血統が断絶する16世紀末まで続くことになりました。
西スラヴ人②(チェック人)
チェック人とスロヴァキア人
そしてポーランド人とは別に、西スラヴ人として現在のチェコを構成しているのがチェック人とよばれる人たちです。
6世紀頃から現在のチェコとスロヴァキアに移住してきた西スラヴ人たちは、アヴァール人の侵攻を受けた後にフランク王国の支配下に入ることになりました。
その後、10世紀頃になるとマジャール人の侵攻もうけてしまい、そのままマジャール人の支配下に入った人々をスロヴァキア人、東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)に逃れた人々をチェック人と区別するようになったんです。

もともとは一緒だったんですけど、支配者によって区別されて現在のチェック人とスロヴァキア人となったんですね。

ベーメン王国
そして神聖ローマ帝国の支配下に入ったチェック人は神聖ローマ皇帝に従う形でベーメン王国という独立国家を成立させます。
その後も神聖ローマ帝国(ドイツ)との関係が続き、11世紀に神聖ローマ帝国を構成する一国家として編入されることになりました。

その他の民族

ではここからはスラヴ人の周辺にいた民族もみていきましょう。
ブルガール人
ブルガール人は[7-2.1]ビザンツ帝国の衰退と滅亡でも登場しましたが、もともと中央アジアに住んでいたトルコ系民族で、フン人のヨーロッパ侵攻によってゲルマン民族と一緒にバルカン半島に移動してきました。
その後はバルカン半島にいた南スラヴ人を取り込みながら同化していき、7世紀にはブルガリア帝国を成立させます。

なので、現在のブルガリア人はトルコ系とスラヴ系が混血した民族なんですよ。
地理的にビザンツ帝国と西ヨーロッパ世界の間だったので、ブルガリア帝国は中継貿易で大きな利益を得て強大化していきました。
文明圏(または大国)に挟まれた地域は中継貿易によって繁栄する。
その後もスラヴ人を取り込みながら領土を拡大していき、南のビザンツ帝国を圧迫するほどに成長していきます。


ブルガリア帝国は四方にフランク王国やビザンツ帝国と国境を接していたことから、国内にはキリスト教徒が多く住んでいたので、帝国もキリスト教を受け入れるようになっていきます。

信徒が多いとキリスト教を保護したほうが政治が安定しますからね。
これはローマ帝国でキリスト教が公認された経緯と似ていますね。
しかし、ここでブルガリア帝国が「どの教会」に所属するかでローマ=カトリック教会とギリシア正教会が対立します。
両者からするとバルカン半島の大国を味方につけておきたいところですからね。
そうしたことから教会対立が続きますが、最終的には南スラヴ人の影響などがあってギリシア正教側につくことになりました。

拡大を続けて10世紀頃に全盛期も迎えたブルガリア帝国でしたが、長年の征服戦争によって国力が低下してしまい、内乱が起こるようになってしまいます。
内乱によって衰退したところをビザンツ帝国に攻撃されてしまい、ブルガリア帝国は一旦そこで滅亡してしまいます。
しかしその後、ビザンツ帝国が衰退していくのを見計らってブルガリア帝国は再興を果たすことに成功します。

ラテン帝国に勝利するなど、バルカン半島で強国として復活を遂げることができました。
しかし、バトゥ率いるモンゴル軍の侵攻によって再び衰退してしまって、最後はオスマン帝国の侵略によって滅亡してしまいました。


その後、約500年に渡ってオスマン帝国の支配を受けて、再び独立するのは19世紀になってしまいます。
マジャール人
もう一つ、東ヨーロッパで存在感を放っていたのがマジャール人と呼ばれる民族でした。
このマジャール人は以前に[5-2.9]フランク王国③(分裂)でも登場していて、ウラル山脈付近に住んでいたウラル語系の民族でしたね。
マジャール人は西進して東フランクなどを脅かしましたが、オットー1世に大敗してしまってからは現在のハンガリーに定住することになりましたよね。

なぜ西進していったのかについては[5-2.1]ヨーロッパの環境と民族でご確認ください。
そしてそこで建国されたのがハンガリー王国でした。

西ヨーロッパではマジャール人の侵攻が恐れられて、フン人の再来と勘違いされてしまい、「フンhun)」に「人(gari)」がついて「ハンガリー(Hungary)」と呼ばれるようになったそうですよ。
なのでハンガリー人は自分たちのことを今でもマジャール人と自称しているんですよ。
ハンガリー王国はヨーロッパで安定して王国を運営するにはキリスト教が必要だと考えて、ローマ=カトリック教を受け入れました。
なぜローマ=カトリック教かというと、西に強国の神聖ローマ帝国と国境を接してしたので、衝突をさけるためだったといわれています。
南に位置するビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅亡した15世紀頃には、ハンガリー王国は常備軍や官僚制を整備するなど中央集権化を進めて全盛期も迎えました。
しかし、その後はオスマン帝国が侵入してきたことで混乱してしまい、ハンガリー王国はオスマン帝国とハプスブルグ帝国に分割されて、それぞれの支配下に入ることになってしまいました。


まとめ
MQ:西スラヴ人やその周辺民族はどのようにして自立したのか?
A:多くはローマ=カトリック教を受容して西ヨーロッパ文化圏に組み込まれて自立したが、その後多くが神聖ローマ帝国に編入されたり、オスマン帝国の支配下に入るなどの覇権争いに巻き込まれていった。

今回はこのような内容でした。

次回は、西ヨーロッパ世界を支えていた封建社会の衰退についてみていきます。いったい何が要因で衰退してしまったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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