広告

[5-2.5]フランク王国①(メロヴィング朝、カロリング朝)

5-2.ヨーロッパの発展

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

広告

はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はフランク王国が西欧の中心的存在になっていく過程をみていきます。

なぜフランク王国は西欧の中心的存在になっていったのでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう。

MQ:フランク王国はなぜ西ヨーロッパで中心的な存在になったのか?

今回の時代はここ!

広告

メロヴィング朝の成立と発展

メロヴィング朝の成立

以前扱った[5-2.2]ゲルマン人の大移動では、ヨーロッパ各地でゲルマン人国家が誕生しましたね。

多くのゲルマン人国家が誕生したんですが、どれも長続きせずに滅亡してしまい、短命に終わっていました。

しかしそんな中、領土を拡大して西ヨーロッパで有力な国家に成長していったのがフランク王国でした。

ゲルマン人の大移動によってガリア(現フランス)北西部に移動したフランク人は、各部族に分かれて覇権争いをしていました。

その争いを制してフランク人を統一したのが、クローヴィスという人物です。

クローヴィス 14世紀の年代記の挿絵より

このクローヴィスがフランク王国の王位に就いたことで、メロヴィング朝が創始されます。

グシャケン
グシャケン

この場合、メロヴィング朝フランク王国になるのですが、これは「メロヴィング家が統治するフランク王国」という意味で、日本でいうと「徳川家が統治する日本=徳川朝日本」みたいな感じになります。

その後もクローヴィス率いるメロヴィング朝は拡大を続けて、ブルグンド王国を滅ぼすなど、全ガリアを支配下に置きました。

クローヴィス メロヴィング朝

クローヴィスのアタナシウス派改宗

SQ:アタナシウス派に改宗した目的とは?

当時、ゲルマン人の多くはキリスト教を信仰し、ローマ帝国で異端とされたアリウス派を特に信仰していました。

しかし、クローヴィスはゲルマン人ではめずらしいローマ帝国で正統派とされたアタナシウス派に改宗したんです。

グシャケン
グシャケン

ではなぜアタナシウス派に改宗したんでしょうか?

ヒントは当時、王国内にはローマ系の貴族が多く住んでいました。

ローマ帝国ではアタナシウス派が正統だったので、アタナシウス派になることでローマ教会から支援をもらおうとしたと思います。

グシャケン
グシャケン

そうなんです。もともと王妃がアタナシウス派だったので、その影響もありましたが、当時ローマ教会ではアタナシウス派が正統とされていて、フランク王国内にもローマ系の貴族が住んでいたので、彼らを取り込むことが1つの目的だったと言われているんです。

これによって支援者を獲得したことでローマ教会の支持を得たメロヴィング朝フランク王国は勢力を拡大していき、他のゲルマン部族よりも優位に立って西ヨーロッパで中心勢力となっていったんです。

SQ:アタナシウス派に改宗した目的とは?

王国内のローマ系貴族を支援者として取り込むため。

クローヴィス アタナシウス派に改宗

ローマ教会とのつながり

このクローヴィスのアタナシウス派への改宗によって、フランク王国との関係が深まっていったのがローマ教会です。

ローマ教会は西ローマ帝国の保護を受けながら、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の保護を受けるコンスタンティノープル教会と、教会のトップを争って対立してました。

しかし、西ローマ帝国が滅亡したことで後ろ盾を失ってしまい、ローマ教会は窮地に立たされます。

そこにクローヴィスがアタナシウス派に改宗したことで、新しい後ろ盾であるフランク王国を保護者にして、勢力を拡大できたんです。

このフランク王国とローマ教会とのつながりによって、ローマ教会はローマ=カトリック教会として西ヨーロッパで立場を確立させていくことになります。

ローマ教会とフランク王国の関係
広告

宮宰(マヨル=ドムス)の台頭

宮宰

クローヴィスが亡くなった後は、メロヴィング朝フランク王国はゲルマン人の慣習だった分割相続に従って、子や孫に王国が分割されました。

グシャケン
グシャケン

もともと様々な部族を抱えていた王国の土地が分割されると何が起こるかわかりますか?

そう、権力争いが起きたんです。

王国が分割されたことによって、それぞれが王を名乗って勢力争いをするようになってしまったんです。

加えて、支配されていた各地の部族や豪族も好き勝手に権力を振るうようになってしまい、フランク王国は混乱に陥ってしまいます。

そこで統一を図るために、分裂した各王国に宮宰(マヨル=ドムス、きゅうさい)を置かれて、それを通すことで平和的に統一しようとしました

この宮宰(マヨル=ドムス)は初めは「執事」的な存在でしたが、次第に政治の実権を担う「摂政」的な存在になっていきます。

グシャケン
グシャケン

まあ統一のための調整役として始まったので、そりゃ政治に意見するようになりますよね。

次第に宮宰による権力争いが起きるようになってしまい、そこで頭角を現したのが、カロリング家と呼ばれる一族でした。

このカロリング家は宮宰の権力争いに勝利して、敗れた王国の宮宰を兼任することで権力を拡大させていきました。

メロヴィング朝は無能な王が続いたために、宮宰に完全に政治の実権を掌握されてしまいますが、王朝自体はその後しばらくは存続しました。

宮宰(マヨル=ドムス)

カール=マルテル

カロリング家の宮宰の中でも才能を発揮したのがカール=マルテルという人物でした。

カール=マルテルは軍事改革をするために、教会や修道院の土地を没収して王国領にして、その財源を使って軍隊を編成するなどの軍事力強化に努めました。

そうして宮宰カール=マルテルがフランク王国の実権を掌握していた頃、イベリア半島ではある異変が起きていました。

イスラーム勢力の侵入です。

当時のイスラーム勢力だったウマイヤ朝がイベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼしてフランク王国の手前まで迫っていたんです。

現在のフランス南部に侵入してきたウマイヤ朝イスラーム軍に対して、カール=マルテルは王国内に動員令を出して、新制騎馬軍団を率いてトゥール=ポワティエ間で対峙しました。

これが[5-1.3]ウマイヤ朝でも扱ったトゥール=ポワティエ間の戦いです。

この戦いは約1週間続き、最終的にウマイヤ朝の騎馬隊が敗走したことでメロヴィング朝フランク王国の勝利に終わりました。

これによってイスラーム勢力の侵攻が止まり、西ヨーロッパ世界(キリスト教世界)がフランク王国によって守られんです。

グシャケン
グシャケン

これでもしフランク王国が負けていたら、現在のようなキリスト教文化は無かったかもしれませんね。

カール=マルテル トゥール=ポワティエ間の戦い
トゥール=ポワティエ間の戦い 『フランク大年紀』の挿絵より
広告

カロリング朝の成立

成立

宮宰カール=マルテルもこの戦いによって名声をさらに上げて、キリスト教世界を守ったことが評価されました。

その後、カール=マルテルの後を継いだ息子のピピンは、絶大な権力を使ってローマ教会から許可をもらったうえでメロヴィング朝の王を追放して隠居させてしまいました。

グシャケン
グシャケン

ローマ教会も宮宰ピピンの方が、権力を持っていたことを容認せざるを得なかったんでしょうね。教会を保護してもらうためにも。

ちなみにこのピピンは正式には「ピピン3世」と呼び、他のピピン1世と2世と区別するために「小ピピン」と呼んだりもします。

これによって新たに建国されたのがカロリング朝です。ここからはカロリング朝フランク王国として西ヨーロッパの中心的存在になっていきました。

ピピン カロリング朝

ピピンの寄進

当時、ローマ教会はというと、イタリア半島をビザンツ帝国からランゴバルド人によって奪われてしまう状況になっていました。

要は、イタリア半島での立場が弱くなってしまったんです。

そこでピピンはローマ教会のためにランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪還してローマ教会に寄進(きしん)したんです。

寄進・・・土地やお金などを寄付すること

グシャケン
グシャケン

ピピンとしても由緒正しいローマ教会からお墨付きをもらうことで、権威を掲げて統治できますからね。

ローマ教会からすれば窮地の時に土地の寄進はありがたい限りなので、これによってフランク王国とローマ教会の結びつきはさらに強くなっていきました。

この寄進されたラヴェンナ地方が初のローマ教皇領となって、後のローマ=カトリック教会の教会国家誕生への礎になっていきます。

ピピンの寄進
フランク王国 ラヴェンナ地方
広告

まとめ

MQ:フランク王国はなぜ西ヨーロッパで中心的な存在になったのか?

A:クローヴィスがアタナシウス派に改宗したことでローマ系貴族を取り込んで、勢力を拡大し、宮宰カール=マルテルによってイスラーム勢力からキリスト教世界が守られた。さらにピピンがラヴェンナ地方を寄進したことで、ローマ教会との結びつきが強固になり、西ヨーロッパで中心的存在になっていった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、ローマ=カトリック教会についてやっていきます。修道院はどのような目的で、どんな役割を担ったんでしょうか。

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

コメント

タイトルとURLをコピーしました