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[5-2.9]フランク王国③(分裂)

5-2.ヨーロッパの発展

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でしたね。

グシャケン
グシャケン

今回は、フランク王国の分裂をみていきます。カール大帝の死後、フランク王国の各地域はどんな状況になっていったんでしょうか?!それでは一緒にみていきましょう

MQ:カール大帝の死後、フランク王国はどんな状況になったのか?

今回の時代はここ!

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王国の分裂

カール大帝の死後

前回、カール大帝はフランク王国を強大な国家へと成長させましたが、その統治には落とし穴がありました。

広大な国家を州にわけて伯(地方行政官)を置くという、中央集権的な統治でしたが、実際はカール大帝と地方豪族から選出された伯との個人的な関係で成り立っていたんです。

なので、カール大帝の死後にこの関係が崩れてしまうことになります。

グシャケン
グシャケン

要は地方の有力者(豪族)たちは、カール大帝のカリスマ性に付いていただけだったんですね。

強力なカリスマ権力者だったカール大帝が亡くなったあと、国王の後継者争いが起きてしまい、そこに伯などの地方領主たち権力争いに加わったことで、王国内で内紛が起きてしまいます。

カール大帝の死後、フランク王国の内乱

ヴェルダン条約

この後継者争いは大きくカール大帝の孫の3人によって争われました。

・長男:ロタール1世

・次男:ルートヴィヒ2世

・異母弟:シャルル2世

この3人によって領土と権力をめぐって戦争がおこなわれましたが、交渉を何度も重ねた結果、王国を分割相続する協定を結ぶことになります。

この協定をヴェルダン条約と言い、フランク王国を[中部フランク]・[東フランク]・[西フランク]の3つに分割されて、兄弟間で領土の境界線が引かれました。

ヴェルダン条約
グシャケン
グシャケン

このヴェルダン条約以降、ヨーロッパは二度と再統合されることなく、現在まで至っています。

ちなみにローマ皇帝の位は長男のロタール1世が引き継ぎました。

メルセン条約

ヴェルダン条約後も3兄弟でも争いは続いたんですが、中部フランクを統治していたロタール1世が亡くなってしまったことで、他2人で中部フランクを分割することになりました。

この時に協定されたのがメルセン条約と言い、中部フランクを東フランクと西フランクに編入して、残りの領土をイタリア王国として再編成されました。

グシャケン
グシャケン

このメルセン条約を経て、現在のドイツ・フランス・イタリアの原型がつくられたんですよ。

メルセン条約
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東フランク王国

選挙王制

SQ:なぜ選挙王制が採られたのか?

東フランク王国は現在のドイツの原型になった王国ですが、10世紀にはカロリング家の血筋が途絶えてしまい、後継者をどうするかが問題になりました。

そこで考案されたのが、各部族を支配する諸侯しょこうの選挙によって王を選出するという選挙王制という制度でした。

諸侯・・・広大な領地を持つ領主。地方行政を担う貴族でもある

では、なぜ王を選挙によって選出する選挙王を採ったのでしょうか?

グシャケン
グシャケン

歴史的に王などの君主は世襲制であったり、その時の権力者が握ることが多かったですが、選挙によって選ぶのは当時としては斬新で目新しいですね。

みなさんも当時の諸侯(貴族)になった気持ちで考えてみてください。今も昔も人間は自分が一番可愛いものです。

王の選出が選挙制になったのにはこんな(以下)理由があったからなんです。

王の権力集中を抑制して、諸侯(貴族)の影響力を保つため。

まず選挙制なので、毎回同じ人物がに選出されるかはわかりません

なので、同一人物または同一家系がを独占できないようにするために、選挙制になったと考えられます。

また、諸侯たちによる選挙なので、選出されたは他の諸侯たちの意見を無視することが難しく、各諸侯の意見が反映されやすいというメリットがあるんです。

グシャケン
グシャケン

デメリットとしては諸侯派閥や癒着ができやすいということですかね。現在の政党政治でも派閥や癒着はつきものですもんね。

このような権力の分散と諸侯(貴族)の権利を保持するためという理由から選挙が導入されたんですね。

SQ:なぜ選挙王制が採られたのか?

の権力集中を抑制して、諸侯(貴族)の影響力を保つため。

東フランク王国 選挙王制

オットー1世

東フランク王国では、カロリング家が王位に就いていた頃、マジャール人ノルマン人の侵攻に苦しんでいたので、それに対抗できる“強い王”が求められていました。

そこで王に選出されたのが、ザクセン家のオットー1世という人物でした。

オットー1世
グシャケン
グシャケン

その頃、ウラル山脈付近で夏には家畜を連れて遊牧し、秋から春にかけては農耕に従事する半遊牧生活をしていたウラル語系のマジャール人が、より条件が良い土地を求めて西に侵攻し、東フランク王国を苦しめていました。

オットー1世はそのマジャール人を見事に撃退して侵攻を食い止めることに成功し、マジャール人はその後、東に後退して現在のハンガリーに定住しました。

グシャケン
グシャケン

なので、現在のハンガリー人の多くがこのマジャール人の末裔なんですよ。

同時にオットー1世は、東ヨーロッパに広く居住していたスラヴ人の侵攻も退けて、多くを奴隷として捕らえてヨーロッパ中に売りさばきました。

グシャケン
グシャケン

このスラヴ人を奴隷として売りさばいたことで、ヨーロッパでは「スラヴ」が「奴隷」と同じ意味に使われるようになったそうです。

スラヴ人を英語で 「Slavs」 と読み、奴隷を「 Slaves」と読むので、言われてみればそうですね。

東フランク王国 オットー1世 マジャール人 ノルマン人

「オットーの戴冠」と神聖ローマ帝国

マジャール人などを撃退して北イタリアまで勢力を拡大したオットー1世は、ローマ=カトリック教会から認められ、ローマのサン=ピエトロ大聖堂にて、ローマ教皇からローマ皇帝の戴冠を受けました。

当時、ローマ=カトリック教会は内部で風紀が乱れて、情勢が不安定だったので、ローマ教皇はオットー1世を新たな保護者としてローマ帝国の復活を宣言したそうです。

オットー1世は、カール大帝の後継者としてローマ皇帝の地位を与えられたことで、カール大帝の西ローマ帝国を引き継ぐ存在として、現在のドイツ、イタリアを範囲とする神聖ローマ帝国が誕生しました。

以後、神聖ローマ皇帝は東フランク(のちにドイツ)王が兼任していくことになります。

グシャケン
グシャケン

「神聖ローマ帝国」という名前自体は13世紀に入ってから付いたそうです。

グシャケン
グシャケン

ちなみに以前[5-2.8]フランク王国②(カール大帝)で触れた「カールの戴冠」と今回の「オットーの戴冠」はどのような点で違うのでしょうか?

「カールの戴冠」は背景として当時の教皇レオ3世は、ギリシア正教会(ビザンツ帝国)に対抗するため、ローマ=カトリック教会の保護者を求めていたという意図がありました。

それと比較して「オットーの戴冠」の場合は、当時ローマ=カトリック教会内の情勢が不安定で、その秩序を正すために強大化していたオットー1世に助けを求めたという意図があったそうなんです。

グシャケン
グシャケン

なので、「オットーの戴冠」は「カールの戴冠」に比べて、ローマ=カトリック教会が頼りなく見えてしまいますね。(笑)

オットーの戴冠 神聖ローマ帝国

イタリア政策

神聖ローマ皇帝は、10世紀~13世紀にかけてイタリア政策とよばれるものに没頭していました。

イタリア政策とは主にイタリアの北部やシチリアの支配に積極的に介入する政策のことを指します。

SQ:イタリア政策による影響とは?

なぜイタリア政策に積極的になったんでしょうか?

それは主に“見栄”だったんです。だって・・・

神聖ローマ皇帝
神聖ローマ皇帝

「ローマ皇帝」と付いているんだからイタリアは支配下に置いておかないと。

イタリアを支配下に置いておけば、教皇との関係を優位にできるんじゃないか。

など、「ローマ皇帝」としての見栄のためだったり、教皇との関係を優位に進めたいがためにイタリアに積極的に介入していたんです。

なので、歴代の神聖ローマ皇帝がイタリア政策に積極的だったことで、本国の東フランク(またはドイツ)王国の政治が疎かになってしまい、王国内の諸侯の力が増して、統一感が薄くなってしまいました。

加えてイタリアも神聖ローマ帝国から侵攻を受けましたが、反抗したことで完全支配は免れましたが、各地が分裂して統一王国が成立することはありませんでした。

SQ:イタリア政策による影響とは?

東フランク(ドイツ)王国の統治が疎かになったことで、国内の諸侯の力が増し、イタリアも侵攻を受けたことで分裂状態が続いた。

イタリア政策
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西フランク王国

カペー朝の成立

西フランク王国は現在のフランスの原型になっている王国です。

西フランク王国も東フランク王国と同じく、10世紀末にはカロリング家の血が途絶えてしまいました。

なので、当時ノルマン人の侵入を退けて撃退した有力諸侯だったパリ伯のユーグ=カペーが諸侯から推されて王位につきました。

ユーグ=カペー

これによって始まったのがカペー朝です。

このカペー朝から西フランク王国は「フランス王国」と呼ばれるようになります。

しかし、このカペー朝が成立した後も、カペー朝はもともと所有していたパリ周辺だけを支配していたに過ぎませんでした。

なので王権の力は弱く、有力諸侯が王国内に数多く存在し、国王と同等の力を持っている状態だったんです。

グシャケン
グシャケン

カペー家が、フランス王国という連合チームのキャプテンを一応担っていたという感じですかね。

キャプテン以外にもリーダーシップを発揮できる選手がたくさんいたというわけです。一致団結すれば強いですが、その逆は悲惨なことになりそうですね。

西フランク王国 カペー朝 ユーグ=カペー

フランス王国についてはまた後の章で詳しく扱っていきます。

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イタリア王国

イタリア王国でも、まもなくカロリング家の血が途絶えてしまいます。

その後、神聖ローマ帝国によるイタリア政策での介入や、地中海からイスラーム勢力が侵入してくるなど混乱が続き、王国は分裂状態となってしまいました。

各地に王国が建てられたことでしばらくの間、統一王国が建国されることはありませんでした

イタリア王国
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まとめ

MQ:カール大帝の死後、フランク王国はどんな状況になったのか?

A:後継者争いや諸侯の台頭などによって混乱がおき、2つの条約を経て3つの王国に分割された。東フランク王国は選挙王制によってオットー1世による神聖ローマ帝国が誕生した。西フランク王国ではカペー朝が開かれたが、王権は弱く有力諸侯が多く台頭した。イタリアでは神聖ローマ帝国の介入やイスラーム勢力の侵入によって混乱が続いた。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は西ヨーロッパ世界にノルマン人がやってきて、ヨーロッパにまたもや混乱が起きます。ノルマン人は西ヨーロッパ世界にどんな影響を与えたのでしょうか。

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

グシャケン
グシャケン

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