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[7-2.3]スラヴ人①(東スラヴ、南スラヴ)

7-2.東ヨーロッパの変化

この記事で使用したPowerPointスライドは「note」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はスラヴ人についての1回目、東スラヴ人と南スラヴ人についてです。彼らはどのように自立していったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:東スラヴ人と南スラヴ人はどのように自立していったのか?

今回の時代はここ!

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スラヴ人の広がり

スラヴ人とはもともとカルパティア山脈の北方に住んでいた民族で、狩猟や農耕をしながら暮らしていました。

スラヴ人

しかし、4世紀に起こったゲルマン民族の大移動や、東方の遊牧民などの動きに影響を受けながら移動と拡大を繰り返していきました。

そして6世紀ごろになると、バルカン半島などの東ヨーロッパに急速に広がっていって、ビザンツ帝国を脅かすようになるまで拡大していきます。

広大な領域に拡大していったスラヴ人はここから大きく分けて3つに分かれて、2つの文化圏の影響を受けていくことになります。

スラヴ人の分化

東スラヴ人南スラヴ人・・・ギリシア正教・東ヨーロッパ(ビザンツ)文化圏

西スラヴ人・・・ローマ=カトリック教会・西ヨーロッパ文化圏

スラヴ人の分化 東スラヴ人 南スラヴ人 西スラヴ人
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東スラヴ人①(キエフ王国、タタールのくびき)

キエフ公国

現在のロシアやウクライナに広がっていったのが東スラヴ人と呼ばれ、現在のロシア人やウクライナ人に繋がる民族になります。

東スラヴ人

この地域では9世紀に起きたノルマン人の大移動によって、ノルマン人によるノヴゴロド国が建国されました。

その後、ノヴゴロドの勢力が南下してできたのがキエフ公国でしたね。

この過程で進出してきたノルマン人ともともと住んでしたスラヴ人が同化していき、東スラヴ人国家としてその後発展していくことになります。

ノヴゴロド国
キエフ公国
ウラディミル1世

そしてこのキエフ公国の全盛期を築いたのがウラディミル1世という人物でした。

ウラディミル1世

ウラディミル1世は公国の領土を拡大していき、ギリシア正教に改宗して国教にするなど、専制君主的な統治によってキエフ公国の全盛期を築きました。

ウラディミル1世 ギリシア正教に改宗

SQ:なぜウラディミル1世はギリシア正教に改宗したのか?

グシャケン
グシャケン

ではなぜウラディミル1世はギリシア正教に改宗したんでしょうか?

以前の[5-2.5]フランク王国①(メロヴィング朝、カロリング朝)にも似たような事例がありましたね。

グシャケン
グシャケン

この問いには、ギリシア正教の中心がどこだったのかを思い出してから考えてみましょう。

みなさんは思い出せますか?

ビザンツ帝国です!

グシャケン
グシャケン

では当時のビザンツ帝国とはどんな存在だったのかというと、、、

東ローマ帝国を起源としてその後ローマ帝国を継承して、世界最大級の国際交易都市コンスタンティノープルを首都に持つ大帝国でしたね。

しかもギリシア正教会(コンスタンティノープル教会)の総本山として西ヨーロッパのローマ=カトリック教会と対立する存在でもありましたね。

要するにビザンツ帝国とは当時、東ヨーロッパで大きな影響力を持つ強国だったんです。

しかし、当時バルカン半島のブルガリア帝国に手を焼いていたので北のキエフ公国に、

ビザンツ皇帝
ビザンツ皇帝

ブルガリア帝国へ攻撃してくれれば、うちの妹を妃にして同盟関係を結ばないか?

というお誘いがきたのでウラディミル1世は、

ウラディミル1世
ウラディミル1世

ビザンツ帝国と同盟関係を結めば、政治も安定して高度な文化も入れることができて国が発展できるのではないか。

ならば皇帝が教主を兼任しているギリシア正教会に改宗して保護してもらうぞ!

という感じにビザンツ皇帝が治めるギリシア正教会に改宗して宗教的な結びつきから同盟関係を結ぼうとしたんです。

同盟関係を結ぶことで軍事的な援助を得られるだけでなく、高度な技術や文化が国内に入ってくることで、経済や文化が発展することができます。

しかも宗教的権威を借りることで、政治を安定させてウラディミル1世自身の権威を強化させる狙いがあったんです。

SQ:なぜギウラディミル1世はギリシア正教に改宗したのか?

東ヨーロッパで影響力のあるビザンツ帝国と同盟関係を結ぶことで自国の政治を安定させて、自らの権威を強化しようとしたため。

ウラディミル1世 ギリシア正教に改宗
農奴化と大土地所有化

SQ:なぜ農奴化が進展していったのか?

その後、キエフ公国では農奴化と大土地所有化が進んでいきました。

ではなぜキエフ公国では農奴化が進展していったんでしょうか?

ウラディミル1世の時に国王の権威が強くなりましたが、それでも国内では大土地所有者である貴族(諸侯)たちが幅を利かせている状況でした。

グシャケン
グシャケン

だからウラディミル1世も自分の権威を強化しようとしたんですね。

なので、その貴族(諸侯)たちが所有している農民を土地に縛り付ける農奴化が推進されると、国王は貴族(諸侯)たちから支持されることができますよね。

加えて土地に縛ることで収入が管理しやすくなって税収も安定するようになります。

なので、キエフ公国では農民の農奴化が推進されて貴族(諸侯)の大土地所有化がさらに進んでいったわけなんです。

SQ:なぜ農奴化が進展していったのか?

農民を土地に縛ることで税収を安定させ、大土地所有者である貴族(諸侯)たちからの支持を得るため。

キエフ公国 農奴化と大土地所有化

「タタールのくびき」

しかし、諸侯の大土地所有化が進んだことである問題が起きます。

貴族(諸侯)の大土地所有が進んだことで勢力が拡大して国王と対立するようになっていき、国内で内乱が起きてしまい、キエフ公国は分裂状態になってしまったんです。

そしてそのタイミングで襲来してきたのがモンゴル軍でした。

チンギス=ハンの孫であったバトゥが率いるモンゴル軍がロシアに侵入して次々と支配していき、キエフも占領されてキエフ公国は滅亡してしまいました。

グシャケン
グシャケン

この時のモンゴル帝国のロシア侵攻の猛威は、ロシア映画「フューリアス 双剣の戦士」で見ることができます。ぜひご覧ください。

フューリアス 双剣の戦士

このバトゥのモンゴル軍侵攻によってロシアにはキプチャク=ハン国が建国されて、キエフ公国があった地域のロシア諸侯たちはその後約200年に渡ってモンゴルの支配を受けることになりました。

このモンゴルによる支配をロシアでは「タタールのくびきと呼ばれています。

バトゥ キエフ公国滅亡 キプチャク=ハン国 「タタールのくびき」
キプチャク=ハン国
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東スラヴ人②(モスクワ大公国)

イヴァン3世とツァーリ

その後、しばらくロシア諸侯たちはキプチャク=ハン国に貢納する間接的な支配を受ける状態が続きました。

しかし、そのような中で15世紀頃からモスクワ大公国と呼ばれるところが勢力を拡大させて台頭しました。

もともとモスクワ大公国が支配していたのが商業都市のモスクワだったことから、交易などによって国家を強大化させて、ロシアで台頭することができたんです。

そのようにしてロシア第一の諸侯になったモスクワ大公国はキプチャク=ハン国に従いつつ、イヴァン3世の時代に東北ロシアを統一して勢力を一気に拡大させます。

イヴァン3世

そしてイヴァン3世はキプチャク=ハン国への貢納を拒否したんですが、キプチャク=ハン国と戦わずして「タタールのくびき」から解放されて独立することになったんです。

グシャケン
グシャケン

モンゴル軍は討伐に向かったんですが、イヴァン3世の軍隊を見て引き上げてしまったそうです。

モスクワ大公国 イヴァン3世
モスクワ大公国

そしてこのイヴァン3世のロシア統一にはある要因がありました。

この頃、モスクワ大公国の南のビザンツ帝国で大事件が起こったんです。

それはオスマン帝国のメフメト2世の侵攻によって、コンスタンティノープルが陥落してしまうという、ビザンツ帝国の滅亡でした。

この滅亡後にイヴァン3世はビザンツ皇帝の姪っ子を妃(きさき)として迎え入れて結婚することでローマ帝国皇帝の継承を宣言したんです。

イヴァン3世
イヴァン3世

私はこれよりツァーリ(皇帝)として君臨する。

ツァーリ”とは全ロシアの支配者を意味する“皇帝”の称号としてイヴァン3世が使うようになって、その息子イヴァン4世の時に公式に使用されるようになりました。

こうしてイヴァン3世はローマ皇帝の継承者という権威を手に入れて、周りの諸侯たちを黙らせてロシア統一を成し遂げたんですね。

グシャケン
グシャケン

首都モスクワはその後「第3のローマ」と呼ばれるようになり繁栄しました。

イヴァン3世 ツァーリ(皇帝) イヴァン4世

イヴァン3世はその後もモスクワ大公国の政治的・経済的な安定を目指して農奴制を強化していって、息子のイヴァン4世による中央集権化につながる政策を推進していきました。

グシャケン
グシャケン

このイヴァン4世については後の章で詳しくみていきますね。

イヴァン3世 農奴制強化
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南スラヴ人(セルビア人、クロアティア人)

今までの東スラヴ人とは異なり、スラヴ人の中でもバルカン半島周辺に南下した人たちを南スラヴ人といいます。

セルビア人

その南スラヴ人の中で最大勢力を誇っていたのがセルビア人と呼ばれる民族でした。

7世紀頃にバルカン半島にセルビア王国を成立させて、ギリシア正教が広がったことでビザンツ文化が流入しました。

途中、ビザンツ帝国やブルガリア帝国に圧迫されてしまいますが、鉄などの鉱物資源に恵まれていたことから交易などで強大化していき、14世紀には半島南のギリシアまで支配を拡大して全盛期を向かえました。

グシャケン
グシャケン

宗教でもギリシア正教会とセルビア人の文化が融合したセルビア正教会が誕生して独自の進化を遂げていきました。

一時はビザンツ帝国領を圧迫するほど勢いに乗っていたセルビア人でしたが、あのオスマン帝国が侵入してきたんです。

セルビア人は周辺諸国と連合を組んで戦いに挑みましたが敗れてしまい、セルビア王国は滅亡してオスマン帝国の支配を受けることになりました。

グシャケン
グシャケン

しかしこのセルビア人は、近代までバルカン半島情勢のキーマンとして存在感を放ち続けることになります。

南スラヴ人 セルビア人
セルビア王国

クロアティア人

一方、バルカン半島西北部に進出したのがクロアティア人と呼ばれる民族でした。

クロアティア人が7世紀頃に王国を成立させますが、アヴァール人の侵攻に悩まされてしまいます。

しかし、フランク王国のカール大帝と協力してアヴァール人を討つことに成功します。

なので、その後はフランク王国の影響を受けてローマ=カトリック教を受け入れて、ローマ字などのラテン文化が普及していきました。

グシャケン
グシャケン

他のスラヴ人がギリシア正教を受け入れていたので、クロアティア人は他とは少し傾向が違いますね。

しかしその後、クロアティア王国はハンガリー王国の支配を受けたと思うと、次はオスマン帝国の支配を受けて、一部はハプスブルグ帝国(オーストリア)に併合されるなど、周辺の強国の影響を受けながら複雑な歴史を歩んでいきました。

南スラヴ人 クロアティア人
クロアティア王国
グシャケン
グシャケン

南スラヴ人の大半は14世紀末以降にかけてオスマン帝国の支配を受けました。

この支配が後に近代で世界を動かす大きな民族運動に繋がっていきます。

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まとめ

MQ:東スラヴ人と南スラヴ人はどのように自立していったのか?

A:東スラヴ人は途中モンゴル勢力の支配を受けながらも、ローマ帝国を継承したモスクワ大公国の下で自立して農奴制の強化などを進めていった。南スラヴ人は王国によってギリシア正教やローマ=カトリック教の影響に分かれながら自立したが、多くはオスマン帝国による支配を受けることになった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、スラヴ人の2回目として西スラヴ人とその他の民族についてみていきます。西スラヴやその他の民族もどのように自立していったんでしょうか。

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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