世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はイスラーム王朝が誕生して、さらにイスラーム教の勢力圏が拡大していきます。
その中で、現在でも続く宗派対立も現れました。
いったいどのような経緯で宗派対立が起こったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:イスラーム教の宗派対立はどんな経緯でできたのか?
今回の時代はここ!
ウマイヤ朝の成立
ムハンマドの死後は、最高指導者としてカリフが選出されて勢力を拡大していきましたね。
しかし、その後もアラブ人たちの中ではカリフをめぐる争いが続いていたんです。
事実、正統カリフとして選出された4人のカリフのうち、初代のアブー=バクル以外の3人は暗殺によって命を落としていたんです。
それだけカリフをめぐる争いが激しかったんですね。
4代目のアリーが暗殺された後は、アリーと激しく対立していたシリア総督のムアーウィアが、唯一のカリフとして、ダマスクスを首都にウマイヤ朝を開きます。
ムアーウィアはメッカの大商人の家系で、シリア総督としてダマスクスを統治していました。
3代目のウスマーンを支持していたんですが、その暗殺に4代目になったアリーが関わっていると疑ったことで、アリーとムアーウィアはお互いにカリフを名乗って対立していたんです。
それまで正統カリフはイスラーム教徒たちの合意によって決められていましたが、ムアーウィアがウマイヤ朝を開いて政権を取ったあとは、ウマイヤ家で世襲(せしゅう)されることになりました。
世襲・・・その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと。
ちなみにカリフが世襲制になったことは、はじめムアーウィアを支持していた人たちにも批判されたそうです。
宗派の発生と分裂
正統カリフの時代までは、それとなくまとまっていたアラブ人(イスラーム教)でしたが、4代目アリーの死後に宗派分裂が起きてしまいます。
シーア派
このシーア派とは簡単にいうと、「血統」を大事にする宗派です。
もともとイスラーム教徒たちによって選出された正統カリフでしたが、最初の3人をカリフと認めず、ムハンマドの従兄弟(いとこ)であり、娘婿(むすめむこ)でもあった4代目カリフのアリーとその子孫だけがムハンマドの後継者だと考える派閥をシーア派といいます。
「アリーを支持する人びと(シーア=アリー)」という言葉からシーア派と言われるようになったそうです。
シーア派はごく少数派で、現在でも全体の約1割ほどしかいません。
シーア派 = 少数派、血統主義
なのでシーア派は、アリーと対立してカリフとなったムアーウィア率いるウマイヤ朝の支配には断固反対していました。
スンナ派
シーア派とは逆に正統カリフの4人やムアーウィアのウマイヤ朝を認める多数派をスンナ派といいます。
ニュースなどでは「スンニ派」とも呼ばれていますね。
一言でいいと、スンナ派は「慣行」を大事にする宗派なんです。
慣行・・・その社会や組織の中で,しきたりとして行われていること。
スンナ派は、イスラーム教徒が受け入れてきた預言者の言行(スンナ=慣行)に従う人々を意味してそう呼ばれるようになったそうです。
スンナ派はシーア派よりも先にできたというわけでありません。
もともと1つだったイスラーム教からアリー以外の正統カリフを認めないシーア派が分離したという経緯がありました。
要は、もともとあった母体からシーア派が分離して、残ったのがスンナ派という感じですね。
なので、スンナ派は多数派にあたり、現在では全体の約9割を占めています。
スンナ派 = 多数派、慣行主義
シーア派とスンナ派は「血統」と「組織としての慣行」のどちらを大事にするかによって分かれた宗派なんですね。
現在ではスンナ派の盟主がサウジアラビア、シーア派の盟主はイランを引き継いでいるため、この両国は基本的には不仲で中東問題の原因の1つにもなっているんです。
ちなみにシーア派はウマイヤ朝に反乱を起こしますが、敗れてしまい、今のイラク周辺で身を潜めることになりました。
ウマイヤ朝の拡大
ウマイヤ朝が建国されてしばらくは、不満をもつ勢力(シーア派など)の反乱などに手を焼いていましたが、約30年間で反対勢力を一掃して、政権を確立させます。
ウマイヤ朝の統治が確立された際に建造されたのが、聖地イェルサレムの「岩のドーム」なんです。
SQ:ウマイヤ朝の拡大が与えた影響とは?
王朝内を安定させたウマイヤ朝は、国外へと征服運動を拡大させていきました。
・中央アジアのソグディアナを征服
・インド西北部を征服
・北アフリカ(ベルベル人)を征服
・イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼす
・フランク王国に侵入するが、トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れてイベリア半島に留まる。
最終的にウマイヤ朝はこのように拡大していきました。
ウマイヤ朝の拡大は、各地域に影響を与えました。
東方の西北インドでは進出したことでイスラーム化が進み、インドの文化が複雑化していきました。
西方では、ヨーロッパのイベリア半島に進出したことで、ビザンツ帝国はもちろん、他のキリスト教国家に絶大な脅威を与えました。
ちなみにイスラーム教によるイベリア半島の支配は700年以上も続きました。
アラブ帝国
ウマイヤ朝は拡大していくにつれて、初期から軍の中心を担っていたアラブ人兵士たちは貴族となって支配階級となっていきました。
カリフの権威も領土の拡大とともに大きくなっていきます。
そのような中、ウマイヤ朝は広大な領土を維持するための財源として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を帝国内に課しました。
これらの税は以下の通りです。
王朝内の非アラブ人に課された税。
人頭税を納めれば、他宗教への信仰が認められ、財産も保護された。
アラブ人は免除対象。
王朝内の土地を所有する非アラブ人に課された税。
人頭税と合わせて主要な財源。
アラブ人は免除対象。
これら2つの税がウマイヤ朝の主な収入源だったんですが、共通点は何かわかりますか?
どちらも「非アラブ人(非イスラーム教徒)」に課された税なんです。
しかし。これらの税は非アラブ人であってもイスラーム教へ改宗することで免除される予定でした。
しかし実際には、ウマイヤ朝の政府はアラブ人貴族によって構成されていて、財源の維持も必要だったため、非アラブ人たちが改宗した後も、人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)は免除されず課され続けたんです。
このようにウマイヤ朝はアラブ人を優遇する政策をとったことで「アラブ帝国」と呼ばれるようになりました。
こうなると起こりそうな問題とは何でしょうか?
同じイスラーム教徒でもアラブ人だけが税を免除されているので、非アラブ人からしたら不公平だと思います。
そうなんです。
非アラブ人たちは改宗した後も税を課されたので、この不公平がウマイヤ朝への不満を膨らませていったんです。
そしてこのアラブ人優遇の政策が、後のウマイヤ朝滅亡の原因となっていきます。
この税制度は民族によって貧富の差が生まれるので、ムハンマドの教えと矛盾するところもありますね。
まとめ
MQ:イスラーム教の宗派対立はどんな経緯でできたのか?
A:正統カリフが絶たれてムアーウィアがカリフを世襲制にしたことによって、ムハンマドの血統を引き継ぐ者しかカリフになれないとするシーア派が分離して、それ以外の慣行重視のスンナ派と対立するようになった。
今回はこのような内容でした。
次回はウマイヤ朝によるアラブ帝国が滅亡し、イスラーム帝国のアッバース朝が誕生します。ウマイヤ朝はどのように滅亡し、アッバース朝はどんな統治をしたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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