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[5-1.2]アラブ(イスラーム教徒)の大征服

5-1.イスラーム教の誕生と拡大

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロード可です!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はイスラーム教の勢力がアラビア半島以外に拡大していきます。アラブ人たちの征服活動はどのように進んだんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:アラブ人たちの征服活動はなぜ成功したのか?

今回の時代はここ!

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カリフ(後継者)

ムハンマドによって、イスラーム教を信仰するアラブ人はアラビア半島の統一に成功しましたね。

しかし、イスラーム教の創始者であるムハンマドが亡くなったあとに問題が起こります。

アラビア半島は統一されたとはいえ、ウンマ(イスラーム共同体)は出来て日も浅かったので、カリスマであるムハンマドが亡くなった後は、求心力が無くなってしまったんです。

ウンマから離れていくアラブ人部族もあらわれ、勢力を拡大したことでササン朝やビザンツ帝国にも目を付けられてしまうような状況でした。

ムハンマドの死

まさにイスラーム教勢力のピンチです。

なので、ムハンマドの後継として、「神の預言者の代理人」という意味のカリフを選出することになりました。

そして、その初代カリフ(後継者)として選ばれたのが、アブー=バクルという人物です。

このアブー=バクルからアリーというカリフまで続いた4人を「正統カリフといいます。

正統カリフ

アブー=バクル(在位632~634)

ウマル(在位634~在位644)

ウスマーン(在位644~656)

アリー(在位656~661)

グシャケン
グシャケン

正統カリフはイスラーム教の多数派のスンナ派がそう呼んでいます。

宗派については後々やっていきましょう。

初代カリフのアブー=バクルはイスラーム教の最初の信者で、大商人だったことから財力でムハンマドを支えて、最も信頼を置かれていた人物であったことからカリフに選ばれました。

カリフ、正統カリフ

SQ:カリフは、ウンマのなかでどんな存在だったのか?

下の史料は、初代カリフのアブー=バクルがカリフに就いたときに語ったとされる言葉です。

この文章から、カリフがウンマのなかでどんな役割をもっていたのかを考えてみましょう。

資料:『詳説世界史探究』山川出版社
グシャケン
グシャケン

みなさんはカリフの役割、わかりましたか?

簡単にまとめるとこんな感じですかね。

SQ:カリフは、ウンマのなかでどんな存在だったの

神とその使徒ムハンマドに従い、ウンマの代表として指揮権を託された存在。

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正統カリフの対外遠征

SQ:なぜカリフは対外戦争を積極的におこなったのか?

アブー=バクルは、バラバラになったアラブ人を再統一することに成功して、対外遠征にも積極的に進出してきました。

カリフによる対外遠征は、イスラーム教自体の拡大や、隣接していたササン朝やビザンツ帝国との抗争が目的でもあったんですが、、

アブー=バクルがカリフになってから、アラビア半島を統一したとはいえ、カリフの地位やウンマの統治をめぐってアラブ人同士で対立が起こることもしばしばあったんです。

その課題に直面したアブー=バクルは、これを解決するために、

アブー=バクル
アブー=バクル

アラブ人(イスラーム教徒)たちの関心をアラビア半島外(対外遠征)に向けさせるんだ!

ということで、アラビア半島外への遠征をおこなうことになったんです。

SQ:なぜカリフは対外戦争を積極的におこなったのか?

カリフ(後継者)の地位やウンマの統治をめぐるアラブ人同士の争いから目をそらすため。

グシャケン
グシャケン

ちなみにイスラーム教では、異教徒との戦いはジハード(聖戦)といわれます。

「その戦いで戦死した者は天国に行くことが出来る。」と信じられたことから、信者たちを搔き立てたんですね。

アラビア半島外への遠征、ジハード(聖戦)

対外遠征の流れ

カリフによる対外遠征は、まずイラク・シリア方面から始まりました。

そこはすでにアラブ人の移住が始まっていたことから支配の目標となりました。

当時、その地域を支配していたのは、ササン朝とビザンツ帝国でした。

しかし、大国を前にしたイスラーム教徒たちでしたが、2大国はすでに抗争によって国力が衰退し、アラブ人(イスラーム教徒)たちは「ジハード(聖戦)」による考え方で勢いがあったんです。

要は、アラブ人(イスラーム教徒)たちの方が士気が高かったんですね。

グシャケン
グシャケン

何においても勝負の際の「士気」は勝敗に影響しますからね~

アラブ人たちは、破竹の勢いで進撃していきました。

主な征服活動は以下の通りです。

アラブ人(イスラーム教)の征服活動

・633年~636年 シリア・パレスチナ遠征。

・635年 ダマスクスを征服。

・636年 ヤルムークの戦いでビザンツ帝国を撃破。ビザンツ帝国からシリアを奪い征服

・637年 カーディシーヤの戦いでササン朝を撃破イラクに進出し、クテシフォンを制圧。

・639年~641年 ビザンツ帝国からエジプトを奪い征服

・642年 ニハーヴァンドの戦いでササン朝を撃破

・651年 ササン朝が滅亡

このようにして、カリフ率いるアラブ人(イスラーム教徒)たちは「ジハード(聖戦)」のもと、領土を急速に拡大していきました。

実は、これだけの大征服を成功させたのは、単に「信仰」の力だけではなかったんです。

2大国(ササン朝、ビザンツ帝国)が抗争で衰退していたのも一つの要因でしたが、他にもキリスト教の派閥争いでエジプトやシリアでは社会が混乱していました。

他にも、戦利品の獲得がアラブ人たちにとって魅力のある収入源だったことなども、大征服の成功の要因とされているんです。

グシャケン
グシャケン

簡単にまとめると、「信仰の力(ジハードなど)」に加えて、「周辺地域が疲弊していた。」「戦利品が魅力的だった。」などの要因で成功したといえますね。

ジハード(聖戦)
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ミスル(軍営都市)

カリフによる大征服によって、アラビア半島外にの広大な領土を手に入れたアラブ人たちは、征服地に居住区を作り、兵士たちの家族ごと移住させて、軍営都市を建設しました。

この軍営都市をミスルといいます。

このミスル(軍営都市)は、戦略的な要地として、異教徒たちへの支配と同時に、経済文化の中心地としても発展していきました。

ミスル(軍営都市)
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まとめ

MQ:アラブ人たちの征服活動はなぜ成功したのか?

A:ジハード(聖戦)などによる信仰の力に加え、隣接する大国間の抗争や、キリスト教の宗派対立などで周辺地域が疲弊していたこと、加えて戦利品獲得がアラブ人にとって魅力的だったことなどから、征服活動が成功した。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回はイスラーム政権が誕生して、宗派争いが起こります。現代でも国際問題に発展しているイスラーム教の派閥問題。いったいどんな宗派なのか?

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

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