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[5-2.7]ローマ=カトリック教会②(聖像崇拝論争と東西教会の分離)

5-2.ヨーロッパの発展

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はローマ=カトリック教会がフランク王国と関係を深めていく過程をみていきます。なぜフランク王国と関係を深めていったのかを一緒にみていきましょう!

MQ:なぜローマ=カトリック教会はフランク王国と関係を深めていったのか?

今回の時代はここ!

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聖像崇拝論争

キリスト教の聖像崇拝

まずはキリスト教について少し復習していきましょう。

もともとキリスト教はユダヤ教イエス派から始まってできた宗教なので、キリスト教の教義もユダヤ教が土台になっていました。

しかし、キリスト教が成立して拡大していく中で、ある問題が起きたんです。

ユダヤ教の十戒では、「汝(なんじ)は自分のために刻んだ像を造ってはならない。」とあるように、偶像崇拝は厳しく禁止されていました。

この考え方はキリスト教でも引き継がれていたんですが、ローマ帝国内で広がっていく中で徐々にイエスや聖母などの聖像が礼拝で使われるようになっていったんです。

SQ:なぜキリスト教は聖像崇拝をおこなうようになったのか?

ではなぜキリスト教は聖像崇拝をおこなうようになったんでしょうか?

もともとキリスト教が誕生したローマ帝国ではさまざまな宗教が信仰されていました。

グシャケン
グシャケン

キリスト教誕生以前のローマ帝国は、一時期を除けば宗教に対して寛容的だったんです。

ローマ帝国内のさまざまな宗教では、神々や神聖な存在を象徴する像や彫像が広く使われていました。

キリスト教徒たちは、このような文化に影響をうけて聖像を使用したといわれているんです。

また、成立して間もないキリスト教は社会的に信用もなく経済的にも立場が弱かったので、聖像崇拝は信者たちの結束を強める手段としても役に立ったんです。

だって読み書きができない人々に対して、聖書の物語や教義をわかりやすく伝えてイメージさせる手段としては、聖像は有効な手段だったんでしょう。

このような理由からキリスト教で聖像が広がっていき、布教や信仰で重要な役割を果たしました。

SQ:なぜキリスト教は聖像崇拝をおこなうようになったのか?

ローマ帝国内のさまざまな宗教の影響を受けながら、布教を拡大して信徒たちの結束を強める手段として聖像崇拝がおこなわれるようになった。

キリスト教 聖像崇拝

イスラーム教からの批判

こんなわけでキリスト教は聖像崇拝がおこわれるようになったんですが、7世紀ごろからイスラーム教の誕生によって、この聖像崇拝が問題視されるようになったんです。

イスラーム教は偶像崇拝を徹底的に禁止する宗教なので、「啓典の民」であるキリスト教の聖像崇拝を激しく批判しました。

そのイスラーム教の影響を始めに受けたのが東側で国境の接するビザンツ帝国でした。

ビザンツ帝国の中で、

聖職者A
聖職者A

聖像崇拝はキリスト教の本来の教義に反している!

聖職者B
聖職者B

あくまで聖像を通して神を崇拝しているから大丈夫だ!

というギリシア正教会(東方教会)の中で聖像を認めるか否かの論争が起きました。

この論争を聖像崇拝論争と言います。

聖像崇拝論争
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レオン3世の聖像禁止令

SQ:聖像禁止令の本当の狙いとは?

この帝国内での聖像崇拝論争に対して決断を下したのがビザンツ皇帝のレオン3世でした。

レオン3世 硬貨の肖像より

レオン3世は聖像禁止令を発布して、国内の聖職者たちの論争を治めるだけでなく、イスラーム教からの厳しい批判にも応えるかたちで、「聖像崇拝の禁止と破壊」を命じたんです。

グシャケン
グシャケン

まずレオン3世は、なぜイスラーム教からの批判にこたえる必要があったのでしょうか?

レオン3世 聖像禁止令

それには以下の理由があったとされています。

当時、ビザンツ帝国はイスラーム勢力と国境を接していて互いに勢力争いを繰り返していました。

ビザンツ帝国 イスラーム勢力

なのでビザンツ帝国としては、聖像崇拝論争によって国内外で内乱・紛争が勃発する可能性があったんです。

帝国としてはこのような混乱は避けたかったので、国内の治安を安定させて、かつ国外(イスラーム勢力)との対立を一旦避けて、政治的・宗教的な緊張を緩和させたかったんです。

そのために結果、イスラーム勢力の批判に応えるかたちで聖像禁止令が出されたとされています。

要は、帝国内外の政治を安定させたかったというわけです。

聖像禁止令の目的①

・帝国内外の政治の安定

加えて、イスラーム勢力との勢力圏争いには常に「お金」が必要でした。

繰り返されるイスラーム勢力との戦いで帝国の財政は圧迫されていました。

そこで考えられたのが聖像禁止令によって「教会や修道院の土地を没収する」という政策でした。

当時ビザンツ帝国では、教会と修道院には帝国から与えられた所有地がありました。

そしてそれらの土地には課税されず、そこに住む住人には徴兵が免除されるという特権があったんです。

財政が苦しく、兵力を確保したいと考えるレオン3世は聖像禁止令を出すことで、

レオン3世
レオン3世

これに従わなければ土地と財産を没収する!

ということにしたんです。

これによって教会や修道院の土地を没収することで、財源を潤して兵力も増強させようとしたわけなんです。

聖像禁止令の目的

・教会や修道院の土地を取り上げて、財源や兵力の増強

SQ:聖像禁止令の本当の狙いとは?

帝国内外の政治混乱を抑えて、教会や修道院の土地を取り上げて財源や兵力を増強させるため。

聖像禁止令
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東西教会の対立、分離

ビザンツ皇帝(ギリシア正教会)との対立

このビザンツ帝国の聖像禁止令に対して異議を唱えたのがローマ=カトリック教会でした。

ローマ=カトリック教会は、信仰を拡大するために西ヨーロッパのゲルマン人に対して積極的に布教活動をしていましたよね。

ローマ=カトリック教会は、そのゲルマン人への布教には聖像が必要不可欠だと考えていたので、ビザンツ皇帝レオン3世の聖像禁止令に強く反発したんです。

このローマ=カトリック教会(西)の反発によって、ビザンツ帝国のギリシア正教会(東)との関係が崩れていき、東西分裂を深めていくことになりました。

聖像禁止令が直接教会の東西分裂を引き起こしたわけではありませんが、この出来事がきっかけとなって、教義の違いや、管理権の範囲に関する争いが両教会間で起こり初めました

統一を目指す動きや努力もあったんですが、徐々に両者の対立は深まっていきました。

この対立によってローマ=カトリック教会は、ビザンツ皇帝の保護なしに、それに対抗できるほどの勢力を保護者として求めなければいけなくなってしまいました。

ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の対立、分離

フランク王国との接近、教皇領のはじまり

ちょうどそのころ、西ヨーロッパではフランク王国の宮宰カール=マルテルがイスラーム軍の侵攻を防いで、西ヨーロッパ世界の救世主になっていました。

ローマ=カトリック教会はそこに目をつけます。

もともとクローヴィスの時代からローマ=カトリック教会とは関係がありましたが、フランク王国を正式な保護者してギリシア正教会に対抗しようとしたんです。

教皇はフランク王国に接近し、王国で権力を持つ宮宰カール=マルテルの子ピピンがフランク王を継承することを認めました。

グシャケン
グシャケン

要は宮宰のクーデターを容認したんですね。

これも[5-2.5]フランク王国①(メロヴィング朝、カロリング朝)に載せているので気になる方は見てください。

そしてこれの返礼としてピピンは、当時イタリア半島を征服していたランゴバルド王国に侵攻して、奪還したラヴェンナ地方をローマ=カトリック教会の教皇に寄進したんです。

これをピピンの寄進といいます。

グシャケン
グシャケン

フランク王国もローマ=カトリック教会の権威を借りることで、成立間もない王国の政治を安定させようとしたんです。

これが今後、ローマ=カトリック教会の権威の土台となっていく教皇領の始まりとなりました。

この出来事によって、ローマ=カトリック教会はフランク王国という新たな保護者を手に入れ、利害が合致したフランク王国とローマ=カトリック教会の関係は歴史を追うごとに強くなっていくことになります。

ピピンの寄進 ローマ教皇領
ラヴェンナ地方
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まとめ

MQ:なぜローマ=カトリック教会はフランク王国と関係を深めていったのか?

A:聖像崇拝論争などによって東西教会での対立が激しくなり、西のローマ=カトリック教会は東のギリシア正教会と対抗するために新たな保護者が必要になった。そこに西ヨーロッパ統一のために、宗教的権威を求めていたフランク王国との利害が合致したことで、両者は関係を深めていった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回はローマ=カトリック教会とフランク王国との関係がさらに深まっていきます。カール大帝によってフランク王国は強大な国家へと変貌してきます。その過程を一緒にみていきましょう。

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
グシャケン

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主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

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