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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は「ウィーンの体制の動揺」の1回目として、「自由主義とナショナリズムの噴出」についてみていきます。なぜウィーン体制は、成立直後から動揺し続けたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜウィーン体制は、成立直後から絶えず揺れ続けたのか?
自由主義運動やナショナリズム運動の高まり
メッテルニヒの体制維持
ナポレオン戦争後のウィーン会議で議長を務めたオーストリア外相のメッテルニヒは、

革命の再発を防ぎ、ヨーロッパの安定を取り戻す
という一点に全力を注いで、ウィーン体制を維持しようとしました。
そのために掲げられたのが“保守主義”と呼ばれるものでした。
保守主義・・・旧来の伝統・慣習・考え方などを尊重して,急激な改革を好まない主義。
彼は自由主義やナショナリズムを「革命の火種」とみなして、言論・出版の統制や秘密結社の監視、反乱の武力鎮圧など、体制維持のための弾圧を徹底しておこないました。
自由主義・・・人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする立場。
ナショナリズム・・・国民や民族などが、自己の統一や発展、他からの独立をめざす思想または運動。
しかし、そんなメッテルニヒの努力にも関わらず、ヨーロッパ各地では自由主義・ナショナリズムの運動が次々と噴出していくことになります。

産業革命と市民革命の連鎖
SQ:なぜメッテルニヒが抑え込んでも、自由主義・ナショナリズムは止まらなかったのか?
まず、ウィーン体制によって、ヨーロッパに約100年にも及ぶ安定が訪れましたよね。
そして平和が続いたことで、経済が安定して起こったのが“産業革命”の進展でした。

流れとしては以下の通りです。
・新しい技術が次々と生まれる(技術革新)
↓
・資本主義経済が拡大して、企業が増え、商品やサービスの種類も拡大
↓
・企業同士の競争に勝つには技術の進歩が不可欠になり、技術で差をつけないと市場で生き残れなくなる
↓
・さらなる技術革新には教育・法律・自由な経済活動が必要に
つまり封建的な身分制社会では、産業化が進まなくて、産業革命の邪魔になってしまったんです。

なので、産業化を進めるためには、
・法の下の平等
・財産権の保障
・市民の政治参加
といった上(特権階級)のからの圧力ではなく、市民が中心になって産業化していく「近代市民社会」の制度が必要になりました。
なので、それまで一部の人たちが独占していた「特権社会」から「市民中心の社会」にするために自由主義やナショナリズム運動が起きたんです。
なので、メッテルニヒがどれだけ自由主義やナショナリズムを抑え込もうとしても、 時代に合わせて変わろうとする「近代化」の圧力が積み重なっていたので、そういった運動が止めることができませんでした。
これがウィーン体制が揺れ続けた原因だったんです。
産業化が進む中で、近代化に必要な制度(法の下の平等・財産権・市民参加)を求める社会の構造変化が進み、メッテルニヒの抑圧ではその流れを止められなかったため。

改革・独立運動(失敗)
ドイツ連邦(ブルシェンシャフト)
ウィーン体制の動揺は、具体的にはまずドイツ諸邦から始まりました。
ナポレオン戦争に参加した学生たちを中心に、大学で学生組合が結成されます。
それはブルシェンシャフトと呼ばれて、「名誉・自由・祖国」 を掲げて自由主義の改革とドイツ統一を訴えかけました。

ブルシェンシャフトの学生たちは、 黒・赤・金の三色旗(現在のドイツ国旗) を象徴として掲げていました。 この色は、ナポレオン戦争で義勇軍が着ていた黒い軍服と赤い飾り、そして金色のボタンに由来していて、「対ナポレオン戦争の記憶」=「ドイツ統一の象徴」 になっていたんです。
メッテルニヒは、このブルシェンシャフトの活動をウィーン体制を崩すものだと危険視したので、ドイツ連邦の大臣会議で学生団体の禁止や出版検閲などを決議して弾圧しようとしました。

学生たちは警察の法令集やナポレオン法典などの書物を燃やすなどの活動をして、メッテルニヒはこれを聞いて驚いたそうですよ。
この対応によってブルシェンシャフトは壊滅的な打撃を受けて、運動は地下でおこなわれるようになっていきました。
しかし、自由主義的なドイツ統一運動は形を変えながら続いていき、 後の1848年革命へとつながっていくことになります。

イタリア半島(カルボナリの蜂起)
イタリアでも、自由主義と統一を求めるカルボナリと呼ばれる秘密結社が活動を開始します。

カルボナリは「炭焼き人」という意味ですが、実際に炭焼き職人の組合から生まれたわけではありませんでした。秘密結社であることを隠すための暗号名として使われていたんです。
カルボナリの起源は明確ではありませんが、ナポレオンによるフランス支配に反発した人々が結成したと考えられています。

活動の中心はブルジョワジーや地主層など社会上層の人々でした。
カルボナリは「憲法と自由」を掲げてナポリで蜂起して、国王に憲法を受け入れさせることに成功します。
しかし、ウィーン体制を維持しようとするオーストリア軍が介入したことで鎮圧されてしまいました。
トリノでも自由主義を求める貴族と軍の一部が蜂起して、国王が退位して臨時政府が成立しましたが、 新国王がオーストリア軍に支援を要請したために、革命は短期間で崩壊することになってしまいました。

カルボナリは最終的に失敗に終わりましたが、その精神は後にマッツィーニの「青年イタリア」に受け継がれていき、イタリア統一運動の中心となっていきました。

スペイン立憲革命
スペインではナポレオン支配が終わった後に、復活した国王によって絶対王政が復活しました。
この絶対王政下での統治や、中南米への派兵に対して不満を持つ人々が増えていき、自由主義派の軍人が蜂起を起こします。
この蜂起では、国王に憲法制定を承認させて、国王を廃位させることに成功します。
これによって革命政府が成立して、スペイン立憲革命が成功しました。

この立憲革命に影響を受けて、起こったのが先ほど説明したイタリアのカルボナリの蜂起でした。
ちなみに中南米でも独立運動が加速していくことになって、アメリカ合衆国の「モンロー宣言」にも影響を与えたんですよ。
このスペイン立憲革命の事件に対して、ウィーン体制を守る五国同盟(英・仏・墺・普・露)は対応を巡って対立を起こしました。
絶対王政維持の立場で、革命弾圧を主張
立憲革命を評価し、介入に反対

イギリスも革命によって議会政治が成立した国だったので、鎮圧に反対したんでしょうね。
最終的に、フランスが「スペイン王を守る」という名目で軍を派遣することになり、革命政府は鎮圧されてしまい、崩壊することになりました。
この出来事によって、ウィーン体制は「革命は武力で止める」という姿勢を明確に示すことになりました。

ロシア(デカブリストの乱)
皇帝(ツァーリ)が絶対的な権力を握るロシアでは、デカブリスト(十二月党員)の乱が起こりました。
ことの発端は、ナポレオンのロシア遠征に対する反撃に従軍して、フランス軍を追ってパリに入城したロシア貴族出身の青年将校たちが、「自由・平等・立憲政治」という西欧文化に触れて衝撃を受けたことから始まりました。
青年将校たちは帰国後、ロシアの専制政治と農奴制が国の発展を後退させていると強く感じるようになりました。
しかし、ウィーン体制のもと、ロシア皇帝は「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれ、自由主義やナショナリズムを徹底的に弾圧していました。
そんな中で、青年将校たちは「このままではロシアは取り残される」と危機感を持つようになり、「立憲政治」と「農奴制の廃止」を求めるようになっていきました。
そんなタイミングで、ロシア皇帝の継承権を巡って政府内で混乱が起きます。
この混乱を「絶好の機会」と見た青年将校たちは、サンクトペテルブルクで反乱を起こします。

事件が起こった12月をロシア語でデカーブリと呼ぶことから、参加者はデカブリスト(十二月党員)と呼ばれるようになったそうですよ。
しかし、反乱に参加したのは軍の一部だけで、民衆の支持も得られず、政府軍にすぐに反撃されてしまったことで、反乱は短時間で鎮圧されてしまいました。


反乱自体は失敗に終わりましたが、 ロシアにおける自由主義運動の象徴になり、 約80年後に始まるロシア革命(1905年・1917年)へとつながっていくことになります。
改革・独立運動(成功)
ギリシア独立戦争
ウィーン体制下で起きた改革・独立運動の中で、唯一成功したのがギリシアの独立でした。
19世紀初頭まで、ギリシアはビザンツ帝国滅亡以来、オスマン帝国の支配下に置かれていました。
しかし、フランス革命とナポレオン戦争が起きたことで、オスマン帝国の支配に不満を持っていたギリシア人たちは自由を強く求めるようになります。
ギリシア青年たちは秘密結社を結成して、オスマン帝国に対して独立戦争を起こして、独立宣言をおこないました。
こうして始まったのが、ギリシア独立戦争です。
この独立戦争には、ヨーロッパ各地から義勇兵が参加するなどの独立運動への後押しがありました。

古代ギリシア文化への尊敬から参加する人も多かったみたいですよ。
一方のオスマン帝国はこの独立運動を危険視して弾圧をおこない、ギリシア側は苦境に立たされてしまいます。
ヨーロッパでも、ウィーン体制を守ろうとするメッテルニヒは独立に反対し、神聖同盟も当初はオスマン帝国を支持していました。
しかし、ロシアが南下政策の一環としてギリシア支援に動くと、イギリスはロシアの地中海進出を警戒して介入を決断し、フランスも追いかけるように介入してきました。
こうして、ウィーン体制の理念(正統主義)とは裏腹に、列強が自国の利益を優先して動くようになり、足並みが乱れたことで、ウィーン体制の動揺が露わになっていきました。
こうして、ギリシアの独立を支持したイギリス・フランス・ロシアの連合艦隊はオスマン帝国艦隊を撃破して、ギリシア独立を承認させるために追い込んでいきました。
そして講和会議が開かれることになり、ロンドン会議にてギリシアの独立が国際的に承認されて、ギリシアが独立することになりました。

このギリシア独立達成は、オスマン帝国の権威を低下させただけでなく、列強の利害対立を表面化させ、ウィーン体制の動揺を象徴する出来事となりました。
ちなみに第一次世界大戦後にギリシアが領土拡張を狙ってオスマン帝国領へ侵攻した「ギリシア=トルコ戦争(1919–1922)」と間違えないように注意しておきましょう。

SQ:なぜギリシアだけ独立が成功したのか?

ではなぜ、ギリシアの独立運動は成功することができたんでしょうか?
それは、「列強の利害が一致したから」 でした。
ウィーン体制は「革命を抑える」ための体制でしたが、 列強は次第に自国の利益を優先するようになっていったため、正統主義の原則が簡単に崩れることになってしまったんです。
イギリス・フランス・ロシアの利害が一致して三国が軍事介入し、国益が正統主義より優先されたことで、ギリシア独立だけが成功した。

まとめ
MQ:なぜウィーン体制は、成立直後から絶えず揺れ続けたのか?
A:産業革命による近代化が自由主義・ナショナリズムを押し上げ、さらに列強が自国の利益を優先して協調が崩れたため、成立直後から揺れ続けた。

今回はこのような内容でした。

次回は、ウィーン体制の動揺の2回目として「七月革命とその影響」についてみていきます。フランスの七月革命の特徴と、周辺諸国にはいったいどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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