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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はフランス二月革命からヨーロッパへ革命が波及していった「諸国民の春」についてです。なぜ1848年革命は、同じ「革命」でありながら、西欧と東欧でまったく違う結果を生んだんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ1848年革命は地域ごとに違う結果を生んだのか?
ウィーン三月革命
フランス二月革命の衝撃とメッテルニヒの失脚
1848年2月、フランスで七月王政が倒れ、第二共和政が成立した二月革命のニュースは、瞬く間にヨーロッパ全土へ広がりました。
その衝撃は、ヨーロッパの国際秩序だったウィーン体制の中心であったオーストリアにとっても致命的なものになりました。
1848年3月13日、ついに二月革命に影響を受けた民衆がウィーンで蜂起をおこします。
民衆たちは宮殿を取り囲んで、基本的人権の保障と憲法の制定を求めました。
30年以上にわたってヨーロッパの政治を動かしてきたメッテルニヒは辞職に追い込まれてしまい、辞職した翌日にはイギリスへ亡命する事態にまで発展していきました。

メッテルニヒは革命の民衆を恐れて、変装しながら洗濯籠に隠れてウィーンを脱出したと言われています。 ウィーン体制の中心人物が、洗濯籠に隠れながらの逃亡は、歴史の皮肉を象徴していますね。
こうして、メッテルニヒが失脚したことでウィーン三月革命は成功して、30年以上続いたウィーン体制は崩壊していくことになりました。

その後、オーストリア皇帝はこの混乱を治めるために、憲法制定議会を開くことを約束して、立憲君主政への移行を宣言しました。
しかし、翌月には議会を開かずに欽定憲法を一方的に公布してしまいます。
欽定憲法(きんてい)・・・君主が自らの権限で作成した憲法。
これに民衆が再び激怒して、5月には改めて議会の開催と普通選挙の実施を約束させることになりました。

皇帝もウィーン体制の維持にやっきになっていたんですね。
多民族国家オーストリアに広がる民族運動
ウィーンで三月革命が起こると、オーストリア帝国内の各民族も自由を求めて一斉に立ち上がりました。

これが後に“諸国民の春”と呼ばれる、ヨーロッパ各地を巻き込んだ民族運動の高まりでした。
ハンガリー
ハンガリーでは、議員だったコシュートを中心に独立が主張されました。

新憲法の制定を求めて民衆も蜂起を起こし、議会演説で自治を要求したコシュートの訴えは、革命の波に乗って一気に広がっていきました。
革命直後もあり、混乱を避けたかったオーストリア皇帝は、コシュートの要求を呑んでオーストリアと同等の権利を与えることを認めました。
こうして、ハンガリーは実質的な独立を勝ち取ることに成功して、コシュートが新内閣で実権を握る立憲君主国となりました。

後にコシュート政権は崩壊させられることになりますが、これが後のオーストリア=ハンガリー二重帝国の基盤になっていくんです。
北イタリア(ロンバルディア・ヴェネト)
北イタリアのミラノなどの諸都市では反オーストリアの蜂起が発生し、これが後のイタリア統一運動の前段階となっていきました。
ベーメン(ボヘミア)
プラハではスラヴ民族会議が開かれて、連邦制の導入を求める運動が展開されました。

普段は利害が一致しないチェコ人・スロヴァキア人・ポーランド人などが、「反オーストリア」という一点で団結したのがこの会議でした。 しかし会議中に街で衝突が起きて議論が中断されるなど、混乱ぶりも“革命らしい”展開だったんです。

ベルリン三月革命
三月革命
フランス、ウィーンに続いて、ドイツでも三月革命がおきます。
ドイツ連邦は統一国家ではなく、プロイセンとオーストリアを中心とする多数の領邦の集合体だったので、自由主義者や民族統一を求める市民の不満が蓄積していました。

ドイツには「関税同盟」もありましたが、これは連邦と並行する形で存在していました。
そのタイミングでフランス二月革命が起きたので、プロイセンの首都ベルリンでも自由な権利を求める民衆の蜂起が相次いで起こりました。
そこに同時期に起きていたウィーン三月革命によってメッテルニヒが失脚した知らせが入ると、プロイセン国王は革命側に譲歩することを決意します。
国王は憲法制定などを約束するなど、自由主義者による内閣が発足したことで、三月革命は成功することになりました。

フランクフルト国民議会
ベルリンでの国王の譲歩を受けて、ドイツでは史上初めての男性普通選挙がおこなわれました。
こうして、開催されたのがフランクフルト国民議会と呼ばれるものでした。

フランクフルトは昔からヴェネツィア商人との交易で繁栄していた都市で、ドイツ連邦議会の開催地でもあったことから、政治・経済の中心地だったんです。
フランクフルト国民議会はドイツ統一と憲法制定を目指していましたが、内部での対立が深刻化しました。
それが「ドイツをどの範囲で統一するか」という問題です。
・大ドイツ主義・・・オーストリア帝国のドイツ人地域を含む統一
・小ドイツ主義・・・多民族国家オーストリアを除外し、プロイセン主導で統一
この2つの統一方法を巡って、ドイツでは内部での対立が続くことになりました。

「諸国民の春」
このように、ヨーロッパでは「1848年」という年に一斉に革命が起きました。
これを総称して、1848年革命とも呼びます。
フランス二月革命をきっかけに、自由主義とナショナリズム(民族独立)がヨーロッパ全体へ広がっていき、オーストリア・ドイツ・イタリア・ハンガリー・ベーメンなど、各地で民衆が蜂起しました。
この一連の運動は後に「諸国民の春」と呼ばれて、“ウィーン体制の崩壊”を象徴する歴史的な大事件になりました。
しかし、同じ1848年革命でも、地域によって目的も結果も大きく違っていたんです。
西ヨーロッパでは「自由主義的改革」が求められ、東ヨーロッパでは「民族運動による自治・独立(ナショナリズム)」が中心になっていたので、両者での連携は実はほとんどなかったんです。
しかも、「自由主義」と「ナショナリズム」の内部でも対立がしばしば起きて、団結することができないことがありました。


では、なぜ自由主義とナショナリズムでは、しばしば対立が起きたんでしょうか?
SQ:なぜナショナリズムと自由主義は、1848年革命の中でしばしば対立したのか?
ナショナリズム(民族運動)は「自分の民族の自治・独立」を求めていました。
しかし、多民族国家の場合、ある民族の独立要求が別の民族の自由を脅かす危険性があったんです。
なので、全ての民族が必ずしも団結するわけではなかったんです。
一方、自由主義者は「法の下の自由・平等」を求めていました。
しかし、自由主義者の内部では、経済的な自由を求める「資本家」と、政治的な自由を求める「市民」、さらに社会主義を求める「労働者」まで出てきたことで、革命勢力が分裂してしまったんです。
このような理由から、「自由主義」と「ナショナリズム」は内部でしばしば対立を起こすことになったんです。
ナショナリズムでは、多民族地域で互いの自由を侵害し合う構造を生み、自由主義では、陣営内部の階層対立が重なったため、しばしば内部対立が起きた。

反革命の反撃
このように革命勢力が分裂してしまったことで、君主などの政権側は反撃に転じていきました。
ロシアの介入
当時のロシア皇帝は、革命運動が自国に広がるのを恐れたため、ハンガリーの民族運動を危険視していました。
なので、オーストリアを支援して軍を派遣し、コシュートらの運動は鎮圧してしまいます。

ロシアはこのような海外の反動政治にも介入していったことから「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるようになりました。
オーストリアの新絶対主義
ウィーン三月革命は一時的に自由主義の勝利をもたらしましたが、長くは続きませんでした。
フランスで六月蜂起が起きて鎮圧されてしまうと、ロシアからの支援もあり、オーストリア政府も自由主義に対して反撃に転じます。
ウィーンでは民衆と激しい戦闘をおこない、約2000人もの犠牲が出るなど、革命運動を徹底的に武力で鎮圧していきました。
結果、各地の革命運動(北イタリア、ハンガリー、ベーメン、ポーランド)もオーストリア軍やロシア軍の介入によって、鎮圧されていきました。

このようにして、1848年革命は挫折していくことになりましたが、これらの運動は19世紀後半〜20世紀初めに実現する民族の自立の出発点になっていきます。
こうして、国内の革命を鎮圧したオーストリアは、一時的に認めた憲法を停止し、自由主義やナショナリズムを抑圧していく反動政治である新絶対主義体制へと移行していくことになりました。
ドイツ
ドイツではプロイセン国王が、フランクフルト国民議会で起草された憲法を拒否してしまい、軍を派遣してフランクフルト国民議会を解散させてしまいます。
これによって、ベルリン三月革命は終わりを迎えることになり、各領邦でも反動化が起きていきました。
その後も民衆蜂起が各地で起きましたが、プロイセン軍が徹底的に鎮圧していき、革命運動は急速に後退していくことになりました。

1848年革命の歴史的意義
1848年革命は最終的に多くが失敗に終わってしまいましたが、その歴史的意義はとても大きいものでした。
・ウィーン体制の崩壊
・自由主義・ナショナリズムの定着
・東西ヨーロッパの分岐点
[西欧]:自由主義的改革(議会政治・市民社会)
[東欧]:ナショナリズム(民族問題と帝国支配の継続)

SQ:もし1848年革命で自由主義者と民族運動が連携できていたら、ヨーロッパの歴史はどう変わっていたのか?

この「SQ」に正確な答えはないです。現在でも歴史学で議論される話題なので、ぜひみなさんも考えてみてください。
まとめ
MQ:なぜ1848年革命は地域ごとに違う結果を生んだのか?
A:各地域で求められた改革の内容(自由主義かナショナリズムか)が違い、さらにその内部でも利害対立が生じて団結できなかったため。

今回はこのような内容でした。

次回は、クリミア戦争についてです。この戦争では各国(ロシア・イギリス・フランス)にはどんな思惑があったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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