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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は近世のロシアについてです。近世のロシアはどのようにして大国になっていったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:近世のロシアはどのようにして大国化していったのか?
イヴァン4世(モスクワ大公国)
ツァーリズムの開始
15世紀後半までロシアでは「タタールのくびき」と呼ばれたキプチャク=ハン国による間接支配を受けていましたよね。
しかし、モスクワ大公国のイヴァン3世によってロシアは独立を果たします。
そして、ロシアの歴史で転機となったのが、イヴァン3世の後を継いだイヴァン4世の治世でした。


イヴァン4世は16歳という若さで「ツァーリ(皇帝)」の座に就きました。
若くして皇帝の座に就いたイヴァン4世がまず初めに取り組んだのが、絶対王政を築くことでした。
このロシアでの絶対王政は、ロシア皇帝の呼び名である「ツァーリ」にちなんでツァーリズムと呼ばれます。

当時、ロシアでは封建制と農奴制によって、ガッチリと貴族たちによって土地と権力が固められた封建社会でした。
イヴァン4世はこれを壊して、皇帝(ツァーリ)に権力を集中する中央主権化を強行しようとしました。
彼は大貴族たちを徹底的に抑圧し、親衛隊を組織して反対勢力をバシバシ粛清していきました。
粛清(しゅくせい)・・・反対者や敵対者を排除すること。
時には都市ノヴゴロドを「反逆の疑い」で襲撃して、3万人以上を虐殺するという、民衆に恐怖を与える徹底ぶりもみせました。

こうしてイヴァン4世は、「雷帝」と呼ばれるほど恐れられる皇帝になっていったそうです。
こうして、敵対する勢力を一掃して、手中に収めた貴族たちを皇帝直属の官僚として登用することで、皇帝(ツァーリ)に権力を集中させる絶対王政(ツァーリズム)を強化させたんです。

それまで貴族の領土には政治介入できなかったのが、官僚にすることで全ての領土をコントロールできるようになったわけです。

領土拡大と混乱期
一方で、イヴァン4世はキプチャク=ハン国が分裂した後の混乱に乗じて、積極的な領土拡大にも乗り出していきました。
周辺のモンゴル系国家を次々と併合していき、東と南にかけて領土を拡大していきました。
これにより、ロシアは東のシベリアへの進出の足がかりを得ることになりましたが、西のバルト海や黒海に接するまでは領土を拡大できず、あくまで「内陸国」止まりになりました。

しかし、イヴァン4世が亡くなった後、次男がその後を継ぎますが、統治する能力がなかったので政治を混乱させてしまい、早死にしてしまいます。

ちなみに晩年のイヴァン4世は周りの人を信じることができなくなってしまい、疑心暗鬼で実の息子を殺害してしまうなど、常軌を逸していたそうですよ。
その後は後継者を巡る対立や、貴族間での権力争いが起きてしまい、偽の皇帝が乱立するなど統治がままならない状況になってしまいます。
こうしてロシアは動乱の時代へと突入していくことになりました。
ロマノフ朝
成立
この動乱期では、正当な後継者の不在と貴族間の権力争い、さらには度重なる飢饉や疫病がロシアの民衆を苦しめていました。
しかも、この混乱は単なる内乱にとどまらず、ポーランドやスウェーデンといった周辺諸国からの侵入も許してしまい、都市モスクワが一時ポーランド軍に占領されてしまう危機にまで陥りました。
しかし、ここでロシアの貴族たちは一つの決断を下します。
ロシアの崩壊を防ぐためにロシア貴族たちが一致団結して、外国勢力をモスクワから追い出すことに成功したんです。

やはり、バラバラだった勢力を団結させるのは、共通の強敵が現れた時ですよね。「敵の敵は味方」ってやつですね。
そして、国家の再建に向けて貴族間で会議を開き、ロマノフ家のミハイル=ロマノフを新たな正統な皇帝(ツァーリ)として選出されることになりました。

ミハイル家はロシアの名門貴族で、このミハイル=ロマノフはイヴァン4世と血が繋がっていた親戚でした。なので、統一の象徴としてわずか16歳で貴族たちに担ぎ上げられる形で皇帝になったんです。

これによって新たにロマノフ朝が誕生することになりました。

このロマノフ朝は貴族によって選ばれたという経緯を持ちながらも、ツァーリズムを強化していき、ロシアを帝国としての姿に確立させていくことになります。
コサックへの支援と領土拡大
ロマノフ朝はコサックと呼ばれる騎馬武装集団を取り込むことで、その領土を拡大させていきました。

では「コサック」とはどんな集団だったんでしょう?
14世紀ごろから、ロシアのモスクワ大公国では農奴制が強化されて、土地に縛られる農民(農奴)が増えていました。
そんな中だったので、領主の支配から逃れた農民たちが、南ロシアの草原地帯へと流れ着いていました。
南ロシアは国家の支配がまだ及ばない辺境だったので、彼らはそこで半農半牧の生活をしながら、自衛のために武装された騎馬集団を組織していったんです。

コサックという言葉は、もともとトルコ語で「自由な人々」を意味していて、その名の通り、彼らは束縛を嫌って自由を求めて生きた人びとでした。
特に現在のウクライナの草原地帯では、コサックが社会の中心を担うほどの勢力になっていました。
17世紀半ば、ウクライナのコサックがポーランドからの支配に反発して、隣国のロシアに支援を要請します。
これがきっかけとなり、ロシアはポーランドからウクライナ東部を獲得して、西方への領土拡大を果たしました。
その後もコサックは単なる辺境の民ではなく、ロシアの軍事力として領土拡張と国家形成において、重要な役割を果たしていったんです。

コサックはロシアで重宝されましたが、その後、ロシア支配に不満を持つコサックのステンカ=ラージンなどによる農民反乱が発生してしまいます。
この反乱は鎮圧されてしまい、その後全てのコサックが皇帝(ツァーリ)に忠誠を誓わされて、コサックの自治権が大幅に縮小されてしまうことになりました。
加えて反乱防止にために農奴制も強化されていくことになり、ツァーリズム体制はより強固なものとなっていきました。

ピョートル1世
西欧化
そして、ロシア(ロマノフ朝)の大国化を決定づけたのが、ピョートル1世という皇帝でした。


彼は「大帝」と称されるほどの改革者で、ロシアを西欧型の近代国家へと発展させた人物でした。
まずピョートル1世がおこなったのが、西欧諸国の視察でした。
まだ当時、ロマノフ朝ロシアはポーランドやスウェーデンなどには国力で遠く及ばない東欧の弱小国でした。
農奴制によって、国内産業も未熟だったので、ピョートル1世は他国に負けない軍隊と産業を創るために、ヨーロッパでは先進国だった西欧諸国を視察することにしたんです。

オランダの造船所では皇帝という立場でありながら、労働者に紛れて実際に働いていたそうですよ。他にもイギリスでは砲弾工場を見学するなど、現場で技術を学びました。
この西欧視察の経験をもとに、帰国後は軍制改革、産業育成、官僚制度の整備を進めていきました。
また、貴族に西欧風の服装を義務づけて、ひげを切らせるなど、生活習慣の改革もおこなっていきました。

たしかにミハエル=ロマノフとピョートル1世の肖像画を比べてみると、服装などがずいぶん違いますね。
ちなみにひげはギリシア正教のシンボルでもあり、ロシア貴族の伝統だったんですが、きらない者には「ひげ税」を課すほど徹底していたそうですよ。
こうした皇帝による「上からの改革」は、ロシアの近代化を一気に加速させることになりました。

北方戦争と新都ペテルブルク
そして、ピョートル1世が外交面で一番の成果をあげたのが、スウェーデンとの北方戦争でした。

北方戦争は、スウェーデンで年少の国王が就いたのを機に、ピョートル1世がポーランドやデンマークなどの周辺諸国と手を組んで侵攻したのがきっかけでした。
序盤ではスウェーデンに敗北してしまいますが、ロシアは軍備を整え直して徐々に形成を逆転させていきます。
そして最終的には、講和条約でバルト海の東岸を獲得することに成功して、ロシアは戦勝国として「バルト海の覇者」となりました。

この戦争の最中、ピョートル1世は本格的にバルト海へ進出していくために、沿岸に新しい都市であるペテルブルクを建設していました。
このペテルブルクは「西欧への窓口」になっていき、ロシアのヨーロッパでの地位が上がったことを象徴する都市になっていきました。

東方と南方への進出とネルチンスク条約
そして、ロシアの拡大は西だけにとどまりませんでした。
東方ではシベリアを越えて東アジアへと進出していき、当時の中国王朝だった清と小競り合いが起きます。

金や毛皮などの資源が豊富でしたからね。ロシアがすごい略奪していたそうですよ。
3年ほど戦闘が続いたところで、清の康熙帝と講和条約を結ぶことになり、締結されたのがネルチンスク条約でした。
これにより、ロシアと中国との間で初めて国境が画定して、公式の貿易もおこなわれることになり、東アジアへの進出の第1歩を果たすことになりました。
南方では、オスマン帝国とアゾフ海を巡って争うことになり、アゾフを一時占領することにも成功しました。
これが後の黒海進出、さらには地中海への野望へとつながっていくことになります。

SQ:なぜロシアは東方や南方に積極的に進出していったのか?

ではなぜロシアは東方や南方の進出に力を注いだんでしょうか?それはその後のロシア外交にも関係していくことになります。
・海洋ルート(港)の確保
ロシアは長らく内陸国家だったので、バルト海や黒海といった海洋へのアクセスが限られていました。
そのため、貿易や海軍の発展にとって「海への出口」である港を確保することは国家的な悲願だったんです。
加えて、シベリアには豊富な毛皮資源があったので、これは当時のヨーロッパ市場でも高値で取引される重要な輸出品でした。
また、東方への進出は中国や中央アジアとの交易ルートを開くことにもつながり、大きな利益をもたらすことになりました。
南方では、黒海経由で地中海世界とつながることで、より広範な貿易への参加が可能になります。
つまり、東方と南方の拡張は、ロシア経済の活性化と国際的地位の向上を狙った戦略だったんです。
・辺境の安定と防衛
広大な国土を持つロシアにとって、国境地帯の安定は国家存続の鍵でした。
東方では遊牧民やオアシス民との衝突が絶えず、南方ではオスマン帝国などとの緊張が続いていました。
そのため、国境を押し広げて緩衝地帯を作ることで、国家の安全を確保しようとしたんです。
交易路や資源の確保によって経済を活性化し国際的地位を高めるとともに、国境地帯の安定と防衛を図るため。

エカチェリーナ2世とロマノフ朝の最盛期
女帝エカチェリーナ2世の誕生
勢力を拡大させたピョートル1世の改革を引き継いで、さらにロシアを強大化させたのが女帝エカチェリーナ2世という人物でした。

彼女はもともとロシア人ではなく、ピョートル3世に嫁いだドイツ人でした。
当時、夫である皇帝は、軍事や宗教政策で軍人や聖職者から反感を買ってしまい、支持を得られていませんでした。
それに対してエカチェリーナ2世は、ロシア語を学んでロシア正教に改宗し、ロシア文化に馴染もうと努力していました。
彼女はその努力で宮廷内で巧みに人脈を築いていき、特に軍の精鋭部隊や貴族層からの支持を得ていきました。
宮廷内で支持を得たエカチェリーナ2世は、軍部などからの支持もありクーデターを決行します。
近衛連隊(軍の精鋭部隊)が彼女を支持してクーデターを起こし、ピョートル3世はほぼ無抵抗のまま退位することになりました。

その後まもなく、ピョートル3世がは謎の死を遂げました。これには暗殺説が有力だそうですが、真相は不明だそうです。
こうして、誕生したのが女帝エカチェリーナ2世だったんです。
このエカチェリーナ2世によって、ロシアのツァーリズム(ロシア式絶対王政)は完成されることになります。

ロマノフ朝の全盛期
女帝となったエカチェリーナ2世は、ロシアを「ヨーロッパの大国」へと押し上げるために、領土の拡大を積極的におこなっていきました。
ロシアの悲願のひとつは、海軍を機能させて交易などもおこなえる、温暖な“不凍港”の獲得でした。
そのために立ちはだかったのが、黒海を支配するオスマン帝国でした。
不凍港を獲得するために、エカチェリーナ2世はオスマン帝国と2度に渡って戦争をおこないました。
結果、ロシアはクリミア半島を獲得して、念願の黒海への進出を果たしたんです。

この不凍港を獲得するための動きは、総じて「南下政策」と呼ばれます。
そして、エカチェリーナ2世の野望は南だけにとどまりませんでした。
西では、弱体化していたポーランドに目を向けて、プロイセンとオーストリアと手を組んでポーランド分割を実行します。
これにより、ロシアは領土をヨーロッパ中部にまで伸ばすことになり、オーストリアやプロイセンと直接国境を接するようになりました。

このポーランド分割は、ロシアがヨーロッパ列強の一角として本格的に台頭する契機となりました。


日本との接触
そして、エカチェリーナ2世は東方にも関心を抱き続けていました。
シベリアを越えて東アジアに進出したロシアにとって、太平洋の向こうにある日本は、次なる貿易相手として注目していたんです。

日本は、シベリア産の毛皮や海産物、鉄器、薬品などの需要があったので、ロシアにとっては「売るにも買うにも魅力的な相手」だったみたいです。
そんな中、伊勢の船乗りである大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)が漂流してしまい、ロシアに漂着する出来事が起きます。
エカチェリーナ2世はこれをチャンスだと捉え、彼を丁重にもてなして、日本に送り返すのと同時に、貿易交渉のために軍人ラクスマンを根室に派遣しました。

ラクスマンは江戸の徳川幕府に接触して、長崎への来航許可を得る通行証を受け取りました。

これは、ロシアが日本に対して初めて公式に開国を迫った瞬間でした。

プガチョフの乱
一方で、エカチェリーナ2世期のロシアでは、農奴制と度重なる戦争による重税に対して、農民たちの不満が溜まっていました。
そしてその不満が爆発して起こったのが、プガチョフの農民反乱でした。

プガチョフはコサックだったので、各地のコサックに呼びかけて反乱は大規模なものになっていきました。
この農民反乱は苦戦しながらなんとか鎮圧しましたが、その後、エカチェリーナ2世は貴族に妥協しながら、農奴制をさらに強化していくことになりました。

こうしてピョートル1世やエカチェリーナ2世らによって、ロシアは巨大化していきました。
しかし、ツァーリズムという絶対王政による上からの改革にとどまり、農奴制や貴族特権が残ってしまったことで、民衆レベルでの根本的な変革には至りませんでした。

皇族・貴族と民衆との間に大きな社会階層ができちゃったんです。この溝が後のロシア革命に影響してくるんですが、それはまたしばらく先の授業でみていきましょう。

まとめ
MQ:近世のロシアはどのようにして巨大化していったのか?
A:イヴァン4世によるツァーリズムの確立を契機に中央集権体制を強化し、各方面に領土を拡大した。ピョートル1世やエカチェリーナ2世のもとで西欧化と軍事・産業改革が推進され、内陸国家から海洋進出していく帝国へと変貌し、ヨーロッパの大国へと成長した。

今回はこのような内容でした。

次回は、プロイセンについてです。プロイセンはどのような経緯で強国となっていったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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