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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はナポレオン戦争後のヨーロッパで成立した「ウィーン体制」の成立についてです。この体制によって、ヨーロッパでは約100年もの比較的平和が時代が訪れます。なぜそのような国際秩序を作ることができたんでしょうか?
それでは一緒に見ていきましょう!
MQ:なぜウィーン体制は、約100年の安定をもたらす国際秩序を作り出せたのか?
ウィーン会議の開催
ナポレオンの大陸支配が残した課題
1814年、ヨーロッパはフランス革命からナポレオン戦争にかけて、25年にもわたる激動の時代を終えようとしていました。
ナポレオンの征服戦争を通して、ヨーロッパの勢力図は何度も塗り替えられ、王家は倒れ、憲法が作られ、また壊されるなど、国境線が動き続けていました。
そして、ナポレオンとの戦争が終わった後に出てきた課題が、「その後片づけをどうするか?」でした。
この課題を解決するために、1814年から翌1815年にかけて開かれたのがウィーン会議と呼ばれる国際会議でした。
このウィーン会議には、オスマン帝国を除くほぼ全ヨーロッパ諸国が参加しました。

これは、ナポレオンの支配がいかに広範囲に影響を与えたかを示していますね。

会議の主役:メッテルニヒとタレーラン
メッテルニヒ(オーストリア外相 → のち宰相)
このウィーン会議の議長を務めたのが、オーストリアの外交官メッテルニヒという人物でした。

彼はオーストリア外相時代にナポレオンと当たり合ったことがあるほどの政治手腕を持っている敏腕外交官でした。なので、その功績から、ウィーン会議の議長に満場一致で選ばれたんです。

彼は「革命の再発を防ぎ、ヨーロッパの安定を取り戻す」ことを最優先に考えていました。
そのために、彼がおこなった重要な決断が、敗戦国フランスの外相タレーランを会議に参加させることでした。
通常なら敗戦国は排除されるんですが、メッテルニヒは、現実的に考えてタレーランを会議に加えるべきだと判断して敗戦国フランスの参加を認めたんです。
これによって、フランスは国際政治の場に復帰することができ、会議はよりスムーズにまとめていくことができるようになったんです。

タレーラン(フランス外相)
そのメッテルニヒの計らいによって、会議への参加が認められた敗戦国フランスの代表のタレーランは、驚くべき外交手腕を発揮しました。

タレーランは「ヨーロッパ随一の寝返り上手」 として有名な人物でした。 革命政府にも仕え、ナポレオンにも仕え、王政復古後も外相を続けた人物でした。 彼のモットーは「裏切りではない、状況に合わせただけ」。 外交の世界では、柔軟性こそ力であることを表していますね。

それが「正統主義」と呼ばれる原理を掲げたことでした。
正統主義とは一言で、
フランス革命前の社会に戻すこと。
ということを意味していました。
これは一見すると「絶対王政の復活」を主張しているように見えますが、タレーランの狙いはもっと現実的で、そして戦略的だったんです。

フランスは敗戦国という立場だったので、オーストリア・プロイセン・ロシア・イギリスのような四大国が密室で領土の再分配を協議して、フランス本土が切り取られる危険がありました。
そこでタレーランは、次の二つを強く主張しました。
・会議は「公法(国際法)」の原則に従って行われるべき
・各国の領土は“正統な君主”のものであり、勝手な都合で奪ってはならない
この原理を通すことができれば、フランス本土の分割は「正統な王家の領土を侵す行為」だとして否定することができたんです。
つまり、タレーランが守ろうとした「正統」とは、フランスの旧国境線そのものだったんです。
ウィーン会議では参加国が領土の拡張を狙って駆け引きを繰り返していたので、「会議は踊る、されど進まず。」と皮肉られるほど混乱していました。

この「会議は踊る、されど進まず。」というフレーズは、華やかな舞踏会や社交が連日続きましたが、肝心の議論がなかなか進まなかった様子から皮肉で言われました。
しかし、タレーランが正統主義という“大義名分”を示したことで、議論は次第に「革命前の国境に戻すべきである」という流れになっていきました。
この原則は、領土分割の危機だったフランスにとっては極めて有利なものになりました。
さらに、議長を務めていたメッテルニヒも正統主義に同意したことで、ウィーン会議全体の理念として採用されることになりました。

タレーランは、「正統主義」を使って敗戦国であるはずのフランスを「列強と対等に議論できる立場」へと引き戻すことに成功したんです。

会議の結果(ウィーン議定書)
会議の裏側:列強の利害と“百日天下”の衝撃
先ほども説明したように、ウィーン会議は各国の勢力拡大の目論見が複雑に絡み合っていたことで、半年以上も続いてしまいました。

先ほどの「会議は踊る、されど進まず」ですね。

この「会議は踊る、されど進まず。」というフレーズは、華やかな舞踏会や社交が連日続きましたが、肝心の議論がなかなか進まなかった様子から皮肉で言われました。
さらに、議論が進まない中でナポレオンがエルバ島を脱出して復活(百日天下)するという事件も起きました。
会議参加者は「また戦争か!」と大混乱に陥ってしまいます。
しかしこのナポレオン復活の事件は、ヨーロッパ諸国に「革命とナポレオンの再来は絶対に防がないといけない」という共通認識を与えることになり、ウィーン会議の最終的な合意を後押しすることにもなりました。

ウィーン議定書
ナポレオン戦争も終わり、9か月間に及んで開かれたウィーン会議はようやく協議がまとめられて、ウィーン議定書が成立しました。

内容は以下の通りです。
・ポーランド王国の王位をロシア皇帝が兼任
・支配領域を西へ拡大
・スウェーデンから フィンランド を獲得
・ザクセンの一部を獲得
・ライン川左岸地域を獲得
・東西に領土拡大
・南ネーデルラント(ベルギー)はオランダへ譲渡
・代わりに ロンバルディア・ヴェネツィア を併合
・イタリア北部支配を強化
・南ネーデルラント(ベルギー)を獲得し、立憲王国として再編
・永世中立国 として承認
・神聖ローマ帝国は復活せず
・39の諸邦からなるドイツ連邦が成立(もとライン同盟)
・オーストリアとプロイセンが中心的地位を占める
・セイロン島(旧オランダ領)
・ケープ植民地(旧オランダ領)
・マルタ島(旧フランス領)
→ 海上帝国の基盤を確立し、パクス=ブリタニカ の時代へ

ウィーン体制の成立
正統主義と勢力均衡
このウィーン会議によって新たに成立したのがウィーン体制と呼ばれる国際秩序でした。
このウィーン体制の理念には主に以下の2つがありました。
・正統主義
・勢力均衡
正統主義
この正統主義は、上記で説明があったように、フランス代表のタレーランが自国の領土を守るために提唱した原理でした。
・革命前の正統な王家(ブルボン家)の復活
・社会を旧体制(アンシャン=レジーム)に戻す
・ローマ教皇領の復活
簡単に言うと、「革命前の社会に戻そう」ということです。
勢力均衡(バランス・オブ・パワー)
そして、もう一つ提唱されたのが、「勢力均衡(バランス=オブ=パワー)」という原理でした。
これは、
・どこか1国が突出して覇権を握らないようにする
・ナポレオンのような“単独覇権”の再来を防ぐ
・列強が協調して国際秩序を維持する
列強・・・オーストリア・プロイセン・ロシア・イギリス・フランスの五大国
という原理に従って、ナポレオン帝国のような覇権国家の台頭を防いで、「今の状態を維持しましょう」という目的がありました。

そのためにヨーロッパ諸国の勢力をなるべく均等にして、どこかが突出しないようにウィーン議定書が作成されたんですね。

しかし、その後のヨーロッパでは列強を中心に、この2つの理念のうち「勢力均衡」が重視されていくようになっていきます。
SQ:なぜ列強は「正統主義」よりも「勢力均衡」を重視したのか?

ではなぜ「勢力均衡」の方を重視したんでしょうか?
理由は、革命後の社会があまりに変わりすぎていたからなんです。
領土も制度も社会も、フランス革命やナポレオンの征服戦争を通して、フランス革命(1789)が起きる前に完全に戻すことはもはや不可能になっていました。
そのため、列強は「安定」と「自国の利益」を優先するようになり、正統主義はあくまで“理想の理念”として扱われるのにとどまることになったんです。

この「勢力均衡」の考え方は第一次世界大戦(1914)まで続くことになりました。
革命とナポレオン戦争によって社会も領土も変わりすぎ、革命前の秩序に完全には戻せなかったため、現実的に“安定”と“自国利益”を守る仕組みとして勢力均衡の方が有効だったから

ウィーン体制を支えた二つの同盟
神聖同盟
このウィーン体制という新しい体制になったヨーロッパでは、勢力均衡に基づいて新たな同盟関係も構築していきました。
ロシア皇帝アレクサンドル1世によって提唱されたのが神聖同盟と呼ばれるものでした。
この神聖同盟は「キリスト教」の考え方に基づいて、
・皇帝は神に選ばれた存在である
・ナポレオンは悪魔であり、ヨーロッパは神の秩序を回復すべきである
という宗教的価値観から作られた同盟でした。

アレクサンドル1世は「神聖同盟」を本気で“宗教的理想”として考えていましたが、他の君主たちは「まあ、皇帝の顔を立てておこう」くらいの温度感だったみたいですよ。 外交史ではよくある“建前と本音”の典型例ですね。
神聖同盟はその後、ヨーロッパの君主国が次々と加盟していき、ほぼ全ての君主が名目上は参加する巨大な同盟となっていきました。

ただし、議会政治が中心のイギリスやイスラム教を信仰するオスマン帝国などは不参加でした。
ヨーロッパ各地で自由主義や民族主義など、自由を求める運動が盛んになると、神聖同盟はこれらを弾圧して、ウィーン体制を支える国際組織として機能していくことになっていきました。

四国同盟(のち五国同盟)
そして、もうひとつウィーン体制の維持に貢献したのが四国同盟(のち五国同盟)と呼ばれるものでした。
これはヨーロッパの秩序(平和)の維持を目的としてイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンが手を組んだ同盟でした。
ナポレオン戦争終結後、再び革命や戦争が起こることを恐れていたヨーロッパ諸国は、ウィーン体制を維持するために、戦勝国の4か国で協力して監視・調整する組織を結成することにしました。
それによって、イギリスから提唱されて結成されたのが四国同盟でした。
四国同盟は主に「ウィーン体制の維持」と、「フランスを抑え込む」ことが目的でしたが、フランスで復古王政が起こり、賠償金も払い終わった段階でフランスも四国同盟に加わることになり、五国同盟として再出発することになりました。
・ウィーン体制の秩序維持を5カ国で協力して行う。
・毎年定期的に会議を開き、ヨーロッパの安定を協議。
・革命運動の鎮圧や秩序維持
このように列強5か国でヨーロッパの秩序維持を目的とした共同体制を列強体制といいます。

ウィーン体制の歴史的意義
このような列強体制によって、ウィーン体制は19世紀半ばの一時期を除いて、20世紀はじめまで続く国際秩序になりました。
その結果、
・ヨーロッパで大規模戦争がほぼ起こらず、約100年の比較的平和な時代に
・産業革命が進展
・市民社会が発展
・19世紀以降、列強がアジア・アフリカへ進出(帝国主義的支配)
という流れが生まれていきました。
つまり、ウィーン体制は「ヨーロッパの内部が安定」したことで、「ヨーロッパ外への拡大」を生み出した国際秩序になったんです。
列強体制によるヨーロッパ内部の安定 → ヨーロッパ外部へ膨張(帝国主義)

まとめ
MQ:なぜウィーン体制は、約100年の安定をもたらす国際秩序を作り出せたのか?
A:列強が「正統主義」と「勢力均衡」という共通原理のもとで協調し、五国同盟などの国際協力体制を築いてヨーロッパ内部の秩序維持を最優先にしたため。

今回はこのような内容でした。

次回は、ウィーン体制の動揺についてです。ウィーン体制の動揺はどのような要因で起こったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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