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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は名誉革命についてです。名誉革命を通じて、イギリスの政治体制は現代の民主主義にどのような影響を与えたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:名誉革命を通じて、イギリスの政治体制は現代の民主主義にどのような影響を与えたのか?
王政復古後の統治と政党の誕生
チャールズ2世のカトリック化
ピューリタン革命の後に、イギリスでは共和政が樹立されましたが、上手くいかずに、結局王政を復活させる王政復古が起きました。
そして国王として迎え入れられたチャールズ2世は、

議会を尊重して、絶対王政は復活させないと約束します!
ということを条件に王位に就きます。
しかし、このチャールズ2世は表向きでは議会と協調する姿勢を見せますが、裏では専制的な姿勢を見せるようになっていき、議会と対立するようになっていくんです。
ことの発端は、第2次イギリス=オランダ(英蘭)戦争でした。
この戦争でイギリスは苦戦を強いられながらも、なんとか乗り切って、オランダへのリベンジを模索していました。
そこで、チャールズ2世が頼ったのが、陸の大国フランスでした。
当時、フランスはルイ14世が統治していて、厳格なカトリック信仰をおこなっている国家でした。
チャールズ2世はルイ14世と密かに、フランスから資金援助などを受ける代わりに、イギリスでカトリック信仰を進めることを密約するなどの親密な関係を築いていったんです。

チャールズ2世は、イギリス国教会の首長でありながら、密かにカトリック教徒になっていたそうですよ。
この密約によって起きたのが、第3次イギリス=オランダ戦争でしたね。

こうしてカトリック信仰を復活させようとしたチャールズ2世は、カトリック信仰を公認するような宣言を出します。
このカトリックを擁護する国王の政策に対して、議会は反発して国教会を守るための政策を打ち出していきます。
それが以下の2つです。
・審査法・・・公職(官僚)に付けるのはプロテスタントである国教会信徒のみ。
・人身保護法・・・国王による不当な逮捕や投獄を禁止。人民の身柄を保障。
これらの法律によって、議会は国教会の立場を強化しようとして、反発を受けたチャールズ2世はカトリック化を断念することになりました。

トーリ党、ホイッグ党の成立
カトリック化を進めたチャールズ2世には跡継ぎがいなかったので、王位継承権はその弟のジェームズ2世が持っていました。

しかし、このジェームズ2世も熱心なカトリック教徒だったんです。

幼少期を亡命先のフランスで暮らしていたので、その影響を受けていました。
なので、議会では「カトリック教徒である者を国王にしていいのか。」という問題について意見が割れて、対立が起こるようになります。
この対立の中で成立したのが、トーリ党とホイッグ党と呼ばれる政治派閥でした。

トーリ党・・・ジェームズ2世の王位継承を合法と認めた議員たちで構成。王権などの伝統を重視、国教会を強く支持。
ホイッグ党・・・ジェームズ2世の王位継承を認めない議員たちで構成。王権の制限、人権の保護を重視。
この2つの派閥は自分たちの政策目標を達成するために、議会の中だけでなく、外でも宣伝活動をするようになっていきました。
この2つの派閥は後に政党として、政権を取り合う政党政治の中心になっていくことになります。

まさにイギリス政党政治の起源ですね。
ただし注意が必要なのは、この段階ではまだジェントリによる個人的な派閥に過ぎなかったことです。特定の政党が選挙で政権を取って内閣を組織するのはもっと後のことなんです。

名誉革命
議会ではトーリ党やホイッグ党との対立が起きましたが、王室の血統を重視したことと、前王チャールズ2世の強い支持などもあって、結局ジェームズ2世が国王の座を継ぐことになりました。

民衆の間では、ジェームズ2世に対して不安もありましたが、「まあ、年も取ってるし、息子もいないし、短期間の在位なら…」という消極的な容認もあったみたいです。国王に就いた時はすでに51歳でしたからね。当時のイギリスの平均年齢が35~40歳(※乳児死亡率が高かった)だったので、当時としてはかなりご高齢だったみたいです。
しかし、カトリック教徒だったジェームズ2世は、当然、国教会を支持する議会と馬が合うわけがありません。
ジェームズ2世が国王の座に就くと、カトリック寄りの政策を次々と打ち出しいくことになります。
たとえば、かつてカトリックを排除するために制定した審査法を無効化してしまい、カトリック教徒を公職に任命し始めます。
加えて、カトリック教徒に対して信仰の自由を認める宣言を出して、イギリスのカトリック化を進めようとしました。

この宣言に反対した国教会の聖職者を逮捕するなど、ジェームズ2世は厳しい態度を取りました。

しかも、ジェームズ2世はフランスで亡命生活を送っていた過去から、カトリックのフランス王ルイ14世とも親密な関係を築いていて、国民の間でも疑惑がうわさされていました。
こうしたカトリック化政策とフランス王との関係疑惑は議会との対立を激化していき、国民の間でも、

このままではイギリスはカトリック教国になって、プロテスタントを弾圧するあのフランスのいいなりになってしまうのでは!?
というカトリック化への不安とフランスへの従属の危機感が広がっていき、ジェームズ2世は急速に国民の支持を失っていくことになりました。
とはいえ、当時の議会もすぐに武力で王を排除しようとは考えていなかったんです。
というのも、ジェームズには男子の後継ぎがいなかったので、

いずれ今の国王が亡くなれば、プロテスタントである娘のメアリ(オランダのオラニエ公ウィレム3世の妻)に王位を継がせればいいでしょう。
という穏健な妥協案が議会内で支持されていたからなんです。

ところが、このタイミングでジェームズ2世に後継者である男子が誕生したことで、状況が一変してしまいます。
後継者が産まれたことで、議会の計画が崩れてしまい、今後もカトリック化が続いていく可能性が出てきたんです。
なので、議会の危機感が一気に高まっていき、トーリ党とホイッグ党という本来対立する二大政党が、ここで異例の協力をすることになったんです。

トーリ党は王権擁護派ですが、国教会を強く支持していたので、カトリック化だけは許せなかったみたいです。
議会はオランダにいるメアリとその夫ウィレム3世(英語読みでウィリアム3世)をイギリスに招くという強硬策に踏み切ります。
スライド(政党協力)
オランダを統治するウィレム3世も、かつてイギリス=オランダ(英蘭)戦争でイギリスと激しく争った国でしたが、当時はフランスのルイ14世と戦っていたので、プロテスタントのイギリスと提携することに前向きでした。
こうして、議会から誘いを受けたウィレム3世は、メアリと共に大軍を率いてイギリス本土に上陸します。
ジェームズ2世はこの危機に対して、ルイ14世の支援を断って、自力で抗戦しようとします。

ここでルイ14世の支援を受けると、国民にフランスと繋がっていた疑惑が公に知られて暴動が起こりかねなかったので、断ざるを得なかったんです。
しかし、王の軍は内部で分裂してしまい、各地で国王に対する反乱が次々と起きてしまいます。
もうジェームズ2世はコントールがまったく効かなくなってしまったので、家族とともにフランスへ亡命することにしました。
こうして、新たにメアリとウィリアム3世は夫婦で国王に即位することになり、ほとんど戦闘(流血)が起きずに、国王が交代するという、前代未聞の名誉革命が実現したんです。

この一連の出来事によって、後に「“名誉”革命」と呼ばれるようになったんですね。

立憲君主政の開始
革命を成功させた翌年、寛容法が制定されて、プロテスタントの信教の自由が保障されます。
そして、議会が同じ過ちを繰り返さないために、国王夫妻に同意させたのが権利の章典と呼ばれるものでした。

[11-4.3]ピューリタン革命で出てきた「権利の請願」と間違わないように注意しましょう。

SQ:権利の章典では議会がどんな権利を求めたのかまとめてみよう!

では、この権利の章典では議会はどんな権利を国王に求めたんでしょうか?
下の抜粋を見ながら考えてみましょう。
1.国王が勝手に法律を止めたり、無視したりしてはいけない。
2.法律を守らない王の行為は、すべて違法とされる。
3.宗教に関する特別な裁判所(宗務裁判所)は、違法であり害をもたらす。
4.議会の同意なしに税金を取ることは、王の権限ではない。
5.国民が王に意見や要望を伝えるのは当然の権利であり、それを理由に罰してはならない。
6.平和な時に、議会の許可なく常備軍をつくったり維持したりしてはならない。
7.国教会の国民は、法律の範囲内で自分の身を守るために武器を持つことができる。
8.議会の選挙は自由に行われなければならない。
9.議会での発言や議論は、議会の外で責められてはならない。
10.不当に高い保釈金や罰金、残酷で異常な刑罰は禁止される。
11.陪審員は正しい手続きで選ばれなければならない。
12.有罪が確定する前に、罰金や財産没収を約束したり与えたりするのは無効である。
13.法律を守り、国民の不満を解決するために、議会は定期的に開かれなければならない。
参考文献:高木八束・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』岩波文庫
以上の内容をまとめるとこんな感じですかね。
国王の権力を制限し、法律の尊重、課税や軍の管理、信教の自由、言論の自由、公正な裁判、そして議会の自由な選挙と定期開催など、国民の権利と議会の権限を保障することを求めた。
このように立法権や徴税権、軍事権を議会が持つことを明文化したことで、王の権力は大きく制限されることになりました。
とはいえ、権利の章典によって王権が完全になくなったわけではなく、政府の執行権や大臣の任免権といった形式的な権限は国王に残されることになりました。
こうして、イギリスでは名誉革命を経て、議会が政治の中心になっていき、「王は君臨すれども統治せず」という立憲君主政が始まることになったんです。

ただし、この時点では選挙権はある程度の財産を持つ男性だけだったので、全国民のほんの一部だけでした。議員もジェントリや貴族などの地主が多くを占めていたので、完全な民主政とは呼べないですね。
でも近世で、国王と議会で政治権力を2つに分けていたのは、他に例がなく、当時のヨーロッパでは例外的な存在だったんですよ。

グレートブリテン王国とハノーヴァー朝の成立
グレートブリテン王国の成立
イギリスではステュアート朝が始まって以降、イングランド王国とスコットランド王国で同じ国王が統治する「同君連合」という形で成立していました。

ちなみにアイルランド王国も同じく同君連合を組んでいました。
政治や経済の力ではイングランド王国が優位でしたが、両国ともプロテスタントを信仰していたため、ある程度の共通点がありました。
ただし、イングランド王国は国王を頂点とするイギリス国教会、スコットランドはカルヴァン派の信徒が多く、宗教のスタイルに違いがあったので、国家として完全に1つにするには難しい状況だったんです。
しかし、18世紀初めにウィリアム3世が亡くなってオランダとの同君連合が解消されると、ステュアート朝のアン女王の時代に、正式に「1つの国家」として合併することが議会で決定されます。


アン女王は前国王のメアリの姉にあたる人でした。

イングランドはスコットランドが敵国と同盟を結ぶことを恐れたのと、スコットランドは海外進出が失敗して財政破綻しそうだったので、イングランドと合併することで経済的な恩恵を受けようとしたんです。
これによって、イングランド王国とスコットランド王国は共通の議会と国王を持つグレートブリテン王国として、一つにまとめられることになったんです


以降もややこしいので、グレートブリテン王国も「イギリス」と表記させてもらいますね、
ハノーヴァー朝の成立
その後、アン女王にも跡継ぎがいなかったことから、議会は新たに他国から国王を迎えることになります。
議会は名誉革命の反省から、カトリック教徒をさけるために、ジェームズ1世の孫にあたるソフィが嫁いでいた、ドイツのハノーヴァー選帝侯のジョージ1世を国王として迎えることにしました。


ジョージ1世はソフィの息子で、ドイツ語ではハノーファー選帝侯ゲオルクと言いました。
こうして、イギリスではステュアート朝は終わりを告げて、新たにハノーヴァー朝が成立することになりました。

このハノーヴァー朝が、現在のイギリス王室のウィンザー朝の直接の祖先となっています。

議院内閣制の確立
議院内閣制(責任内閣制)とは?
そして、このハノーヴァー朝のジョージ1世の代に始まったとされるのが、議院内閣制(責任内閣制)でした。
議院内閣制とは、簡単に言えば「議会で多数を占めた政党が、内閣をつくって政治を動かす仕組み。」のことを指します。

もう少しわかりやすく言うと、国民が選んだ議員の中から、リーダー(首相)を選び、その人が内閣をつくって国を運営するというスタイルです。
例えば、現代のイギリスでは、国民が選挙で下院の議員を選び、その中で一番多くの議席を取った政党のリーダーが首相になります。
そして、その首相が仲間を集めて内閣をつくり、法律を作ったり、国の方針を決めたりしています。
この議院内閣制(責任内閣制)で重要なポイントは、「内閣は議会の信頼(信任)を得ていないといけない」ということです。
もし議会が「この内閣はダメだ。」と判断すれば、内閣は解散しなければいけず、議会と内閣が強くつながっていて、国民の声が政治に反映されやすい仕組みになっているんです。


では、イギリスでこの議院内閣制が成立していく過程をみていきましょう。
ウォルポールと議院内閣制の確立
ハノーヴァー朝のジョージ1世の代に、政治家として議院内閣制(責任内閣制)の確立に貢献したのが、ウォルポールという人物でした。

ウォルポールはホイッグ党に所属していた議員で、経済危機が起きた際に立て直すのに成功した実績から、国王に評価されて政治の要職に就いた人物でした。

「第一大蔵卿」と言って、今の日本でいうと「財務大臣」にあたる役職でした。
その後もウォルポールは政治の実権を握っていき、事実上の政府のリーダーとして議会の中心を担うようになっていきます。
当時の国王ジョージ1世は英語が話せなかったことから、政治に深く関わっていませんでした。
なので、ウォルポールが自然と「閣僚の第一人者」=「プライム=ミニスター(首相)」と呼ばれるようになっていき、現在の「首相(内閣総理大臣)」の起源となったんです。

「首相」が正式な役職として認められるのはその後の1907年ですが、その原型はウォルポールの時にできたんですね。

しかし、20年間も政府を率いていたウォルポールの政権も永遠ではありませんでした。
オーストリア継承戦争への対応に批判が集まってしまい、その後の選挙で与党だったホイッグ党が敗北してしまいます。
そして議会の下院で多数派を失ってしまうと、ウォルポールは潔く内閣を辞任してしまったんです。
これは、国王の意向ではなく、議会の信任(信頼)を失ったから辞任したものでした。
これが前例となって、それ以降も選挙で敗北して議会の多数派になれないと内閣を辞職するという、政権交代のルールができていくことになりました。
これらによって、ウォルポールの内閣辞職は、イギリス史上初の「議会の多数派が内閣を支える」という議院内閣制(責任内閣制)の原則が実践された瞬間だったんです。
この出来事は、後の議院内閣制(責任内閣制)の出発点とされ、内閣は国王ではなく、国民の代表である議会に対して責任を負うという政治ルールが出来上がっていくことになりました。

ウォルポールの辞任は、王権から議会主導の政治への大きな転換点だったんですね。

まとめ
MQ:名誉革命を通じて、イギリスの政治体制は現代の民主主義にどのような影響を与えたのか?
A:名誉革命によって国王の権力が制限され、議会中心の立憲君主政が確立された。これにより国民の権利が保障され、政党や議院内閣制が発展し、現代の民主主義の基礎が築かれた。

今回はこのような内容でした。

次回は、フランスの絶対王政についてみていきます。陸の大陸フランスの強みと課題とは何だったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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