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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はウィーン体制の動揺の2回目として「七月革命」についてみていきます。まとめとしてウィーン体制を動揺させた政治・経済・社会的要因とはいったい何だったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:七月革命がウィーン体制に与えた影響とは?
復古王政フランス
ルイ18世の苦悩
ナポレオン戦争が終了してナポレオンが失脚した後に、フランスではブルボン朝が復活して、ルイ18世が王位に就きましたよね。
これを復古王政と言いました。
しかし、復古王政と言っても、実はフランス革命前の絶対王政に戻ったわけではなかったんです。
ルイ18世は、旧体制(アンシャン=レジーム)を復活させようとしましたが、フランス革命やナポレオンによって確立された「近代市民社会の原理(法の下の平等・所有権の保障など)」との矛盾にぶつかってしまいます。
フランス革命とナポレオン時代を経験したフランスの人々は、いまさら「身分制の復活」も「絶対王政の再建」も受け入れられる状態じゃなかったんです。

現代の日本でいうと、戦前の「明治憲法(大日本帝国憲法)に戻す!」と言われるようなもんですからね。
なので、ルイ18世は立憲君主政を維持することにして、市民から理解を得て、特権身分の貴族たちの期待にも応えようとする、とても難しい政治をするはめになってしまいました。

シャルル10世の「反動化」
SQ:なぜシャルル10世は、時代に逆行するような政策をとったのか?
そして、ルイ18世の後を継いだのが、弟のシャルル10世という人物でした。

シャルル10世はフランス革命が起きてすぐに亡命して、亡命貴族たちの中心となって反革命運動おこなっていた人物でした。
なので、シャルル10世が国王になると、兄ルイ18世の立憲君主政から大きく転換して、旧体制の復活を目指す反動政治が進められることになります。
要は、完全なる「絶対王政」の復活を目指したんです。

亡命して、地位を奪われた革命をずっと憎んでいましたからね。「革命の否定」を使命だと感じていたんです。
亡命貴族として革命期を生きた経験から、「革命の否定」こそ自らの政治的使命だと確信していたため。

①旧貴族の権威回復
・革命で没収された貴族の財産を国が補償。
・旧貴族を政権の中枢に登用し、社会的地位の回復を推進。
②カトリック教会の特権強化
・聖職者を政権の支持基盤として、宗教教育の強化や教会権威の回復を推進。
③参政権の制限・自由主義の抑圧
・出版の自由を制限し、反政府的な言論を弾圧。
・制限選挙を強化し、議会を王党派に有利に操作しようとした。
このような、市民の権利を制限をする反革命的な政策をしたことで、国民からは不満の声が出てきます。

これまでの犠牲で勝ち取った権利が奪われるわけですから、そりゃ不満ですよね。
そして議会からも内閣不信任案が出されて、国王は議会を解散させたことで、選挙がおこなわれることになりました。

ここではさすがに立憲君主政をちゃんと守ってたんですね。

七月革命の勃発と七月王政
アルジェリア遠征と七月勅令
シャルル10世は、選挙を優位に進めて国内の不満をそらすために、北アフリカにアルジェリア遠征をおこないます。

アルジェリアは当時、オスマン帝国の領土でした。
これは典型的な「対外戦争による人気取り」でしたが、期待したほどの支持は得られず、反動政治をする国王に対しての批判は止まりませんでした。
そして、選挙でも自由主義派が多数を占めて、国王の反動政治に対する国民の不満が明確に出る結果になります。
これに対して、国王シャルル10世は逆ギレしてしまい、
・議会の解散を強行
・参政権のさらなる制限
・新聞の検閲強化
などを定めた七月勅令を出して、立憲君主政を完全に無視してしまいます。
これによって国民の怒りは頂点に達することになり、七月革命が起こることになりました。

七月革命の勃発
このように、シャルル10世への不満を爆発させたパリ市民とブルジョワジーは暴動を起こします。
こうして始まったのが七月革命でした。
三日間に渡って激しい市街戦がおこなわれ、一度は鎮圧されたものの、軍が撤退すると市民は再び街路にバリケードを築いて激しく抵抗しました。
そして政府軍の一部が市民側に寝返ったことで戦局が一気に市民側へ傾いていき、最終的に追い込まれたシャルル10世は退位することになり、国外に亡命してしまいました。
こうして再びブルボン王朝は崩れることになり、七月革命は市民の勝利に終わることになりました。

後にこの出来事は「栄光の三日間」 と呼ばれて、フランス復古王政を終わらせる決定的な転換点となりました。

七月王政の成立
そしてシャルル10世が亡命した後、ブルボン家から枝分かれしたオルレアン家のルイ=フィリップという人物が国王として推薦されます。


共和政だとロベスピエールの恐怖政治が起こることを恐れて、無難に君主政を残すことにしたそうですよ。
新しく王位に就いたルイ=フィリップは、市民中心の政治(人民主権)など、共和的な政策を約束して、七月王政が開始されることになりました。

王位に就くときも「フランス国王」ではなく、あえて「フランス人の王」と名乗ったそうですよ。これは国民との契約に基づた王権であることをアピールしたかったみたいです。
このようにルイ=フィリップの統治は、市民が中心の立憲君主政を掲げました。
しかし、その中身は上層ブルジョワの利益を最優先にした政治だったんです。

これは、銀行家や大商人などのブルジョワが、共和政になると財産が没収をされるかもしれないという恐怖から、自分たちの利益を守ってくれる“安全な王”としてルイ=フィリップを選んでいたことが原因の一つでした。

つまり、ルイ=フィリップは最初からブルジョワの“推薦王”であり、
彼らの支持を失えば政権が成り立たなかったんです。
こうした理由から、彼は銀行家や大商人などのブルジョワ層に支えられていたことから、ブルジョワを優遇する政治をおこなって、「市民王」「ブルジョワ王」と呼ばれるようになりました。
なので、あくまで「ブルジョワのための政治」だったので、産業革命は進んでいきましたが、数が増えていった労働者などの不満が解消されることはありませんでした。

労働者階級の参政権や、労働者の権利などへの対応は後回しにされていったので、この矛盾が後の1848年革命へとつながっていくことになります。

七月革命の影響
フランスでの七月革命の成功は、ヨーロッパ各地に自由主義とナショナリズム運動に火をつけることになりました。
ベルギー独立
ベルギーはウィーン会議の時に、北のオランダと合併されてオランダの一部になっていました。
しかし、このオランダとの合併はベルギー側にとっては不利な内容でした。
・宗教の違い:オランダはプロテスタント、ベルギーはカトリック
・言語の違い:オランダ語の強制
・経済の違い:工業化が進むベルギーに対し、農業中心のオランダが保護貿易を強制
・教育・行政の統制:オランダ政府が中央集権的に管理
こうした内容からベルギー側は不満を募らせるようになり、ベルギーは「オランダからの自治・独立」するという気運が高まっていくことになります。

そのような状況で起こったのが、フランスでの七月革命でした。
この七月革命が成功したことで、ベルギーでのナショナリズム運動(独立運動)が一気に爆発することになります。

「フランスがきたなら俺たち(ベルギー人)でもできるぞ!」となったわけですね。
自治を要求するベルギー人に対してオランダは軍を派遣して、市街戦がおこなわれました。
しかし、ベルギー側も独立宣言をして、抵抗を続けました。
勝敗が付かない状態が続いたので、最終的にはロンドンで開かれた列強諸国の会議で協議されることになり、影響力を拡大したい各国の思惑によって、ベルギーは独立を承認されることになりました。
こうして、ベルギーはドイツから君主を迎え入れて、ベルギー王国として成立することになりました。

ちなみに、列強会議の中で、各国の勢力拡大を警戒したイギリスがベルギーの「永世中立国案」を提案したことで、ベルギーは“列強の緩衝地帯”としての役割を担うことになりました。

ドイツ関税同盟
ナポレオン戦争の衝撃を受けたドイツでは、各領邦で農奴解放や立憲政治の導入などの改革が進んでいました。

こうした改革の中心にいたのがプロイセンで、後のドイツ統一をリードする国力をここで蓄えていきました。
しかし、ウィーン会議を経て成立したドイツ連邦は、35もの領邦(主権国家)からなる「ゆるやかな連合体」だったので、連合国と言っても政治や経済は完全にバラバラでした。
各領邦は境界ごとに税関を設けて、通過する商品に関税を課していたので、
・国内市場の細分化
・物流コストが高く、商工業の発展を阻害
・産業革命を達成したイギリス製品に圧倒される
という深刻な問題を抱えることになりました。
なのでドイツでの輸出品は依然として小麦などの農産物が中心で、工業化はイギリスに圧倒されて大きく遅れてしまう状況でした。

そのような状況に対して、

アダム=スミス流の自由経済ではドイツ産業は育たない!
国内産業を発展させるためには国内関税をやめて、海外からの製品に高い関税をかけるべきだ!
という保護貿易の主張が出たことによって、プロイセンがこれを取り入れて、経済的な統一をするための政策が進められていくことになりました。
そして、プロイセンを中心として18カ国の領邦が加盟して結成されたのが、ドイツ関税同盟と呼ばれる組織でした。
このドイツ関税同盟の特徴は、
・加盟国相互の関税を廃止
・同盟外の諸国には共通関税を課す
・経済政策の統一によりドイツ市場を一体化
といったふうに、ドイツは国内の関税を撤廃したことで、経済的には統一されることになりました。
ドイツ関税同盟はその後も加盟国を増やしていき、オーストリアを除くほぼ全領邦が参加する巨大経済圏に成長していきました。

この経済的統一が、たがて「ドイツ統一」の足掛かりになっていくんです。

イタリア、ポーランドの蜂起失敗
七月革命の影響で、イタリアやポーランドでも蜂起が起こります。
しかし、イタリアはオーストリアの干渉によって失敗し、ポーランドもロシア皇帝に対する蜂起が軍によって鎮圧されてしまいました。

このように、西欧に比べて東欧の勢力圏では、ウィーン体制を維持しようとする力が強かったんです。
ウィーン体制の後退
西欧と中欧・東欧の温度差
フランスでの七月革命は、結果としてウィーン体制の「正統主義」や「革命抑圧の協調」を西ヨーロッパで崩壊させることになりました。
●西欧
・フランス:七月王政
・ベルギー:独立
・ドイツ:立憲化の進展、関税同盟の結成
・経済の近代化(鉄道建設・工業化)が加速
●中欧・東欧
・オーストリア:反動政治を維持
・ロシア:専制体制を維持
以上のことから、西欧ではメッテルニヒの抑圧的な保守主義に協力しなくなっていき、ウィーン体制は「ヨーロッパ全体の国際秩序」から「中欧・東欧中心の秩序」へと後退していくことになっていったんです。

まとめ
MQ:七月革命がウィーン体制に与えた影響とは?
A:フランスで復古王政が倒れ、自由主義的な七月王政が成立したことで、自由主義・ナショナリズム運動がヨーロッパ各地へ波及した。その結果、西欧諸国はウィーン体制の原則から離脱し、体制は中欧・東欧へと後退していった。

今回はこのような内容でした。

次回は、イギリスの自由主義改革についてです。ナポレオン戦争後のイギリスの変化は、他とどのような違いがあったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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