この記事で使用したPowerPointスライドは「note(グシャケン|note)」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドやWordプリントのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は1848年革命の1回目としてフランスの第二共和政と第二帝政についてです。なぜ「共和政のための革命」が、最終的に「皇帝の復活」へとつながったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ「共和政のための革命」が、最終的に「皇帝の復活」へとつながったのか?
なぜ1848年は「革命の年」になったのか?
19世紀前半のヨーロッパは、産業革命によって機械工業化がようやく本格的に始まった時期でした。
しかし、工場が増えたとはいえ、旧制度(封建制)から解放されたばかりの農民や都市の民衆を十分に雇用できるほどの環境は整備されていなかったんです。
さらに、18世紀末から人口が増加し続けていたことで、都市の貧困層が急増する「大衆貧困」が深刻化していました。
この社会不安が蓄積していったことで、1848年にヨーロッパ各地で革命が連鎖的に発生する1848年革命が起きたんです。
その火蓋を切ったのが、フランスの二月革命と呼ばれるものでした。

七月王政の光と影
七月革命で成立した七月王政(王:ルイ=フィリップ)は、産業革命の進展に支えられて、政治が安定して経済成長を実現させることができました。

たとえば、一定規模以上の市町村に男子小学校の設置を義務化(初等教育法)したり、国家が鉄道建設の費用や制度を支援したりなどの事業がおこなわれたりしました。
しかし、政治に参加するには依然として制限選挙が採用されていたので、 選挙権を持てるのは「納税をたくさんしている人(多額納税者)」に限られていました。
なので、銀行家や大商人など、ごく一部の富裕層が政治を独占しているという状況だったんです。

ルイ=フィリップは「ブルジョワ王」と呼ばれていましたよね。

SQ:なぜ七月王政は、教育や鉄道を整備しながら選挙制度だけは改革しなかったのか?

では、なぜ選挙制度は手つかずのままだったんでしょうか?
その背景には、政権を支える富裕ブルジョワジーの利益を守るために、政治参加の拡大を恐れたという事情があったんです。
先ほども説明した通り、七月王政の議会は制限選挙によって一部の上層ブルジョワジー(資本家など)が議席を独占していました。
なので、彼らは自分たちの利益を守ることを政策の最優先にしていたんです。
鉄道や教育の整備は、産業利益に直結するので、ブルジョワ層にとっても歓迎すべき政策でした。
しかし、選挙制度の改革だけは、彼らの政治的な独占を脅かす“危険な領域”だったんです。
政権を支える富裕ブルジョワジーが自らの政治的独占を失うことを恐れたため。

こうした、「ブルジョワ政治」に対して、参政権を持たない小ブルジョワジー(中小商工業者・職人・知識層)や都市の民衆は強い不満を抱くようになります。
彼らは教育を受けて、経済活動にも積極的に参加していたにもかかわらず、政治の場からは排除されたままでした。
なので、社会の近代化が進むほど、

なぜ自分たちは政治に参加できないのか!?
という疑問と怒りが膨らんでいきました。
その結果、1840年代には選挙制度改革を求める運動が全国に広がっていき、七月王政は「富裕層だけを優遇している」と見なされるようになっていきました。
こうして、七月王政は多くの国民から支持を失っていくことになりました。

この人々が感じていた行き詰まりや不満が積み重なって、それが1848年革命を引き起こす原動力になっていったんです。

二月革命
1845年以降の不作と不況
1845年からヨーロッパでは農作物の不作が続いてしまい、農民の生活を直撃しました。
農民は衣料品などの工業製品の購入を控えるようになり、今度は都市の工業が不況に陥ります。
こうして、フランス経済全体が不況に陥ることになり、民衆の不安が一気に高まっていくことになりました。
このような状況で、政府は選挙制度改革を求める集会を禁止するなどの強硬姿勢を強めていました。
この「不況」と「選挙運動の抑圧」が重なったことで、1848年2月のパリでの武装蜂起へとつながっていくことになります。

二月革命と七月王政の崩壊
1848年2月、政府が選挙制度改革の集会を禁止すると、それをきっかけに不満を持った労働者・学生が続々とパリ中心部に集結します。
パリの街路には次々とバリケードが築かれていき、街全体が革命の気配に包まれていきました。
しかし、赤旗を掲げて行進していたデモ隊に対して、国王軍が突然一斉射撃をおこない、約50名が死亡する事件が起きます。

このデモ隊との衝突やバリケードのシーンは、映画『レ・ミゼラブル』でも観ることができます。

あとちなみに赤旗は“労働者”を象徴するもので、後の共産主義のシンボルカラーにもなっています。
このデモ隊の事件で、パリ市民の怒りは絶頂に達して、民衆はテュイルリー宮殿に突入していきました。
衛兵が必死に抵抗するも、命の危機を感じたルイ=フィリップを含めた王族たちは脱出してしまい、宮殿も民衆によって陥落し、七月王政は崩壊することになりました。
その後、議会では君主政の維持が否決されて、共和政が宣言されることになります。
こうして二月革命は成功して、フランスは第二共和政へと移行することになりました。

第二共和政の成立と動揺
臨時政府の成立
この二月革命が成功したことで、臨時政府が成立します。
この臨時政府は、革命を指導した勢力を幅広く取り込んだ「寄せ集め内閣」でした。
・穏健ブルジョワ共和派・・・秩序と財産の保護を重視
・急進共和派・・・労働者の政治参加を重視
・社会主義派・・・労働者保護・社会改革を主張

社会主義勢力からは[13-1.6]社会主義思想②(ドイツ)で紹介したルイ=ブランなどが入閣しました。
この内閣は一見、「国民の意見を幅広く聞き入れる内閣」のように見えますが、実際には政策の方向性がバラバラになってしまい、常に対立してしまう政府になってしまったんです。

ちなみに、革命の最前線にいた労働者は「赤旗を新国旗に!」と要求したんですが、ブルジョワ派が反論して「三色旗こそフランスの栄光だ!」として三色旗の採用が決まりました。
この時点で、すでにブルジョワと労働者の溝が見え始めていたんですね。

しかし、臨時政府は短期間で多くの改革を実施しました。
その中でも特に注目すべき政策は、国立作業場と男性普通選挙の二つでした。
臨時政府の動揺
社会主義者として入閣したルイ=ブランが、

国家が労働者のための工場を作るべきだ!
と主張したことで、国立作業場が設立されます。
しかし、実際に作られた国立作業場は、穴を掘って埋めるだけなど、何の意味もない作業が中心だったんです。
工場での仕事がなくても給与が支払われる仕組みが導入されてしまったことで、国の財政負担は一気に重くなってしまいました。

この理想と現実のギャップが、後の大爆発(六月蜂起)の火種になることになります。

もう一つの重要な政策は、1848年4月、フランス史上初めて実施された男性普通選挙でした。
この選挙では急進派と社会主義派が有利という予想でしたが、その結果は真逆でした。
穏健ブルジョワ共和派が議席の多数を占めて、急進共和派と社会主義者は選挙で敗北する結果になったんです。

この時、内閣に入っていたルイ=ブランも落選してしまいました。
急進派や社会主義が敗北した理由は、都市労働者を優遇する政策に対して、地方農民が、

私たちの税負担が増える!
と考えて、社会主義者に投票しなかったからなんです。

六月蜂起
議会を握った穏健派のブルジョワは、

社会主義は危険だ!
として国立作業場の縮小・廃止へと動いて、議会は国立作業場の閉鎖を決定します。
この事態に激怒したのがパリの労働者でした。
仕事を失った労働者たちは、蜂起して街中にバリケードを築きます。
この出来事を六月蜂起といいます。
パリ市街では激しい市街戦が展開されて、政府軍は大砲まで使用して蜂起を力づくで鎮圧しました。
その結果、多数の死者が出る大惨事となり、社会主義者ルイ=ブランは責任を問われて亡命するまでに追い込まれることになりました。

失敗に終わった六月蜂起ですが、上層ブルジョワなどに強烈な恐怖を与えることになりました。
以降、「労働者の自由」よりも「社会の秩序」を重視する勢力が、議会で多数を占めるようになり、ここから第二共和政は急速に 「自由」よりも「秩序」を重視する体制へと傾いていくことになりました。
ルイ=ナポレオンの登場
六月蜂起後の1848年11月、第二共和政は新憲法を制定して、大統領選挙をおこないました。
ここで当選したのが、ナポレオン1世の甥っ子だったルイ=ナポレオンという人物でした。

彼は政治経験が少ないなか、総票数の約4分の3を獲得するという圧勝で大統領に当選しました。

では、なぜこれまで政治経験が少ないにも関わらず、選挙で圧勝できたんでしょうか?
SQ:なぜ政治経験の乏しいルイ=ナポレオンが圧勝したのか?
それは、“ナポレオン家”という絶大な「ブランド力」を持っていたからなんです。
この時点で、ナポレオン1世の直系はすでに亡くなっていて、ルイ=ナポレオンが「唯一のナポレオン家の後継者」だったので、国民から注目を集めます。
そして、国民の多くは「ナポレオンの時代=栄光と安定の時代」という記憶がまだ残っていたんです。
なので、「ナポレオン」という名前そのものが強力な「キャッチコピー」になってくれたんです。
こうした理由から、ルイ=ナポレオンは「混乱したフランスを復活させてくれる存在」として期待され、圧倒的な票数を獲得できたというわけなんです。
「ナポレオン家」という圧倒的なブランド力によって、国民が“安定と栄光の再来”を期待したため。

クーデターと第二帝政の成立
当時、議会では「自由よりも秩序」を重視する勢力が多数を占めていたので、集会やストライキなどを制限する政策をおこなっていました。
これらの政策は、革命直後の理想とはかけ離れていたので、「国民の期待」を背負った大統領のルイ=ナポレオンと対立することになりました。
議会と大統領ルイ=ナポレオンの対立は深まっていきましたが、 国民の人気は依然としてルイ=ナポレオンが圧倒的でした。
そして、ルイ=ナポレオンは「男性普通選挙の復活」 を掲げてクーデタを決行することを決断します。
ルイ=ナポレオンは議会の解散を強行して、大統領の権限を強化する憲法案を国民投票にかけて、圧倒的な支持を国民から獲得します。
翌年には、帝政の復活を問う国民投票もおこなわれて、「フランスの栄光」を期待していた国民の多くが再びルイ=ナポレオンを支持しました。
こうして、国民から支持を得たルイ=ナポレオンはナポレオン3世として皇帝に即位することになりました。

ナポレオン1世と同じで、ちゃんと国民投票で権力を勝ち取る“合法”で皇帝の座を勝ち取ったんですね。
こうして、フランスはナポレオン1世以来の帝政が復活することになり、第二帝政が始まることになったんです。

まとめ
MQ:なぜ「共和政のための革命」が、最終的に「皇帝の復活」へとつながったのか?
A:革命後の混乱と社会不安が、強い指導者=ナポレオン家への待望論を生み、民主制度(国民投票)を通じて帝政復活が支持されたため。

今回はこのような内容でした。

次回は、1848年革命の2回目として「諸国民の春」についてみていきます。フランスの二月革命からヨーロッパ各地に革命が波及していきます。それぞれどのような経緯で革命が進展していったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
PowerPointスライドは他の記事も合わせて「note」にてダウンロードし放題!ダウンロードは下のURLから!

このブログ「グシャの世界史探究授業」に関連するリンクを下にまとめました。気になるものがあれば、ぜひのぞいてみてくださいね。
【世界史イラスト:イラスト集】
【YouTube:グシャの世界史探究授業 – YouTube】
【note:グシャの世界史探究授業 教材ダウンロード|グシャケン】
【X:グシャの世界史探究授業 (@s_w_history) / X】
【ポッドキャスト(Apple):[聞き流し]グシャの世界史探究授業 – ポッドキャスト – Apple Podcast】
【ポッドキャスト(Spotify):[聞き流し]グシャの世界史探究授業 | Podcast on Spotify】








コメント