[13-1.4]イギリス自由主義的改革

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13-1.ウィーン体制

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はイギリスの自由主義的改革についてです。イギリスでの改革は他のヨーロッパ諸国と何が違っていたんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜ19世紀のイギリスは、自由主義的改革を次々と実現できたのか?

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産業革命が生んだ「改革を求める社会」

19世紀のイギリスは、世界で最初に産業革命が起こって、世界経済の中心になりましたよね。

その後に起こったナポレオン戦争でもフランスに勝利して、ヨーロッパの覇権国となっていきました。

そんな上手くいきすぎていたイギリスですが、国内では大きな社会変化が起きていたんです。

イギリス国内では産業革命や交易の発達によって、工場経営者や商工業者などが富を築いて、新興ブルジョワジーが出現していました。

当時はまだ封建制による身分社会が残っていたので、地主階級(ジェントリ)が大きな権限を持っていました。

なので新興ブルジョワジーたちは、

生まれや身分ではなく、どれだけ能力があり、どれだけ財産を持っているかで評価される社会

を求めるようになっていったので、出身や身分で成り上がれるか決まる社会(封建制)は、実力主義とは真逆の考え方でした。

そのような中で、新興ブルジョワジーたちは自由主義的改革を訴えるようになっていきます。

グシャケン
グシャケン

要は、「どれだけ稼げるか」で評価する“実力主義”を求めたんです。

この新しい価値観が、イギリスの政治や社会の改革を後押ししていくことになったんです。

新興ブルジョワジーの台頭 自由主義的改革の要求
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宗教的自由の拡大

アイルランドと国家合同

1801年、イギリスは事実上植民地化していたアイルランドで独立運動が活発化していたことから、アイルランド議会に呼びかけて1つに合同して正式国号を「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」としました。

グシャケン
グシャケン

アイルランドはアメリカ独立やフランス革命に刺激を受けて独立運動が盛んになりました。しかもフランス革命政府が介入してくる危険性もあったので、イギリス政府は合同に踏み切ったそうですよ。アイルランド議員もバリバリ買収したそうですよ。

グシャケン
グシャケン

ちなみに、それまでの国名はグレートブリテン王国でしたね。

この併合で、現在のイギリス国旗の原型であるユニオン=ジャックが国旗として使われるようになったそうですよ。

しかし、この出来事は「合同」というよりイギリスによる併合に近く、アイルランドの政治的な自治は大きく制限されることになりました。

アイルランド議会は解散させられてイギリス議会に吸収されたんですが、多数派だったカトリック教徒は代表を送ることすらできなかったんです。

アイルランド合同 大ブリテンおよびアイルランド連合王国

審査法廃止とカトリック教徒解放法

このように、アイルランドでは人口の大多数がカトリック教徒だったんですが、イギリスでは17世紀以降、イギリス国教会の信徒以外は公職に就けないという“審査法”があったので、国家公認の差別が続いていました。

しかし、19世紀に入ると産業革命の影響もあって、イギリスで自由主義的改革が求められるようになると、宗教差別の撤廃も求められるようになります。

そして、イギリス議会で「審査法の廃止」が成立することになり、非国教徒(国教会以外のプロテスタント)も公職に就けるようになりました。

審査法の廃止

しかし、カトリック教徒は依然として政治から排除されたままだったので、アイルランドでは不満が爆発寸前にまで膨れ上がります。

このような状況を大きく動かしたのが、アイルランドのオコンネルという人物でした。

オコンネル

オコンネルはアイルランドのカトリック教徒の権利を獲得するために、イギリス議員になれる資格がないと知りながら、選挙に立候補して圧勝してしまいます。

しかし、イギリス政府はオコンネルの議席を認めませんでした。

この対応にアイルランド全土が激しく反発して、暴動が起こりそうになります。

そしてこの危機を避けるために、イギリス政府はカトリック教徒解放法」を議会で成立させることになり、アイルランドの大多数を含めたカトリック教徒がイギリス政治に参加できるようになったんです。

この「審査法廃止」と「カトリック教徒解放法」は宗教的自由の拡大だったのと同時に、

「能力に基づく社会」=自由主義の実現

という点で重要な改革になりました。

カトリック教徒解放法 オコンネル
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奴隷制度の廃止

SQ:なぜ自由主義的改革の中で、奴隷制度が注目されたのか?

こうした自由主義改革が始まる中で、注目されたのがプランテーションでの奴隷制度”でした。

グシャケン
グシャケン

では、なぜ奴隷制度が注目されたんでしょうか?

18世紀のイギリスは、フランスなどとの覇権争いに勝利したことで、大西洋の制海権を手に入れて、大西洋三角貿易をほぼ独占して、莫大な利益を得ていました。

特に西インド諸島(ジャマイカなど)の砂糖プランテーションは、イギリス経済を支える重要な存在になっていました。

しかし、アフリカからカリブ海へ運ばれる黒人奴隷の悲惨な状況が知られると、イギリス国内では人道主義の点から批判されるようになりました。

グシャケン
グシャケン

黒人奴隷を運ぶ船は、モノを運ぶようにすし詰めにされてましたからね。

人道主義・・・人はみな尊重されるべきという考え方

そして、アメリカ独立革命やフランス革命が起こったことで、

自由主義者
自由主義者

人間は自由であるべきだ!


という自由主義の考え方がイギリス社会にも広がっていきます。

さらに同じ時期に、産業革命が起こって都市化が進んだことで、「労働者の貧困」や「工場での過酷な労働」などが社会問題になり、工場労働者よりもさらに悲惨な状況だった黒人奴隷が注目されるようになったというわけなんです。

SQ:なぜ自由主義的改革の中で、奴隷制度が注目されたのか?

還大西洋革命による自由主義の広がりや産業革命による社会問題の可視化によって、プランテーションでの黒人奴隷の非人道的な扱いが強く批判されるようになったため。

なぜ自由主義的改革の中で、奴隷制度が注目されたのか?

その結果、イギリスでは、

奴隷貿易禁止(1807年) ※これは「奴隷の売買」を禁じただけで、植民地のプランテーションには依然として多くの奴隷が存在。

・奴隷制度廃止法(植民地を含む全領土)(1833年) 

・全奴隷の解放(1838年) 

※西インド諸島の砂糖プランテーションの重要性は急速に低下し、ブラジルなどからの砂糖輸入が進むように。

が実現して、奴隷制の廃止が達成されることになりました。

グシャケン
グシャケン

ちなみに、奴隷制度廃止運動の中心人物だったウィルバーフォースは、議会で何十年も廃止法案を提出し続けてしたそうですよ。

ある年は、「今年もまた否決か・・・。」と肩を落としながら議場を出たところ、廊下で支持者たちが拍手で「あなたが諦めない限り、私たちも諦めません」と出迎えてくれたそうです。

奴隷制の廃止
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第1回選挙法改正とチャーティスト運動

第1回選挙法改正

ヨーロッパの覇権をリードしていたイギリスですが、選挙制度については、実はとても近代国家とは言えるものではなかったんです。

・身分制議会のため、封建社会の各身分の代表が選出

・有権者は地主階級(ジェントリ)に限定

・農村部には人口がほとんどいないのに議席だけは多い「腐敗選挙区」が存在

・工業都市(マンチェスターなど)は人口が急増しているのに議席がない

イギリスの選挙制度 腐敗選挙区

この制度に対して、工場経営者や銀行家などの新興ブルジョワジーが参政権を求めたことで、史上初めて本格的な選挙制度の改革が実施されることになりました。

これを第1回選挙法改正といいます。

グシャケン
グシャケン

もう政府は、経済の中心だった新興ブルジョワジーたちを無視できなくなっていたんです。

「俺たちの方が国に貢献してるんだから意見言わせろ!」みたいな感じですね。

それまでの選挙制度は、18世紀以来ほとんど手が加えられず、人口の変動や産業革命による都市の発展をまったく反映していませんでした。

とりわけ、住民がほとんどいないにもかかわらず議席を持ち続ける「腐敗選挙区」の存在は、政治が地主階級(ジェントリ)によって独占されている証拠だったので、改革を求めて暴動が起こるほどでした。

グシャケン
グシャケン

要は、人口が急増した工業都市と比べて、1票の差がすごい大きかったんです。

そこでイギリス政府は、都市で一定額以上の家や店を持つ人地方では土地を持つ人に選挙権を与えることにしたことで、新興ブルジョワジーなどの中産階級が選挙権を獲得することになりました。

加えて、多くの腐敗選挙区が廃止されることになり、マンチェスターやバーミンガムなど新興工業都市に新しい議席を配分して、議会の構成を公平にする改革もおこなわれました。

グシャケン
グシャケン

その結果、有権者数は約16万人から96万人へと大幅に増加しました。

第1回選挙区法改正

しかし、この選挙法改正には限界もありました。

都市の労働者には選挙権が与えられず有権者は人口のわずか4.5%にすぎなかったんです。

しかも投票は秘密ではなく公開制で、威圧や買収といった不正も続いていました。

こうした不満はやがて労働者たちによる選挙権を獲得するための運動を刺激することになり、1840年代のチャーティスト運動へとつながっていくことになります。

グシャケン
グシャケン

第1回選挙法改正は、民主化を完全に実現した改革ではありませんでしたが、後の選挙法改正へと続く改革の第一歩となった点で、イギリス近代史における重要な転換点になりました。

チャーチスト運動

チャーチスト運動

SQ:なぜ労働者は選挙権を得られなかったのか?

グシャケン
グシャケン

ではなぜ、労働者はこの時点では参政権を得られなかったんでしょうか?

産業革命によって都市の労働者人口は急増したが、政治エリートは彼らを、

政治エリート
政治エリート

労働者は教育が不十分だから政治判断ができない。

と判断したので選挙権を与えようとしなかったんです。

SQ:なぜ労働者は選挙権を得られなかったのか?

労働者は教育が不十分で政治判断ができないと政治エリートにみなされ、選挙権の対象から外されたため。

なぜ労働者は選挙権を得られなかったのか?

しかし、労働者たちは生活を改善するには政治参加することが必要だと考えるようになります。

このようにして始まったのが、都市労働者たちが選挙権を要求するチャーティスト運動でした。

グシャケン
グシャケン

「チャーチスト」とは、ロンドンの労働者やアイルランドの政治家たちが、普通選挙を要求した「憲章(Charter)」を掲げたことから、チャーティストと呼ばれるようになったそうですよ。

チャーチスト運動では主に、男子普通選挙、秘密投票、議員の財産資格撤廃など、後の民主化の基礎となる内容が求められました。

しかし、これらの要求は議会に否決されてしまい、労働者による武装蜂起や大規模ストライキが起きます。

その後、鉄道建設ブームが起きたことで景気が回復して、労働者の生活が改善したことでチャーチスト運動は落ち着いていくことになりました。

チャーティスト運動は要求がすべて議会で否決されてしまったため、「失敗」と評価されることが多いですが、労働者たちが掲げた要求はその後の選挙法改正で徐々に実現していくことになります。

グシャケン
グシャケン

そのため、チャーティスト運動は「失敗したが無駄ではなかった」運動として、後の民主化の基盤を築いた点で歴史的意義は非常に大きいんですよ。

チャーチスト運動
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自由貿易体制の確立

東インド会社特権の廃止とアジア貿易の開放

19世紀前半のイギリスでは、産業革命が起こると、国家が貿易を管理する重商主義から、関税や独占を撤廃して自由な取引をする自由貿易主義へと大きく変わっていきました。

この背景には、産業資本家(新興ブルジョワジー)の台頭と、工業製品を世界市場へ売り込むための制度改革の必要性が出てきたことが原因でした。

グシャケン
グシャケン

要は、新興ブルジョワジーたちが「もっと稼げるように、制限を無くしてほしい!」と求めるようになったんです。

19世紀初頭のイギリスでは、まだ依然として東インド会社がアジア貿易を独占していました。

しかし、先ほどの自由貿易が主張されるようになったことで、アジア貿易の独占権が廃止されて、商業活動そのものも停止されることになります。

グシャケン
グシャケン

これによって東インド会社は、領土を国王に返還して、植民地の統治機関だけを残すことになりました。

これによって、アジア貿易は民間企業にも開放されることになりました。

産業革命で生産力を高めたイギリスにとって、巨大なアジア市場は魅力的だったので、東インド会社の特権廃止によって、イギリスはさらに産業を拡大していくことになりました。

自由貿易主義 東インド会社の特権廃止

穀物法の廃止

イギリスでは1815年に、外国産の穀物輸入を制限して地主階級(ジェントリ)を保護する穀物法が定められていました。

しかし、穀物の価格が下がらないことで都市労働者の生活は苦しくなってしまい、産業資本家(新興ブルジョワジー)たちも貿易が制限されることに不満を持つようになります。

グシャケン
グシャケン

輸入が制限されると貿易が停滞して、工業製品の輸出にも影響しますからね。

そのような状況から、マンチェスターなどの複数の都市が中心となって反穀物法同盟が結成されると、都市のブルジョワジーや労働者もこれに参加していき、地主階級(ジェントリ)と激しく対立するようになります。

最終的には反対運動に押し切られる形で、イギリス政府は穀物法の廃止に踏み切ることになり、産業資本家や労働者が勝利することになりました。

穀物法の廃止

航海法廃止と自由貿易体制の完成

17世紀半ばにクロムウェルが制定した航海法は、イギリスに運ばれる商品をイギリス船(または産出国の船)に限定するという、200年近くも続いていた保護貿易政策でした。

しかし19世紀に入ると、航海法が輸出拡大の邪魔になり、産業資本家たちが撤廃を求めるようになります。

ここでも自由主義運動に押される形で航海法の廃止が決定されることになり、イギリスの貿易はどこの船でも出入りできる完全な自由化を実現することになりました。

グシャケン
グシャケン

これによってアメリカ船も茶の貿易に参入してくるようになり、香港からロンドンまでのティー=レースと呼ばれる貿易競争が激化するなど、国際競争が一段と進んでいくことになりました。

この航海法の廃止は、奴隷制度廃止東インド会社特権の廃止穀物法廃止と続いた自由主義的改革の総仕上げとなり、イギリスは自由貿易体制を完成させることになりました。

航海法の廃止 自由貿易体制の完成

SQ:イギリス政府はなぜ自由貿易を選んだのか?

グシャケン
グシャケン

では、自由主義運動に押されたとはいえ、なぜイギリス政府は自由貿易を選んだんでしょうか?

それは、イギリスが工業力で世界を圧倒していて、自由競争になれば必ず勝てると確信していたからなんです。

世界初の産業革命によって圧倒的な生産力を手に入れて、海軍力を背景に世界市場をリードしていたイギリスにとって、利益を守るための保護政策はもはや不要だったんです。

むしろ自由化したほうが、イギリス製品を世界中に売り込むことができたので、産業資本家たちに合わせるように自由貿易体制が進められていったというわけなんです。

SQ:イギリス政府はなぜ自由貿易を選んだのか?

圧倒的な工業力と海軍力を背景に「自由競争になれば必ず勝てる」と確信していたため。

イギリス政府はなぜ自由貿易を選んだのか?
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まとめ

MQ:なぜ19世紀のイギリスは、自由主義的改革を次々と実現できたのか?

A:産業革命によって社会構造が大きく変化し、改革を求める新興ブルジョワジーと労働者という改革を後押しする社会的圧力」が強まったため

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、社会主義思想の成立についてです。イギリスとフランス、ドイツで出てきた社会主義思想はどのような違いがあったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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