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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はナポレオンの征服戦争とナポレオン帝国が崩壊していく過程をみていきます。なぜナポレオンは帝国を崩壊させてしまったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜヨーロッパを制覇したナポレオンは、帝国を崩壊させてしまったのか?
ヨーロッパ遠征とナポレオンの絶頂
第3回対仏大同盟とトラファルガーの海戦
ヨーロッパでは、フランスでナポレオンが皇帝に就任したことを受けて、ナポレオンの勢力拡大を阻止するために、イギリスを中心に、ロシアやオーストリア、スウェーデンが参加する第3回対仏大同盟が結成されました。
これに対して、ナポレオンも最大のライバル国であるイギリスの本土を侵攻するために海軍を覇権します。
ここでイギリス海軍と激突したのがトラファルガーの海戦でした。
しかし、この海戦ではイギリス艦隊の巧みな戦術によって、フランス艦隊は約3分の1もの艦船を失って敗北してしまい、ナポレオンはイギリス本土侵攻を断念せざるを得なくなりました。

アウステルリッツの戦い(三帝会戦)
海上では敗北してしまったナポレオンでしたが、ヨーロッパ本土の陸上戦では破竹を勢いを見せていくことになります。
それが、オーストリア・ロシア連合軍を破ったアウステルリッツの戦いでした。

この戦いは、3人の皇帝が直接関係していたことから「三帝会戦」とも呼ばれています。
まず、フランス軍はオーストリア軍を包囲して降伏させ、そのままウィーンを占領していしまいます。
こうして戦局をフランス側に有利な形にして、アウステルリッツで決戦に臨みます。
戦闘は終始ナポレオン軍の巧みな戦術によって進められていき、オーストリア・ロシア連合軍は大敗北を喫してしまいました。

この勝利はナポレオンの征服戦争の中でも最も華々しいものになり、ナポレオンはヨーロッパ最強の皇帝としての地位を確立することになりました。
ナポレオンはこの戦いでの勝利を通じて、ヨーロッパ大陸における支配権を大きく拡大することになりました。
そして第3回対仏大同盟はわずか1年足らずで崩壊することになってしまい、ナポレオンはヨーロッパ諸国を圧倒して、その支配を確かなものにしていきました。

ライン同盟
この勝利を背景に、ナポレオンは支配地域を急速に拡大していきました。
イタリアでは傀儡国家を増やしてイタリア半島全体を支配することに成功します。
そして、ナポレオンはその支配領域をドイツの領邦にも及ぼそうとしました。
東欧の大国オーストリアとプロイセンをけん制するために、ドイツ諸邦を自身の支配下に組み込むライン同盟の結成します。
このライン同盟によって、多くのドイツ諸邦がナポレオンの支配下に入ることになり、神聖ローマ帝国から離脱することになりました。

ドイル領邦たちは、神聖ローマ帝国が形式的になり、保護が期待できなかったので、生き残るためにナポレオン側に付くことにしたんです。
その結果、当時の神聖ローマ皇帝は皇帝を退くことになり、800年以上続いた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅することになりました。

ワルシャワ大公国とスペイン
続いて、ナポレオンはプロイセンとの戦闘でも決定的な勝利を収めて、講和条約を結びます。
プロイセンは自国の旧ポーランド領をフランスに割譲することになり、ナポレオンはそこにワルシャワ大公国を建設しました。

ポーランドは「ポーランド分割」によって、国家として消滅していましたよね。
このワルシャワ大公国の成立は、多くのポーランド人から歓迎されたんですが、ナポレオン軍の強い影響下に置かれていたので、実際は独立回復と呼べるものではありませんでした。
その後、ナポレオンはスペインにも遠征して、傀儡国家を建設して影響下に置きます。
こうしてフランスは、イギリスを除くヨーロッパ大陸において、圧倒的な支配力を持つナポレオン帝国を完成させることになりました。


大陸封鎖令
SQ:なぜナポレオンの支配は、各地で不満を生んだのか?
陸上では無敵のナポレオンでしたが、唯一勝てなかったのがイギリスでした。
海上で敗北したナポレオンは、軍事力ではなく経済力でイギリスに対抗しようとします。
そのために発令したのが大陸封鎖令と呼ばれるものでした。
この政策は以下の目的で発令されました。
・イギリスを経済的に孤立させて、講和に追い込むこと
・イギリス製の工業製品をヨーロッパ市場から排除すること
・フランス製の工業製品をヨーロッパ市場で普及させること

しかし、この政策は次第に予想とは違う結果になっていき、最終的にはナポレオン帝国そのものを揺るがす要因となっていくんです。

しかし、この大陸封鎖令に対して、なんとイギリスは予想以上にこの政策に耐えることができました。
イギリスはすでに産業革命を達成した工業国だったので、ヨーロッパ市場への輸出が減っても、中南米やアジアなどの市場を開拓することで貿易を維持することができたんです。
さらに、強大な海軍力をもっていたことで、海上貿易のルートを確保し続けることができたので、大陸封鎖令による打撃は限定的になってしまいました。

逆に、この大陸封鎖令で深刻なダメージを受けたのがヨーロッパ大陸の国々でした。
ロシアやプロイセン、ポーランド(ワルシャワ大公国)といった農業国では、穀物をイギリスに輸出して、その代わりにイギリス製の工業製品を輸入することで経済が成り立っていました。
なので、イギリスとの貿易が断たれると、穀物が国内に余ってしまい、農民や地主層の収入が減ってしまい、フランスに対する不満が溜まっていきました。
また、オランダやバルト海沿岸の都市のように中継貿易で繁栄していた地域も、貿易できなくなったことで経済が停滞してしまい、封鎖への不満を強めていくことになりました。

さらに問題だったのは、フランス自身がイギリスに代わって大陸市場を支配できるほどの工業力を持っていなかったことでした。
フランスはまだイギリスのような安価で高品質な製品を大量に供給することができなかったんです。
その結果、大陸封鎖令はイギリス製品を排除する一方で、市場の需要を満たせずに、経済の停滞を招くという矛盾を抱えることになってしまいました。
なので、封鎖が長期化するにつれて、商人や民衆のフランスに対する不満は増していくばかりで、沿岸部では密貿易が頻繁におこなわれるようになっていきました。

結果、大陸封鎖令は「イギリスを苦しめる政策」であると同時に、「フランス支配への不満を高める政策」となってしまったんです。

大陸封鎖令によってイギリスよりも大陸諸国の経済が深刻な打撃を受け、農業国や貿易都市の生活が悪化したうえ、フランス自身も十分な工業力を持たず市場の需要を満たせなかったため。
ナポレオン支配への抵抗
スペイン反乱
この大陸封鎖令をきっかけに、皇帝ナポレオンによる「フランスによる支配」への反発が各地で起こるようになっていきます。
フランスの支配下にあったスペインでは、政権をめぐって権力争いが起きて、政治が混乱していました。
この混乱に乗じたナポレオンはスペイン王家の廃位を決断して、国王を退位させてしまい、自分の兄をスペイン王に即位させてしまいます。
当然、スペイン民衆はナポレオンの介入に怒り狂って、反乱を起こします。
この出来事を「スペイン反乱」または「スペイン独立戦争」と呼んでいます。
フランス軍はこのスペイン反乱を鎮圧するために、軍隊を投入して多くの市民を銃殺してしまいました。

この惨状を描いたのが、画家ゴヤの『1808年5月3日』です。
このようにフランス軍に対抗することが難しかった民衆はゲリラ戦を展開して、フランス軍を消耗させようとします。

「ゲリラ」という言葉自体が、このスペイン独立戦争の中で広まったそうですよ。
その間にイギリス軍が介入してきたことで、スペインのゲリラとの連携によって、フランス軍は苦戦を強いられることになりました。

プロイセン改革
一方、ナポレオン軍に大敗したプロイセンでは、人口と領土の半分をフランスに割譲する屈辱的な講和条約を突き付けられました。
この屈辱的な敗戦によって弱体化したプロイセンは、国家の存亡をかけた大改革に取り組みます。
このプロイセン改革の中心を担ったのが、首相を務めたシュタインとハルデンベルクという人物でした。

シュタインが改革の基礎を築いて、ハルデンベルクが継続して拡大させたといった感じです。


この2人によって、あらゆる分野で大規模な改革がおこなわれ、プロイセンは近代化を進めて国力の回復を成功させることになりました。

しかし、この改革は「民衆による改革」ではなく、ユンカーを中心とする貴族層による「上からの改革」に停まりました。議会制度や憲法の制定には及ばず、参政権の拡大も実現しませんでした。

ロシア遠征
各地で反ナポレオンの運動が活発になるなか、ナポレオンが発令した大陸封鎖令によって、あの大国が動き出しました。
それがロマノフ朝ロシアです。
ロシアは穀物をイギリスなどに輸出することで経済を支えていたので、封鎖を守り続けることができず、事実上イギリスとの貿易を再開してしまいます。
このロシアの密貿易に対して、ナポレオンは成敗すべく、大軍を率いてロシア遠征をおこないました。

支配下の兵士も含めて、約67万人の大軍でした。

SQ:ナポレオン最大の失敗は、なぜロシア遠征だったのか?

実はこのロシア遠征は、ナポレオン最大の失敗とされているんです。
ではなぜ最大の失敗とされているんでしょうか?
フランスの大軍がロシアに押し寄せる中、ロシア軍は正面から強力なナポレオン軍と戦わずに、退きながら都市や食糧を焼き払う焦土作戦を展開しました。
都市での補給を頼りにしていたフランス軍は、ロシア軍の焦土作戦によって補給に苦しむようになっていき、感染症の流行や脱走兵が増えて徐々に消耗していきました。
その後、ナポレオン軍は大きな犠牲を払いながらもモスクワに入城しますが、冬がやってきて物資に限界が来たことで、ついに撤退を決断します。
しかし、ここでさらにフランス軍に悲劇が訪れます。
ロシアの厳しい冬の寒さに、食糧不足が加わり、ロシア軍によるゲリラ攻撃も重なったことで、多くのフランス兵が凍死または捕虜になってしまい、死者・捕虜・脱走兵がのべ約38万人に昇るという壊滅的な大敗北を喫してしまったんです。

このロシアの厳しい冬は「冬将軍」と呼ばれて恐れられるようになりました。
ナポレオン自身は途中で軍を離れてパリに戻っていましたが、このロシア遠征の大失敗によって、ナポレオンへの軍事的な信頼は完全に失われることになり、これ以降、ヨーロッパ諸国は反ナポレオン同盟を強めていくことになりました。

大陸封鎖令を破ったロシアを軍事力で屈服させようとしたものの、広大な国土と焦土作戦、厳しい冬によって補給が崩壊し、大軍が壊滅したため。
解放戦争(諸国民戦争)と皇帝退位
ロシア遠征の大失敗によって、それまでフランスに従っていた諸国は次々と反ナポレオン側に離反していきました。
こうして反ナポレオンの動きが一気に強まっていき、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデンによる第6回対仏大同盟が結成されました。
そして、この対仏大同盟との間で解放戦争(諸国民戦争)がおこなわれ、その中でも最大規模の戦いになったのがライプツィヒの戦いでした。

この戦いでは、ナポレオン軍約19万と、連合軍約25万が激突しました。
ナポレオン軍は攻勢に出ますが連合軍に阻止されてしまい、休戦を申し入れますが、それを拒否されてしまいます。
そして、そのタイミングでナポレオン側についていたライン同盟軍が連合軍に寝返ってしまいます。
これによりナポレオン軍が一気に形勢を不利にしてしまい、最終的に敗れてしまうことになりました。

この敗北によってナポレオンのドイツ支配は崩壊することになり、ライン同盟は事実上解体されることになりました。
翌1814年、対仏大同盟軍はそのままパリに入城して、ナポレオンは退位に追い込まれて、エルバ島に流刑されることになりました。
ナポレオンが退位したことで、フランスではルイ16世の弟がルイ18世として即位して、ブルボン朝が復活した復古王政となりました。


百日天下
復古王政になったフランスでしたが、革命前の社会に戻るのに反発する国民や、解放された領土分割をめぐるヨーロッパ諸国の対立などの混乱が起きました。
そして、エルバ島に流されていたナポレオンは、この混乱を利用してエルバ島を脱出してしまいます。
フランス本土に上陸したナポレオンに対して、国王は捕らえようとしますが、次々と鎮圧軍がナポレオンに寝返っていき、最終的にナポレオンはほとんど抵抗を受けることなくパリに帰還して、再び皇帝として帝政を復活させることになったんです。

軍隊も復古王政に懐疑的だったんでしょうね。かつての英雄の帰還に期待したんでしょう。

このナポレオンの皇帝復活に対して、イギリスやプロイセンなどはすぐにナポレオンを討伐するための連合軍を結成して、決戦を挑みます。
こうして両軍が激突したのがワーテルローの戦いと呼ばれるものでした。
このワーテルローの戦いでは、イギリス軍を率いたウェリントン将軍は高地に陣を構え、正確な射撃でフランス軍の攻撃を防ぎました。
さらに、戦闘当日の雨で地面がぬかるんでしまい、ナポレオン軍の砲兵が大きく制限されてしまいました。
ナポレオンは援軍を待ちながら戦局の打開を図りましたが、その前にプロイセン軍の部隊が到着してナポレオン軍に攻撃したことで、フランス軍は総崩れとなって、ナポレオンは敗走することになりました。
この敗北によってナポレオン戦争は完全に終結することになり、ナポレオンは二度と脱出不可能なセントヘレナ島へ流刑になりました。

この皇帝ナポレオン復活から退位までが約100日間だったことから「百日天下」と呼ばれています。
ナポレオンはその島で生涯を終えて、亡くなってからパリの凱旋門を通ることになりました。
また、この戦いをもって長く続いたイギリスとフランス間の抗争も終わりを迎えることになり、ヨーロッパはウィーン体制と呼ばれる時代へと移っていくことになりました。


まとめ
MQ:なぜヨーロッパを制覇したナポレオンは、帝国を崩壊させてしまったのか?
A:イギリスを屈服させるために発令した大陸封鎖令が、逆にヨーロッパ諸国の経済と国民を疲弊させ、各地で反発と離反を招いたうえ、その矛盾を軍事力で解決しようとしたロシア遠征が壊滅的な失敗に終わったため

今回はこのような内容でした。

次回は、ヨーロッパから離れて、中南米で起きた「ハイチ革命」についてみていきます。ハイチ革命はどんな特徴があったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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