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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は市民・国民文化の成立についてです。なぜ文化の担い手が「貴族」から「市民」、そして「国民」へと広がっていったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ19世紀のヨーロッパでは、文化の担い手が「貴族」から「市民」、そして「国民」へと広がっていったのか?
文化の担い手が変わると、社会の見え方も変わる

みなさんが普段触れている文化にはどんなものがありますか?
音楽、映画、建築、文学、ファッション
これらの文化は「誰がつくって、誰が楽しむのか。」によってで大きく形を変えます。

どれもたったの10年前でも全然違いますよね?
最近はSNSの普及によって変わるスピードも速くなってますよね。
19世紀のヨーロッパはまさにその転換期でした。
大きな転換期の1つになったのが、「フランス革命」です。
フランス革命以前の文化は、皇帝・国王・貴族・高位聖職者など、社会の特権階級の人たちを中心とする「貴族(宮廷)文化」でした。
しかし、フランス革命が起きた後、文化の担い手は市民へ、さらに国民全体へと広がっていきました。
このような変化は、ただの流行や趣味の変化だけではありませんでした。
国民国家の形成と深く結びついた、ヨーロッパ近代の大きな流れがあったからなんです。

フランス革命前後の変化
革命前:「旧体制(アンシャン=レジーム)」の文化
フランス革命以前のヨーロッパ文化は、 「貴族(宮廷)文化」と「キリスト教文化」の2つが中心でした。
宮廷では豪華な舞踏会やサロンでの談義、宮廷音楽家による演奏会が開かれて、 その費用は皇帝や国王、貴族が負担していました。

フランスでいう、「旧体制(アンシャン=レジーム)」の特権階級の身分の人たちのことですね。
教会は宗教儀式や聖歌、壮大で美しい教会建築を通じて、人々の生活の中に溶け込み、文化の中心的役割を果たしていました。
しかし18世紀後半になると、自然科学が発展したことで、「理性(考える力)」で世の中の真理を追究する「啓蒙思想」が広まっていきました。

聖書では「世の中の仕組みを説明できない」となったんですよね。
この 「人間は理性(考える力)によって社会を改善できる」という考え方を人々が持ち始めるようになったことで、文化の担い手が「貴族」から変わる大きな土台になっていくことになります。

革命後:文化の担い手の転換
そして、1789年に起きたフランス革命では、政治体制だけでなく文化自体も変えることになりました。
この革命によって貴族の特権が廃止されて、文化の保護者だった宮廷は以前の豪華さを維持することが難しくなってしまいました。

ちなみに、革命後のパリでは没収された貴族の屋敷から、大量の絵画・家具・食器などが市場に流れていきました。 これを買い求めたのが、ブルジョワ(市民層)だったんです。「元貴族の絵画を飾ることがステータスになる」という文化の担い手が変わる瞬間を象徴する出来事ですね。
さらに革命後のナポレオン戦争によって、 革命の理念がヨーロッパ各地に広がっていき、「市民」が政治や経済の中心として台頭するようになっていきました。

市民文化
公共空間の整備
19世紀に入ると、革命や改革によって政治・社会・経済の構造が「市民中心」に変わっていき、都市の市民層が文化の中心となる市民文化が広がっていきました。
その市民文化を支えたのが、都市に整備されていった公共空間でした。
19世紀の都市では、次のような施設が次々と整備されました。
・コンサートホール
・オペラ劇場
・美術館
・博物館
これらは一般公開されて、誰でも文化にアクセスできるようになりました。
文化の保護者も、貴族から市民が運営する政府や自治体へと移っていき、文化が特権階級(貴族)から市民へと広がっていったんです。


では、なぜ19世紀に入って公共空間が整備されるようになったんでしょうか?
SQ:なぜ公共空間が整備されたのか?
①政治の担い手が「市民」になったから
まずは何度も言うように、フランス革命後、政治の主役が貴族から市民へと移っていきました。
そして、その際に必要になったのが政治に参加するための“知識”でした。
なので、市民が学び、議論し、情報を得るための場所が必要になったんです。
こうして、図書館・博物館・公開講義など、 「市民が知識や情報を得るための空間」が整備されていきました。
②産業革命での都市人口爆発と技術革新
そして、その時期に進んでいた産業革命も市民文化に影響を与えました。
都市人口が急増して、 大量の人々が余暇を過ごして、教養を身につけ、娯楽を楽しめる場所(公共空間)が必要になりました。
こうして、都市は公共空間なしでは機能しない仕組みになっていき、 公園・劇場・博物館などが都市のインフラとして整備されていったんです。
そしてこれらの公共施設は、鉄・ガラス・蒸気機関などの技術革新によって、 大規模な建築が可能になりました。
こうして、ロンドンのクリスタル=パレスやパリのオペラ座など、 大量の市民を収容できる巨大施設が次々と建設されていったんです。

③国家が「国民を育てる」必要があったから
そして、19世紀は国民国家の時代でもありました。
国家は、それまで封建制でバラバラだった土地と市民を統合して、国民を教育し、同じ価値観を共有させようとしました。
そのため、国立の博物館や美術館、劇場や学校などの「国民をつくるための装置」を整備していったんです。
④メディアの発達で「大衆」が誕生したから
技術革新は大衆新聞や雑誌の普及にも貢献し、情報が一気に市民中に広まるようになりました。
これによって、展覧会や公開講演などの公共イベントが人気になり、 公共空間の需要はさらに高まっていきました。

ちなみにロンドンの大英博物館は、当初「無料で利用できる巨大図書館」として市民に開放されたそうですよ。 朝から読書の席を確保するために行列ができて、 「読書のために徹夜で並ぶ市民」が新聞で話題になったほどです。

市民が政治・社会の主役となり、その市民を支えるための知識・教育・余暇・文化のインフラが不可欠になったから。
市民文化の労働者層への波及
ただし、市民文化はすぐに労働者などへも浸透したわけではありませんでした。
19世紀前半の工業都市で働く労働者たちは、長時間労働と低賃金のために、文化を楽しむ余裕がほとんどなかったからです。
しかし、19世紀後半になるとこの状況が変わります。
義務教育の普及や大衆新聞・雑誌の登場、労働運動による活動などを通じて、労働者たちも徐々に文化に触れていくようになり、市民文化が社会の下層へも広がっていくことになりました。

国民文化
成立
19世紀後半になると、市民文化はさらに変化していきます。
各国で国民国家が成立していき、 文化は「国民をひとつにまとめる力」として利用されるようになっていきます。
そうして、それまであった貴族文化と市民文化を融合して誕生したのが国民文化と呼ばれるものでした。
この国民文化では、それぞれの市民や民族の言語や歴史をもとに文化が作られたので、伝統として引き継がれていくことになりました。

国民文化の広がり
SQ:国民文化はどのようにして国民国家の形成を後押ししたのか?
国民文化は、具体的に文学・美術・音楽・建築などを通じて形成されていきました。
各国は自国の神話や歴史・言語を題材にした作品を生み出していき、 国民のアイデンティティを育てようとしました。
例えば、ドイツでは統一後、鉄道駅のデザインに「ゲルマン風装飾」が急増しました。
駅は国民が必ず利用する公共空間だったので、駅舎は「国民文化を視覚的に示す場」として利用されたんです。

今の私たちが「駅=交通の場」だけでなく、当時は「駅=国民文化のショーケース」でもあったんです。
このようにして、国民文化は「国民国家」の形成を強く後押しすることになっていったというわけなんです。
神話・歴史・言語・芸術などを通じて「自分たちは同じ国民である」という共通のイメージをつくり出し、人々の間に一体感と帰属意識を育てることで、国民国家の形成を後押しした。

ヨーロッパ近代文明へのまとまり
こうして、国民文化は国民国家の広がりと共に、ヨーロッパ各地へ浸透していきました。
その背景にも鉄道や電信・新聞などの技術革新があって、国民文化を都市から地方へ、 市民から国民一般へと広げていくことができたんです。
19世紀末には、ヨーロッパの国民文化は全体として 「ヨーロッパ近代文明」としてまとまり、 世界に影響を与えるようになっていきました。

ただし、ここで重要なのは、文化が完全に入れ替わったわけではないという点でした。
19世紀は“さまざまな文化が共存”した時代でもありました。
貴族文化は市民文化に取り込まれ、 市民文化は国民文化に取り込まれ、 それぞれが形を変えながら残り続けました。

例えば、音楽家のショパンは「貴族サロンのピアニスト」として知られていますが、 19世紀後半には、彼の曲は市民の家庭ピアノの教材としても広まりました。貴族文化の象徴だった音楽が、 市民文化の中に取り込まれた典型的な例ですね。

19世紀ヨーロッパの文化の流れをまとめると、 次のようになります。
・貴族文化・・・宮廷・教会が中心
↓
・市民文化・・・都市の公共空間と科学が支える
↓
・国民文化・・・貴族文化と市民文化を融合した、国民国家を形成する文化へ
このように、文化の担い手が広がっていくことで、 国家の統合が進んでいき、国民国家が成立していきました。

19世紀は「文化の民主化」が進んだ時代だったと言えますね。
そして、次第にヨーロッパの人々は「近代ヨーロッパ文化が世界の基準」と考えるようになっていき、19世紀末には、
世界=“欧米文明世界”
中国・インド・日本など=“文明途上世界”
アフリカなど=“未開世界”
という、ヨーロッパ中心主義的な見方が広がっていくことになりました。

まとめ
MQ:なぜ19世紀のヨーロッパでは、文化の担い手が「貴族」から「市民」、そして「国民」へと広がっていったのか?
A:フランス革命から市民が政治の主役になり、産業革命で都市に人が集まり、教育・公共施設・メディアが整備され、さらに国民国家が国民を統合するために文化を利用したため。

今回はこのような内容でした。

次回は、国民文化の展開についてみていきます。国民文化は国民国家の形成にどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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