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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はドイツの統一についてです。なぜプロイセン主導の「小ドイツ主義」で実現したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜドイツの統一は、プロイセン主導の「小ドイツ主義」で実現したのか?
ウィーン体制下のドイツ
ウィーン会議後のドイツでは、“ドイツ連邦”がウィーン体制の守護者として自由主義や立憲主義を徹底的に抑圧していました。
検閲は厳しく、大学などの学問でも思想統制が強化されて、学生運動(ブルシェンシャフト)も弾圧されました。
しかし、こうした停滞ばかりではなかったんです。
プロイセンの主導によって“ドイツ関税同盟”が成立して、領邦をまたぐ市場(経済)の統一が実現されました。
それによってドイツでは鉄道建設が進んでいき、産業革命の波がゆっくりと広がっていきました。
しかし、人口増加が急速に進んでいくわりには、ドイツ産業はイギリスなどに比べるとまだまだ未熟な状況でした。
そして、1840年代には「社会問題」と呼ばれる都市貧困・失業・農村の困窮が深刻化していき、これが後の革命の火薬庫になっていくことになりました。

1848年革命とフランクフルト国民議会
「大ドイツ主義」か「小ドイツ主義」か
1848年、ヨーロッパを革命の嵐が襲います。

1848年革命のことですね。
ドイツでも「三月革命」が起こり、封建的特権の廃止など自由主義改革が進んでいきました。
そして、その象徴になったのが、フランクフルト国民議会でした。
ここで議論の中心となったのが、「ドイツ統一をどの範囲までにするか」という内容でした。

ここからは[13-1.8]1848年革命②(諸国民の春)で説明したものを、もう少し深掘りしていきますね。
SQ:なぜ国民議会の統一構想は頓挫してしまったのか?
1848年革命の熱気の中で開かれたフランクフルト国民議会は、ドイツ統一を実現するために初めて「ドイツ人自身が自らの国家のあり方を議論する場」でした。
しかし、議会では、
・大ドイツ主義・・・オーストリアを含む統一
・小ドイツ主義・・・オーストリアを除外し、プロイセン主導で統一
のどちらを採用するかで激しく対立しました。

最終的に国民議会では小ドイツ主義が採用されます。
これはオーストリアが多民族国家であり、ドイツ人以外の領域が広大だったので、その巨大国家を統一国家に組み込むと、ドイツ人の意思決定が弱まる恐れがあったからでした。

あと、当時のオーストリア帝国を従わせるだけの実力を持っている領邦がいなかったんです。
こうして、ドイツで一番の勢力を誇り、現実的に小ドイツ主義で統一が実行可能なプロイセン国王を頂点とした立憲君主制・連邦制の新国家構想がまとめられました。
1849年には憲法も成立し、議会では「ドイツ統一が実現する」という期待が広がりました。
しかし、ここで最大の悲劇が起こります。
当時のプロイセン王が、皇帝の位をきっぱりと拒否してしまったんです。
プロイセン王がなぜ断ったかというと、

革命の産物である泥まみれの王冠は受け取らない。
と考えたからでした。
これは、「王位=神から授けられるもの(王権神授説)」であり、民衆の代表である議会から受け取るものではないという考えからでした。
さらに、プロイセン王はオーストリア帝国との関係も重視していたので、議会が勝手に「プロイセン中心のドイツ」を決めることにも強い抵抗感を持っていました。
こうして、国民議会のドイツ統一は完全に頓挫してしまうことになってしまいました。
この出来事は、「理想だけでは国家はつくれず、実力を持つ国家が主導しなければ統一は進まない。」 ということを示していました。
統一を実行する「主体」と「権威」を確保できなかったため。

ビスマルクの鉄血政策
プロイセンでは、政府や軍部などの中央政府はユンカー層が独占していましたが、1848年革命の影響で自由主義者が議会で議席を伸ばしていき、多数派になっていきました。
なので、王権を維持したい国王と、自由主義を進めたい議会との間で次第に対立が深まっていき、政治が膠着状態になってしまいます。
このなかで、ヴィルヘルム1世がプロイセン国王に即位すると、ドイツ統一に向けた軍制改革を行おうとします。

しかし、議会は国家予算を圧迫するなどの理由で反対し、対立がさらに激化していきました。
なので、この問題を解決するために、国王がユンカー出身で強硬な保守派として首相に任命したのが、ビスマルクという人物でした。


当時のドイツは、議会ではなく国王が首相を任命できたんです。

就任直後の議会演説で、ビスマルクはこう演説しました。

現在の大問題は、演説や多数決ではなく、“鉄と血”によって解決される
こうして、ビスマルクは議会の反対を無視して軍拡を進めて、予算を強行的に執行させていきました。

この演説で、ビスマルクは「鉄血宰相」と呼ばれるようになりました。
プロイセンが軍事的に強くなるためには、議会や言論は無視することを宣言したんです。
なので、先ほどの演説から、このビスマルクによる軍国主義政策を「鉄血政策」と呼びます。

デンマーク戦争
このビスマルク政権でまず起こったのが、シュレズヴィヒ・ホルシュタイン地方をめぐって起こったデンマーク戦争でした。
ユトランド半島南部のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方は、中世以来デンマーク王国の支配下の地域でした。

デンマークがカルマル同盟の盟主だった頃に支配下に入りました。
しかし、北部のシュレスヴィヒではデンマーク系住民が多い一方、南部のホルシュタインではドイツ系住民が多く、しかもホルシュタインはドイツ連邦に加盟していたという複雑な構造になっていました。

つまり、デンマーク王国の領域でありながら、ドイツとも深く結びついた「二重性」をもつ地域だったんです。

そして、19世紀前半に、ナショナリズムがヨーロッパ各地で高まると、ホルシュタインのドイツ系住民が「ドイツへの併合」を求めるようになり、デンマークと対立するようになっていきます。
デンマークはこれに対して、シュレスヴィヒ・ホルスタインの支配をさらに強めようとします。
これに対してドイツ側は強く反発し、ドイツ系住民のホルシュタインでは「デンマーク化」への抵抗が激しくなっていました。
そして、この状況を巧みに利用したのがプロイセン首相ビスマルクだったんです。
プロイセンは勢力拡大の最中で、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをデンマークから奪う機会を狙っていました。
一方、オーストリアはドイツ連邦内での主導権を維持するために、プロイセンと協力する道を選びます。
こうしてプロイセンとオーストリアは共同でデンマークへ宣戦布告することになり、デンマーク戦争が勃発しました。

この戦争で、プロイセン軍は近代的な兵力でデンマークを圧倒します。
その結果、デンマークは敗北して、シュレズヴィヒ・ホルシュタインをプロイセンとオーストリアへ割譲することになりました。
勝利したプロイセンとオーストリアは、
シュレスヴィヒ・・・プロイセン管理
ホルシュタイン・・・オーストリア管理
という形で分割統治をおこなうことになりました。
しかし、この体制によって両国の関係は崩れていくことになります。
プロイセンはどちらも自国に吸収したいと考えていて、オーストリアはプロイセンの拡張を阻止してドイツ連邦の主導権を守ろうとしていました。
なので、次第に両国は衝突を繰り返すようになり、共同管理はすぐに機能不全に陥ってしまいました。

プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)
対立が激化したプロイセンとオーストリアは、ついに武力衝突へと踏み切り、プロイセン=オーストラリア戦争(普墺戦争)が始まりました。
この戦いでは、プロイセン軍が最新式の銃を使っていたことと、鉄道で兵士を高速で輸送できたことで、多民族国家であるがゆえに、兵士の動員に時間がかかる旧式のオーストリア軍を圧倒していきました。
こうして戦争はプロイセンの圧勝に終わり、「七週間戦争」と呼ばれるほど短期間で決着がつきました。
勝利したプロイセンは、オーストリアに対して、「ドイツ再編に参加しないこと」を要求しました。

領土よりも、統一の主導権を確実に握ることを優先したんです。
その結果、ドイツ連邦は解体されることになり、プロイセンは北ドイツ全域に勢力を拡大することになりました。
そして、北ドイツ22か国をまとめた北ドイツ連邦が発足されました。

これが、後のドイツ帝国を成立させる基礎になっていきます。
おまけに、その戦争に勝利したことで、議会の自由主義者とも和解が進んで、ビスマルクの政治はさらに強固になっていきました。

オーストリア=ハンガリー帝国の成立と民族問題
二重帝国の成立
普墺戦争でドイツから排除されたオーストリアは、国内の改革を迫られます。
さらに、プロイセンと同盟して参戦したイタリア王国に対しても、ヴェネツィアを割譲することになりました。
そうして、勢力が弱体化した帝国に対して、ハンガリーをはじめとした諸民族が独立を要求するようになります。

オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世はこの危機を抑えるために、ハンガリーを形式的に独立させる妥協策であるアウスグライヒを結びます。
そして、この妥協によってオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が成立することになりました。
・オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世がハンガリー王を兼ねる「同君連合」
・オーストリアとハンガリーはそれぞれ別の議会と政府を持つ
・ただし外交・軍事・財政の実権はオーストリア側が保持
このように、形式上は対等な連合でしたが、実質的にはオーストリアによる広大な帝国支配が続くことになりました。

帝国の領域には、現在のオーストリアとハンガリーだけでなく、チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア、クロアチア、南チロル、トリエステなどさまざまな民族地域が含まれていました。


二重帝国が抱えた民族問題
このアウスグライヒは、ハンガリーの民族運動を治めるための妥協でしたが、逆にチェコ人やクロアチア人などのスラヴ系民族の不満を強めることになってしまいました。
ハンガリーだけが特別扱いされる形になり、他の民族には自治を認められなかったことが原因でした。
そのためオーストリア=ハンガリー帝国は政治が安定しないまま20世紀へ突入していくことになります。

この民族問題は、後に第一次世界大戦へとつながる要因の一つになっていきます。

ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)とドイツ帝国の誕生
ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)
一方、フランスではナポレオン3世が、プロイセンの台頭を警戒していました。
ビスマルクは巧みにフランスを挑発して、ナポレオン3世は挑発に乗る形で開戦に踏み切ることになり、ドイツ=フランス戦争(普仏戦争)が始まります。

普仏戦争については、[13-2.4]列強新体制(フランス編)で一度説明しているので、詳しい内容は、リンクからご覧ください。
プロイセン軍は北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦と協力してフランス軍を圧倒していき、 最終的にナポレオン3世を捕虜にすることに成功して、プロイセン率いるドイツ連合軍が戦いを圧倒的優勢に進めていきました。

この普仏戦争での勝利は、南ドイツ諸邦をドイツの統一に引き寄せる決定打となりました。

ドイツ帝国の誕生
普仏戦争でドイツ連合軍の圧倒的な優勢が確定すると、ビスマルクは南ドイツ諸邦と合意をまとめて、「ドイツ帝国」を国号とする新たな連邦体制を成立させます。
そして、その式典の舞台となったのが、占領したばかりのフランス王宮のヴェルサイユ宮殿“鏡の間”でした。

パリ包囲戦の最中に、敵国の王宮で統一式典を挙げるという演出は、ビスマルクの海外に向けた権威のアピールでした。ドイツにとってはまさに「どや顔」の演出であり、フランスからすると「屈辱」以外の何物でもありませんでした。
そこでプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位して、ここにドイツ帝国が成立しました。
その後、普仏戦争が正式に終結して、講和条約によってドイツ帝国の国境が確定することになり、プロイセンを中心としてドイツの統一が達成されました。

この講和条約で獲得したアルザス・ロレーヌはその後も両国の対立の火種になり、第一次世界大戦へとつながる長期的な緊張を生むことになりました。


まとめ
MQ:なぜドイツの統一は、プロイセン主導の「小ドイツ主義」で実現したのか?
A:オーストリアが多民族帝国ゆえに統一国家の主体になれず、統一の「権威」と「実行主体」が確保できなかった一方、プロイセンが軍事力・行政力・経済力を背景に、ビスマルクの鉄血政策によって統一を現実的に遂行できる唯一の国家となったから。

今回はこのような内容でした。

次回は、ドイツ帝国のビスマルク外交についてみていきます。ビスマルクはどのような政策で“ドイツ人”という意識を持たせていったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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