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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は近代諸科学の2回目として「自然科学・工業・探検」についてみていきます。なぜ19世紀の科学は生活だけでなく、人々の考え方まで変えたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ19世紀後半の科学技術の発展は、人々の生活だけでなく、世界の見方そのものを変えたのか?
ダーウィンの「進化論」
19世紀は近代科学が大きく発展した時代でしたが、その中でも特に大きな影響を与えたのが生物学でした。
その代表的な存在だったのが、イギリスのダーウィンでした。

ダーウィンは『種の起源』を出版して、それまで通説だった「生き物は神によって創造されたもの」ではなく、「長い年月をかけて少しずつ変化しながら現在の姿になった」と主張しました。
これを進化論といいます。
きっかけは、1831年から南アメリカ沿岸の測量のために、約5年間にわたって世界周航したことでした。
彼はそこで各地の動植物や地形を詳しく観察しました。
特にガラパゴス諸島では、島ごとに少しずつ特徴の異なる鳥や動物が生息していることを発見します。
こうした観察を通して、生物は最初から現在の姿で存在したのではなく、環境に合わせて変化してきたと考えたんです。

ダーウィンは、生物は限られた食料や生活空間をめぐって絶えず生存競争をしていると主張しました。
その中で、環境により適した特徴をもつ個体が生き残り、子孫を残しやすくなり、その特徴が次の世代へ受け継がれていくことで、生物は少しずつ変化していくと考えました。
この仕組みを「自然淘汰」といいます。

たとえば、寒冷な地域では寒さに強い特徴をもつ個体が生き残りやすくなります。逆に、その環境に適応できない個体は生存が難しくなります。
このような過程が何万年、何百万年という長い時間をかけて繰り返されることで、新しい種類の生物が生まれる、つまり“進化”する考えたんです。

SQ:なぜダーウィンの進化論は人々に大きな衝撃を与えたのか?
しかし、この進化論は、当時のヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えました。
19世紀のヨーロッパではキリスト教の影響が依然として強く、多くの人々は生物を神が創造したものであると信じていました。
ところがダーウィンは、人間もまた他の生物と同じように進化の過程で生まれた存在だと説明しました。
つまり、人間は自然界の特別な例外ではなく、生物界の一員に過ぎないと言ったんです。
これは、当時の人間中心の価値観に大きな疑問を投げかけました。
そのため、進化論はただの生物学上の学説にとどまらず、宗教観や社会の価値観に大きな影響を与えました。
ダーウィン自身をサルの姿で描いた風刺画が雑誌に掲載されるなど、世間では激しい議論が起こりました。

一部の宗教関係者は「人間が神の特別な創造物ではないというのは受け入れられない」として強く反発しました。

しかし、その後の生物学や遺伝学の発展によって、進化論は科学的な根拠を持つ理論として広く支持されるようになっていくことになりました。

現代では、生物の進化という考え方は生命科学の基本原理の一つとなっているんです。
人間も他の生物と同じように進化した存在であると説明し、当時のキリスト教的な世界観や人間中心の価値観に大きな疑問を投げかけたため。

メンデルと遺伝の法則
同じ頃、生物学の分野で重要な研究をしていたのが、オーストリア=ハンガリー帝国で活動したメンデルでした。


正確には、現在のチェコでした。
メンデルは修道院の庭でエンドウ豆を育てるなかで、長年にわたって交配実験を繰り返しました。

エンドウ豆は花の色や種の形など特徴が分かりやすく、研究に適していたんです。
ちなみに、メンデルは貧しい農家出身だったので、学者になれず、修道院の司祭や学校教師をしながら研究していたんですよ。
その結果、親の特徴がどのように子へ受け継がれるのかには、一定の規則があることを発見したんです。
この研究は、現在「メンデルの法則」と呼ばれていて、遺伝学の出発点となる歴史的な発見になりました。
しかし、当時はまだ遺伝の仕組みがまだ十分に研究されていなかったので、その重要性がほとんど理解されなかったんです。
そして、メンデルは自分の発見が高く評価される姿を見ることなく亡くなってしまいます。
ところがその後、20世紀の初めになると、研究者たちがメンデルの論文に注目するようになり、「メンデルの法則」として世界中に知られるようになりました。
その後、この研究は遺伝学の基礎になり、現代の医学や農業、生物工学の発展にも大きな影響を与えることになりました。

医学の進歩
パストゥール
19世紀後半になると、医学はそれまでとは比べものにならないほど大きく進歩しました。
それまでは、病気がなぜ起こるのかを正確には理解されていませんでした。

病気は悪い空気や神の罰によって生じると考えられていました。
しかし19世紀後半になると、病気の原因を科学的に解明しようとする研究が急速に進みます。
その中心人物の一人が、フランスの科学者パストゥールです。

彼はもともとは化学者でしたが、発酵の研究を通して微生物が重要な働きをしていることを発見しました。
さらに、ワインや牛乳が腐敗するのは微生物の活動によるものであることを明らかにし、加熱によってそれらを防ぐ方法を考案しました。

これが現在の「低温殺菌法(パスチャライゼーション)」のもとになっています。
パストゥールはその後、病気の研究へと進みました。
彼は病気が自然に発生するのではなく、微生物や病原体によって引き起こされることを明らかにし、細菌学の発展に大きく貢献しました。
また、弱らせた病原体を利用して免疫をつくる研究を進めて、「ワクチン」という考え方を発展させたんです。
狂犬病や家畜の病気に対するワクチン開発は多くの命を救い、医学だけでなく農業や畜産業の発展にも大きな影響を与えました。

フィルヒョー
一方ドイツでは、フィルヒョーが病気は細胞の異常だとする「細胞病理学」を提唱しました。

彼は人体が細胞によって構成されていることに注目し、病気の原因を体内の細胞の変化から説明しようとしました。
この考え方は近代医学の基礎になり、病気を科学的に分析する流れを生み出しました。
コッホ
さらにドイツの医師コッホは、細菌学を実験にもとづいて「学問」として確立させました。

コッホは細菌を培養して、顕微鏡で観察する方法を改良しながら研究を進めていました。
そして1882年には結核菌を発見し、翌1883年にはコレラ菌も発見します。
特定の病気には特定の病原菌が存在することを証明したことは、伝染病研究を大きく前進させることになりました。

ベルリンに設立された伝染病研究所では多くの研究者が育成されて、日本の北里柴三郎などにも大きな影響を与えたんですよ。

衛生の向上と寿命の進歩
こうした細菌学や医学の進歩は、社会の衛生意識の向上にもつながりました。
病気の原因が細菌であることが分かると、都市では上下水道の整備が進められて、飲み水の安全性が向上しました。
また、消毒や手洗いの重要性も認識されるようになり、“公衆衛生”という考え方が普及していきました。
その結果、感染症による死亡者数は徐々に減少していき、幼児死亡率も低下していきました。
さらに平均寿命も伸びていき、多くの人々が以前より健康で長い人生を送れるようになっていったんです。

レントゲンによるX線の発見
19世紀末になると、科学の世界では人々を驚かせる大発見が生まれました。
それが、ドイツの物理学者レントゲンによるX線の発見です。

レントゲンはある晩、暗い実験室で実験を行っていたところ、厚い黒い紙で覆われた実験装置の近くにあった蛍光紙が光っていることを発見します。
本来なら光が届くはずのない状況だったため、レントゲンは何らかの新しい放射線が発生しているのではないかと考えました。
研究を進めていくと、この放射線には物体を透過する性質があることを突き止めます。
正体不明だったため、数学で未知数を表す「X」を使い、「X線」と名付けられました。

その性質を確かめるために最初のX線写真の被写体になったのが、妻の手だったんです。現像写真には手の骨がはっきりと写って、指にはめた指輪まで確認できたといいます。この画像は世界中の人々に大きな衝撃を与えました。
現在、X線写真を撮ることを「レントゲンを撮る」というのは、発見者からきているんですね。
当時の医学では、骨折や体内の異常があっても、医師は患者の身体を切開しない限り内部の状態を直接確認することができませんでした。
しかし、X線で身体の内部を画像として映し出せるようになったことで、診断の正確さが飛躍的に向上することになりました。
こうして、物理学の研究成果が医学の発展に大きく貢献することになったんです。

この功績が高く評価され、レントゲンは1901年に創設された第1回ノーベル物理学賞を受賞しているんですよ。

電気と化学
SQ:なぜ19世紀後半は「電気の世紀」の出発点と呼ばれるのか?
ファラデー
19世紀後半、人々の生活を最も大きく変えた技術の一つが“電気”でした。
その基礎を築いたのが、イギリスの科学者だったファラデーによる電磁誘導の研究でした。

ファラデーはもともと貧しい家庭に生まれながら、独学で科学を学び続けて、「磁石の力によって電流を生み出せる」という電磁誘導を発見しました。
この発見は発電機の開発につながっていき、後の電力利用の出発点になりました。

この研究を土台として、多くの発明家たちが新しい機械や通信手段を生み出していきます。
モールス
アメリカのモールスは1837年に電信機の実験に成功して、モールス信号を考え出しました。

1844年にはワシントンとボルティモアを結ぶ電信網が実用化され、遠く離れた場所へ短時間で情報を送れるようになりました。

従来なら数週間かかっていた連絡が数分で届くようになりました。
ちなみに、モールスはもともと画家だったんですが、妻の危篤の知らせが遅れて最期に立ち会えなかった経験をきっかけに遠距離通信の研究を始めたそうですよ。
その後、海底電信ケーブルによって国境や海を越えた通信も可能になりました。
1866年には大西洋横断ケーブルが完成し、イギリスとアメリカが電信で結ばれて、世界各地が通信網によってつながるようになり、「世界の一体化」がさらに加速していくことになりました。

ベル
続いて、ベルは電話を発明し、文字だけでなく「声」を直接遠くへ届けられるようになりました。

エディソン
さらに、エディソンは実用的な電灯を開発し、工場や家庭、都市の夜の風景を大きく変えました。

夜でも安全に活動できるようになったことで、人々の生活や経済活動の幅は大きく広がりました。

ちなみに、開発された白熱電球のフィラメントには、“日本の竹”が使われたんですよ。

マルコーニ
そして19世紀末には、イタリアの発明家マルコーニが無線電信の実験に成功しました。

1901年には大西洋を横断する無線通信が実現して、電線を使わずに情報を送る時代が始まりました。
この技術は後のラジオや無線通信、さらには携帯電話やWi-Fiへと発展していくことになります。


このように、19世紀後半の通信革命は人々の生活を大きく変えただけでなく、世界を急速に結びつけていきました。
現代ではスマートフォン1台で世界中の人々と瞬時につながることができますが、その原点は、ファラデーの電磁誘導の発見から始まった電気と通信の革命にあったといえますね。
ファラデーの電磁誘導の発見をもとに発電技術が発達し、電信・電話・電灯・無線通信などの新しい技術が次々に実用化されたことで、電気が人々の生活や産業、通信を大きく変え、現代社会の基礎が築かれたから。
化学工業と自動車の登場
化学工業
化学工業も大きく成長しました。
特にドイツでは有機化学の研究が進み、石炭や石油を原料とする合成化学工業が発展します。
その代表が合成染料です。
それまで世界市場では藍など天然の染料が重要な商品でした。

自然界のものから「青」を出すのは、非常に難しいらしいですよ。
しかし、人工的に大量生産できる合成染料が普及すると、市場は急速に変化しました。
これは各地の伝統産業にも大きな影響を与えました。
科学の進歩は便利さを生み出す一方で、既存の産業を衰退させることもあったんです。

自動車の登場
19世紀後半には自動車開発も進みました。
初期には蒸気や電気を利用した自動車もありましたが、あまり実用的とはいえませんでした。
そこで開発されたのが、ドイツのダイムラーによるガソリンエンジンでした。

この発明によって、自動車はその後急速に普及していくことになりました。

今日では当たり前の自動車も、この時代の技術革新によって実現したものだったんです。

未知への関心と世界探検
19世紀後半には科学技術が発展しましたが、ヨーロッパ人にとって世界にはまだ多くの「空白地帯」が存在していたんです。
探検の目的は単なる冒険ではありませんでした。
資源の調査、新しい動植物の発見、地理情報の収集、学術研究などさまざまな目的がありました。
また各国は探検によって得られた情報を植民地支配にも利用しました。

アフリカ内陸部への探検
当時のヨーロッパ人はアフリカの沿岸部については知っていましたが、内陸部はほとんど未知の世界でした。
そこで、イギリスの宣教師リヴィングストンがアフリカ各地を調査しました。

彼はもともとキリスト教の医療伝道師としてアフリカに渡り、奴隷貿易の廃止を訴えながら探検を続けました。
そして、カラハリ砂漠を越えて内陸へ進み、ヴィクトリア滝をヨーロッパに紹介するなど、アフリカの地理を明らかにするうえで大きな役割を果たしました。
また、ナイル川の源流を探査していた際には消息不明になってしまい、探検家スタンリーによって発見されたことでも有名です。

この出来事は当時のヨーロッパで大きな話題となり、アフリカへの関心をさらに高めました。

さらに、スタンリーはその後コンゴ川流域を探検して、ヨーロッパ人として初めてコンゴ川を上流から河口までたどることに成功しました。

しかし、この探検は単なる地理的な発見にとどまりませんでした。
スタンリーはベルギー国王レオポルド2世に協力して現地の首長と条約を結び、その結果、コンゴ自由国の建設にとつながっていきました。
このように、19世紀のアフリカ探検は地理的知識を広げる重要な成果をもたらしました。
しかしその一方で、探検による「発見」はヨーロッパ諸国による植民地支配の足がかりになり、後のアフリカ分割へと結びついていくことにもなりました。

極地探検
20世紀初頭になると、南極や北極は「最後の秘境」と呼ばれ、人類に残された最大の探検の舞台になりました。
各国は科学的な調査を進めると同時に、国家の威信をかけて極点到達を競うようになります。
北極では、アメリカの探検家ピアリーが1909年に北極点へ到達したとされ、大きな注目を集めました。


しかし、その到達地点や記録については後に疑問も指摘され、現在でも議論が続いています。
そのような中、ノルウェーの探検家アムンセンは初めは北極点を目指していましたが、目標を南極点へ変更します。

そして1910年に南極へ向かい、イギリスのスコット隊との激しい到達競争を繰り広げます。
アムンセン隊は犬ぞりを効果的に活用し、1911年12月14日、人類で初めて南極点到達に成功しました。

一方のスコット隊も約1か月後に南極点へ到達しましたが、すでにアムンセン隊の旗が立てられていました。さらに帰路では極寒や食料不足に苦しみ、隊員全員が命を落とします。この悲劇は世界中に大きな衝撃を与えました。
ちなみにアムンセン自身も、1928年に北極探検の遭難者救助に向かう途中で行方不明となっており、極地探検の危険さを物語っています。

SQ:なぜ欧米諸国は世界各地の探検に熱中したのか?
未知の地域の地理や資源、動植物などを調査して科学的知識を広げるとともに、その情報を植民地支配や国力の拡大に活用するため。
科学の発展が生んだ光と影
こうした科学技術の発展によって、人類は自然を理解し、病気を克服し、世界中を移動し、通信できるようになりました。
しかしその一方で、欧米諸国は自らの文明への強い自信を抱くようになります。
そして「近代化に成功した欧米こそが進歩した文明である」という考え方が広がっていきました。
その結果、アジアやアフリカの人々を「遅れた存在」とみなす欧米中心主義が強まっていきます。
ダーウィンの進化論を誤って社会に当てはめた社会進化論も広まりました。
これは人種間の優劣や植民地支配を正当化する理論として利用されることになります。
1889年のパリ万国博覧会では、植民地の人々が展示物のように扱われる出来事までありました。
近代科学は人類に大きな恩恵を与えましたが、その成果が差別や支配の正当化に利用されることもあったんです。
まとめ
MQ:なぜ19世紀後半の科学技術の発展は、人々の生活だけでなく、世界の見方そのものを変えたのか?
A:人々は病気や自然現象を科学的に説明できるようになり、生活も便利になった。また、ダーウィンの進化論によって宗教的な世界観や人間中心の価値観が見直され、人間や世界の見方も大きく変化したため。

今回はこのような内容でした。


次回は、「近代大都市文化」についてみていきます。都市の景観はどのように変化していったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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