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はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はモンゴル軍が西アジアに建国したイル=ハン国についてです。イル=ハン国は西アジアにどんな影響を与えたのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:モンゴル勢力のイル=ハン国は西アジアにどんな影響を与えたのか?
今回の時代はここ!
モンゴル勢力の西アジア侵入
[6-2.2]アイユーブ朝がエジプト・シリアに台頭していた12世紀末ごろの西アジアでは、十字軍の進出によって西ヨーロッパとの交流が始まり、複雑な社会を作り上げていました。
しかし、13世紀の中頃になると、新たな勢力が西アジアに現れます。
東アジアからやってきたモンゴル帝国率いるモンゴル勢力です。
モンゴル帝国は13世紀初めにチンギス=ハンによってモンゴル高原に誕生した遊牧国家でした。
その後、モンゴル帝国は勢力を急拡大していき、4代目のモンケ=ハンの命令によって、弟であるフレグがモンゴル軍を率いて西アジアに侵攻してきたんです。
フレグは西アジアのイスラーム勢力を征服するために大軍を率いて、シーア派イスマーイール派の勢力を滅亡させ、そのままスンナ派の宗主国であるアッバース朝にも牙をむけます。
そしてバグダードはモンゴル軍に包囲されてしまい、20日間の攻防のすえ、首都バグダードはモンゴル軍に侵入を許してしまい、数十万人もの人々が殺されてしまうほど蹂躙(じゅうりん)されてしまいました。
その時にカリフも殺害されてしまったことで、約500年続いたアッバース朝は滅亡して幕を閉じることとなってしまいました。
まあカリフは最後のほうは宗教的権威だけでしたが、、、
イル=ハン国の成立とイスラーム化
成立
アッバース朝を滅ぼしたフレグでしたが、その当時はまだモンゴル帝国4代目のモンケ=ハンの命令で遠征していたので、独立国家を作ることはありませんでした。
しかし、君主のモンケ=ハンが亡くなったことで事態が急変します。
弟だったフレグは継承者になろうと首都のカラコルムに帰ろうとしますが、途中で兄弟のフビライ=ハンが後継者として即位したことで、後継者を諦めて支配していた西アジア(イラン・イラク)に新しい国家を成立させることにしたんです。
それによって誕生したのが、イル=ハン国という王朝でした。
イスラーム化
イル=ハン国はモンゴル系のフレグによって建国されたので、はじめの頃はモンゴル民族の伝統を重視していました。
モンゴル民族は自然崇拝をする民族だったので、西アジアに広がっていた一神教のイスラーム教の価値観を受け入れることができなかったんです。
モンゴル帝国やイル=ハン国のようなモンゴル政権では、多民族を抱える遊牧国家だったので、宗教には比較的寛容的でさまざまな宗教が国内で信仰されていました。
しかし、時が経って7代目のガザン=ハンの治世になると、ガザン=ハンがイスラーム教に改宗して、イル=ハン国はイスラーム政権になったんです。
SQ:なぜガザン=ハンはイスラーム教に改宗したのか?
ではなぜイスラーム教を受け入れられなかったモンゴル系のイル=ハン国は、イスラーム政権となったんでしょうか?
まずは西アジアのイラン・イラクに住んでいたのはどんな民族の人たちでしたか?
イラン系民族の人たちです!
そうでしたね。西アジアはイラン系イスラーム教徒が多く住む地域でしたね。
西アジアは古代から先進的な文明や帝国が繁栄した地域だったのと、シルク=ロードを有する東西交易の中継地でもあったことから、ムスリム商人を中心とする巨大な商業圏がありました。
なので、文化や交易の中心を担っていたのがイラン系民族だったことから、徐々にイル=ハン国でイラン化が進んでいったんです。
イラン人に頼らないとやっていけなかったんですね。
加えて、国内のムスリム商人も大半がイラン系民族だったので、国内の先進的な文化を持つイラン系民族を上手く利用し、イラン系ムスリム商人の交易を活発にするためにガザン=ハンはイスラーム教徒になったというわけなんです。
これによってトルコ系政権のイル=ハン国はイスラーム政権として西アジアに君臨することになったんです。
ちなみにそれまで宗教に寛容的だったのが、イスラーム政権となったことで、他宗教の信仰は禁止されてしまったそうです。
行政改革と東西交易
行政改革
イラン化が進んだことで、行政でもイラン系の官僚が多く採用されて改革がおこなわれました。
これはトルコ系イスラーム政権のセルジューク朝でもおこなわれていましたね。
なかでもイラン系の宰相ラシード=アッディーンは財政改革など、ガザン=ハンのもとでイル=ハン国のイスラーム化をおこないました。
彼は歴史家としても有名ですが、それについては後の文化のところで説明しますね。
ラシード=アッディーンは、それまでモンゴル式の税制から土地税(ハラージュ)を中心としたイスラーム式の税制に整え直し、軍事俸給もイクター制を導入してイスラーム化政策を推進していきました。
交易の活発化
経済面では、モンゴル帝国によってユーラシア大陸や海域が東西で結ばれ、交易路(交通網)が発達していました。
イル=ハン国はその交易路が発達したことを背景に、ムスリム商人を介した交易が活発になり、経済的にも発展することができたんです。
イラン=イスラーム文化
イル=ハン国の文化では、東西交易によって東アジアの文化にも影響を受けて、絵画や陶器などの芸術が好まれるようになっていきました。
文化の中心ははやりイラン系民族だったので、多くのイラン人が芸術や文化で活躍しました。
さきほど紹介した宰相ラシード=アッディーンもそのうちの一人で、宰相だけでなく歴史家として世界初の「世界史」といえる『集史(しゅうし)』を編纂して、モンゴル史の重要な資料となっています。
モンゴル史の他にも、ユダヤ、ペルシア、イスラーム、トルコ、中国、インド、フランクなどの歴史も編纂されたことから史上初の「世界史」と呼ばれているんです。
SQ:なぜ宰相ラシード=アッディーンは『集史』を編纂したのか?
ラシード=アッディーンは宰相という役職をこなしながら、この『集史』を編纂していたので多忙を極めていました。
あまりに多忙だったので、日の出とともに作業を始めて時には移動中の馬の上でも作業をしていたそうですよ。(一部引用:集史)
では彼はなぜわざわざ世界史である『集史』を編纂したんでしょうか?
それは君主だったガザン=ハンの統治の正当化にありました。
7代目ガザン=ハンの時代は、モンゴル帝国ができてからすでに100年弱経っていたので、モンゴルの歴史だったり他のモンゴル政権(元など)との関係性が曖昧になってきていたんです。
そこで君主だったガザン=ハンが、
モンゴル帝国の歴史を知ることでモンゴル政権の威厳を示し、その子孫であるの私の支配を正当化するんだ!
ということで、宰相ラシード=アッディーンにモンゴル史の編纂を命令したというわけなんです。
ちなみにガザン=ハンは若くして亡くなってしまったので、次期君主の時代に『集史』は完成しました。モンゴル史に加えて他の文明の歴史の編纂を命令したのはこの時期君主だったそうです。
イル=ハン国が東西世界の中継地だったことが功を奏したと考えられますね。
他には、詩人だったハーフィズは、アラビア語で恋や酒についての詩を残し、現在のイランでも愛読されています。
これらイラン系民族が文化の中心になったことで、イル=ハン国はモンゴル政権でありながらイラン=イスラーム文化が花開きました。
まとめ
MQ:モンゴル勢力のイル=ハン国は西アジアにどんな影響を与えたのか?
A:ガザン=ハンの治世にイスラーム化したことでイラン系ムスリムによるイラン=イスラーム文化が発展し、モンゴル帝国の交易網を利用したユーラシア東西交易によって経済的にも発展を遂げた。
今回はこのような内容でした。
次回はエジプトに新たに誕生するマムルーク朝についてです。マムルーク朝によってカイロ含めるエジプトはどうなっていったんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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