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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は世界帝国として君臨したモンゴル帝国の分裂と衰退についてです。モンゴル帝国が分裂・衰退してしまった原因とはいったい何だったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:モンゴル帝国が分裂・衰退してしまった原因とは?
国力の低下
東西ユーラシアを統合して巨大帝国を築いたモンゴル帝国によって、ヒト・モノ・情報の交流がユーラシア大陸規模で起こりましたよね。
それによって大きく文化発展することになったんですが、交流が起きたのはこれだけではなかったんです。

モンゴル帝国が最も領土が大きかったのは14世紀頃なんですが、この頃ヨーロッパでは何が起こっていたか覚えていますか?
モンゴル帝国が最大領土に達して交易路が整備された14世紀頃、ヨーロッパではある出来事でパニックに陥っていたんです。
そう、黒死病(ペスト)の蔓延です。
ヨーロッパではこの黒死病(ペスト)によって数千万人規模で人が亡くなり、封建社会の封建の一要因になるなど、社会の仕組みを変えるほどの威力を持っていました。
この黒死病(ペスト)は、ペスト菌を持っているノミに寄生されたネズミが、商船に忍び込んでヨーロッパに運び込まれたことが感染の始まりでした。

中央アジアの草原地帯からペスト菌が拡散されていったといわれているんですが、当時、中央アジアはどこが支配していましたか?
そう、モンゴル帝国ですよね。
モンゴル帝国は東西ユーラシアを繋ぐ交易路を整備していたので、このペスト菌は交易路(シルク=ロード)を伝ってヨーロッパだけでなく、モンゴル帝国にも感染が広がっていったんです。


ここで東西統合と交通・情報ネットワークが仇となってしまったんですね。
ユーラシアをつなぐ交通ネットワークと黒死病(ペスト)の感染力が相まって、モンゴル帝国でも感染爆発が起きてしまい、多くの犠牲者が出てしまいます。
当然、人口の減少によって各モンゴル政権は国力を落としてしまうことになりました。
そしてそこに追い打ちをかけたのが、気候変動による災害です。
各地で大規模な河川の氾濫が起きたり、天候不順による干ばつなどの災害が起きたことで、凶作になって飢饉が起きてしまいました。

元(大元)では黄河が決壊して大氾濫するなどの災害がおきました。
この疫病の蔓延と飢饉が重なってしまったことで、各地で生活に苦しむ民衆が反乱を起こしたり、食料を確保するために内紛が起こってしまうことになります。
内紛・・・同じ組織や国の内部で起きる争いや対立。
これらの出来事によって、モンゴル帝国内の各政権は分裂・衰退していくことになったんです。

各政権の分裂・衰退

ここからは、混乱の時代に各モンゴル政権がどのように分裂・衰退していったのかをみていきましょう。

チャガタイ=ハン国
中央アジアを支配していたチャガタイ=ハン国では、イスラーム化が起こった14世紀中ごろから東西で政権分裂が起きてしまい、内紛が起きました。
一時的に統一されて再興したりもしたんですが、再び起きた内紛でモンゴル貴族出身のティムールが台頭して衰退していくことになりました。


ティムールについては次回の授業で詳しく見ていきますね。
キプチャク=ハン国
バトゥの東欧遠征から南ロシアを支配していたキプチャク=ハン国は、14世紀中ごろにバトゥの血統が途絶えてしまいます。
14世紀後半にはチャガタイ=ハン国の内紛から台頭した新興勢力のティムール朝が東から侵攻してきて、これに抵抗しましたが、国内は混乱状態になってしまいます。
その混乱に乗じて、西からはリトアニア大公国が侵攻してきてウクライナを奪われてしまい、国力が低下したことで、次第に衰退していくことになりました。
その後、統一を維持するのが難しくなってしまい、内紛から各地の有力者が自立して、15世紀にはモンゴル系のカザン=ハン国や、クリミア半島でトルコ系のクリミア=ハン国などが独立して、キプチャク=ハン国は分裂することとなってしまいました。

こうして統一国家としての力を失ってしまったキプチャク=ハン国は、ロシアで成立したモスクワ大公国のイヴァン3世に謀反を起こされます。
しかし、これに対抗する力も残っていなかったので戦わずに退却するはめになり、こうしてキプチャク=ハン国は滅亡することとなってしまいました。

これによって東欧はキプチャク=ハン国による「タタールのくびき」から解放されることになったんですよね。

イル=ハン国
フレグの西方遠征によってイラン高原に成立したイル=ハン国は、ガザン=ハンの時代にイスラーム化されてイラン=イスラーム文化が開花するなど繁栄しましたよね。
しかし、14世紀半ばに王の暗殺事件が起こるなど政治が混乱してしまい、その後、各地の有力者が後継者争いを始めてしまいます。
そしてトルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に独立することになり、イル=ハン国は国家としてのまとまりを失ってしまい、実質上滅亡することになりました。

元(大元)
元(大元)では経済政策を重視した政策によって商業が発展していましたよね。
しかし、その商業(経済)によって元は混乱を招くことになります。
南宋を支配した後から、流通していた紙幣(会子)を回収して、宋銭(銅銭)の流通を禁止しました。
SQ:なぜ元(大元)は会子(紙幣)や宋銭(銅銭)を回収したのか?

なぜ南宋の紙幣や宋銭を回収して禁止したんでしょうか?
これはもし帝国内で複数の貨幣が流通すると、取引で混乱が起きて経済が停滞してしまうからです。

だって日本国内でドルやポンドも使えたらややこしくて買い物しずらいですもんね。円決済だけだから買い物もスムーズにいくわけです。
なので、会子(紙幣)や宋銭(銅銭)を回収して、交鈔(紙幣)や銀に統一しようとしたんです。
帝国内で貨幣を統一することで流通や取引を円滑にするため。

しかし、お金を回収すると当然その分不足するので、元は経済力を維持するために交鈔を増刷します。
その後も不足するたびに増刷を繰り返しました。
元はチベット仏教寺院を各地に建立していたので、それに財政難を帯なうための増刷もしていました。

そうなると交鈔の価値はどうなってしまうでしょうか?
増刷を繰り返したことで流通量が増えて、交鈔は価値が下がってしまいます。

流通量が増えるとみんながたくさん持てるようになるので、ありがたさが減っていくんですね。
最終的に交鈔の価値は当初の3分の1程度になってしまったそうです。
価値が下がってしまったことで、モノの値段が上がる過度なインフレが起きてしまいます。
貨幣価値が落ちたことで元の税収も下がってしまい、元は収入源であった専売制の強化に乗り出します。
このインフレと専売制の強化によってモノの値段がさらに高くなっていき、民衆の生活が苦しくなってしまいます。

そしてこれと重なって起きたのが、気泡変動による黄河の決壊でした。
災害による凶作によって民衆の生活はさらに苦しくなっていきます。
さらに黒死病(ペスト)などの疫病も重なって民衆たちの王朝に対する不満が増していきます。
しかし、元はこれらの災害に対して、

農民たちに無償で修復させろ。
という命令を出したんです。
これに対して農民たちは当然激怒します。
この命令に対して反発した農民たちが起こしたのが紅巾の乱でした。

農民の反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の乱」と呼ばれています。
この紅巾の乱をきっけに全国各地で反対勢力が台頭することになり、元はこれを鎮圧することに苦戦してしまいます。
最終的には反乱軍の中で台頭した明軍によって大都を奪われてしまい、元はモンゴル高原に退くことになってしまったんです。
これによってモンゴル帝国のカアンだった元(大元)は滅亡することとなりました。

中国王朝としての元は滅亡しましたが、その後もモンゴル高原で政権を維持してカアンを自称し、中国の明朝を圧迫するなど存在感を残していきます。
途中でクビライの血統も途絶えてしまい、モンゴル帝国は解体してしまいましたが、チンギス=カンの子孫たちがカアンの権威を継承していき、その後の清朝に受け継がれていくことになります。

明朝や清朝については今後、詳しくみていきましょう。
まとめ
MQ:モンゴル帝国が分裂・衰退してしまった原因とは?
A:疫病の流行や気候変動による災害で国力を低下させ、それに伴う皇位継承争いや内紛、農民反乱、地方政権の分裂が複合的に作用した結果、モンゴル帝国は分裂・衰退に至った。

今回はこのような内容でした。

次回はモンゴル帝国の意志を受け継いだティムール朝についてです。ティムール朝はモンゴル帝国から何を受け継いで、どんな王朝を築いたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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