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はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は前回の[6-2.3]イル=ハン国とも関係があったエジプトのマムルーク朝についてです。マムルーク朝によってカイロを中心とするエジプトはどのように発展していったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:マムルーク朝によってエジプトはどのように発展したのか?
今回の時代はここ!
成立と権威確立
成立
マムルーク朝が成立する13世紀中ごろまでは、エジプト(加えてシリアも)ではアイユーブ朝が支配していましたね。
アイユーブ朝は終始十字軍との攻防が起きていましたが、その中心となったのは中央アジアや西アジアから購入したトルコ系マムルークで組織された軍隊でした。
対十字軍との攻防が激しくなるにつれてマムルーク軍の勢力が国内で拡大していきました。
そのトルコ系マムルーク軍によってアイユーブ朝は、第6回十字軍を撃退してフランス王ルイ9世を捕虜にしてしまうなど、十字軍を圧倒しました。
大活躍をしたマムルーク軍でしたが、十字軍撃退後、アイユーブ朝スルタンは信頼できる側近ばかりを重宝してしまったことで、マムルークたちの間でスルタンに対して不満が溜まっていきます。
そして我慢の限界を迎えたマムルーク出身の将軍たちがクーデターを起こして、アイユーブ朝スルタンを殺害してしまいます。
このクーデターによって誕生したのがマムルーク朝だったんです。
マムルーク朝成立後は、マムルーク出身の将軍たちの間で権力争いが起きてしまい、しばらくの間は政治が不安定でした。
バイバルスによる権威確立
権力争いによる政治混乱のなか、西アジアから勢力拡大を狙ってマムルーク朝に侵攻してきたのがモンゴル帝国のフレグでした。
この脅威に対して団結を余儀なくされたマムルーク朝は、将軍バイバルスを中心にパレスチナでモンゴル軍を迎え撃ちます。
バイバルスは巧みな作戦によって見事にモンゴル軍を撃退して、モンゴル軍の進出を諦めさせることに成功しました。
これによって王朝内でバイバルスがその頭角を現していきます。
西アジアではスンナ派の権威だったアッバース朝が滅亡した後、フレグによってイル=ハン国が建国されましたよね。
そんな時に滅亡したアッバース朝から、殺害されたカリフの親族を名乗る人物がマムルーク朝に亡命してきました。
バイバルスはこの人物を保護して、新しいカリフとして擁立させることにしたんです。
学者たちにわざわざ身元調査までしたそうですよ。
SQ:なぜ自らカリフを名乗らず、新カリフを擁立したのか?
ではなぜ自らカリフを名乗らず新カリフを擁立させたんでしょうか。
マムルーク出身のバイバルスがいきなり
自分がこれからカリフだ!
と言っても、周辺のイスラーム政権から
いや、アッバース朝カリフ一族とあなたは何の関係はありませんよね?そんな人は信用できません。
と言われてしまいそうですよね。
なので、
カリフ一族の生き残りを保護しているので、この方が新しいカリフだ!
私は新カリフから統治を任されたスルタンであるぞ。
という保護した亡命者をカリフとして利用することで、自分自身が支配するための権威を確立させる口実にしたんです。
こういった理由で正式なスルタンを名乗って権威を手に入れたバイバルス率いるマムルーク朝は、アラビア半島の聖地メッカとメディナも支配していたことから、アッバース朝に代わるスンナ派の権威としてイスラーム世界の最大勢力として君臨することになっていきました。
バイバルスはその後、シリア・パレスチナに残っていた十字軍国家に攻勢をかけて滅ぼし十字軍勢力を西アジアから一掃することに成功しました。
そして、西アジアに君臨していたイル=ハン国からの侵攻にも立ち向かい、最終的には和約を結ぶことでモンゴル勢力の侵攻を阻止しました。
それらの出来事によってマムルーク朝はバイバルスのもとで政治が安定して発展していくことになります。
農業生産の向上
マムルーク朝の兵士たちは都市に居住していましたが、イクター制を導入していたので、都市に居住しながら農村を管理する立場にありました。
ここでエジプトの農業生産を支えていたのは何だったか覚えていますか?
ナイル川です!
そうでしたね。エジプト文明は「エジプトではナイルの賜物」と呼ばれるほど、ナイル川に依存していましたよね。
そんなナイル川に農業生産を依存していたので、マムルーク朝時代に治水工事が大規模におこなわれたので、農業生産が格段に向上しました。
SQ:なぜマムルーク朝時代に大規模なナイル川の治水工事がおこなわれたのか?
ではなぜマムルーク朝時代にナイル川の治水工事が大規模におこんわれたんでしょうか?
それはイクター制が関係していると考えられます。
イクター制は兵士に農村の徴税権を与える俸給制度なので、兵士にとって農村の生産力はそのまま収入に影響しますよね。
なので、スルタンからすると、
農業生産力を上げられると兵士たちの不満や反乱を防止できるぞ。ナイル川の治水工事だ!
ということ大規模にナイル川の治水工事をおこなったと考えられます。
兵士たちにとっては治水工事は収入アップにつながるので、スルタンを積極的に支持しそうですよね。
この政策によって穀物だけでなく、輸出用の商品作物であるサトウキビの栽培が普及していきました。
これは農業生産力が上がったことで、商品作物でも栽培できるようになったのと、ムスリム商業圏に組み込まれたことで商品作物の生産が盛んになったんでしょうね。
カイロの繁栄
カーリミー商人の活躍
農業生産の向上と交易の発展によって、首都カイロでは商業や手工業を中心に国際交易都市として空前の繁栄を向かえました。
その繁栄を支えたのがカーリミー商人と呼ばれる人たちでした。
カーリミー商人とは、カイロを拠点としてインド洋交易をおこなっていたムスリム商人のことを指します。
ムスリム商人の中にカーリミー商人が含まれているイメージですね。
このカイロを中心に活動するカーリミー商人は、エジプトで生産されたサトウキビや砂糖を輸出し、南アジアや東南アジアから香辛料や絹織物を輸入して莫大な利益をカイロにもたらしていました。
この香辛料などは西ヨーロッパとの東方貿易(レヴァント貿易)で高値で売れまくったそうですよ。
最盛期は銀と同じ重さで取り引きされ、これが大航海時代の要因になっていくことになります。
カーリミー商人はスルタンから保護を受けることで、インド洋交易を活発におこなうことができ、スルタンも保護することで交易の利益を独占して権威を高めていました。
ワクフによる都市発展
農業生産や交易などの商業によって富を手にしたスルタンや軍人などの有力者たちは、その富を独占するようなことはせず、寄付という形で都市に還元していたんです。
めちゃくちゃ良い人たちですね~
これはただの善意だけではなく、実はイスラーム教の喜捨(きしゃ)に基づくおこないだったんです。
有力者たちはイスラーム教義に従って、カイロなどの都市にモスクやマドラサ(学院)や病院などのインフラを建設しました。
しかもこれらの施設が安定して運営できるように、有力者たちはそれらの施設に土地や商業施設(バザールなどの市場)を寄進して、その売り上げで運営できるように取り計らったんです。
こうした寄進の制度はワクフと呼ばれています。
ワクフについてのイスラーム法も整備されて、寄進によって国が介入せずとも公共施設が運営できる仕組みができていました。現在でもこのワクフ制度が残っているそうですよ。
ワクフで運営が維持できるので、役人も必要なく都市には役所もなかったそうですよ。
このワクフ制度によって富が都市に還元されて都市が発展していき、カイロなどが繁栄したというわけなんです。
それまでイスラーム世界の中心だった都市バグダードは、政治の不安定やモンゴル勢力による破壊によって衰退してしまっていたので、カイロがバグダードに代わるイスラーム世界の政治や経済、文化の中心になっていきました。
文化
イブン=ハルドゥーンの『世界史序説』
富を持つ有力者(スルタン、将軍、商人)などのワクフ(寄付)が、モスクやマドラサ(学院)にも行きわたったことで、マムルーク朝では都市を中心にイスラーム文化が発展しました。
バグダードに代わってイスラーム文化の中心を担ったカイロには、インド交易によって世界中の書籍や文化が伝わったことで、学問知識の集大成が起こり、百科事典や伝記集がつくられました。
こうした都市を中心に文化発展が起こりましたが、逆に都市発展による影響を批判する考えも出てくるようになります。
その代表的なのが歴史家のイブン=ハルドゥーンという人物です。
「イブン=●●」という名前は「イブン=シーナー」・「イブン=ルシュド」・「イブン=バットゥータ」など、複数人登場するのでしっかりと整理しておきましょう。
イブン=ハルドゥーンは北アフリカのチュニジア出身の歴史家で『世界史序説』を書いたことで有名です。
この『世界史序説』では、文明の進んだ都市と辺境の遊牧民との関係を歴史的法則で定義した書物で、簡単に下にまとめると、
↓「文明の進んだ都市」と「文明の進んでいない辺境」が存在
↓辺境の人々(遊牧民)が人々の強い繫がり(連帯感)によって都市を征服し、国家を建設
↓やがて都市生活が続くと人々の繫がりは薄れていき、政治の腐敗などが起こり混乱する
↓そして新たな辺境の勢力によって都市が征服される
(一部引用:世界史序説)
このサイクルによって都市と辺境の遊牧民の関係が説明できるとして、都市化による政治腐敗を批判する内容となっているんです。
衰退と滅亡
マムルーク朝は首都カイロを中心にインド洋交易の恩恵を受けて繁栄しましたが、14世紀半ばごろから黒死病(ペスト)の大流行によって多くの人が亡くなってしまい、人口が減少してしまいます。
そこに追い打ちをかけるように災害による凶作も重なって飢饉が起こってしまい、国力が下がって衰退していきました。
そこに陸から西アジアの覇者オスマン帝国が侵攻して領土を圧迫し、海からは大航海時代の先駆者ポルトガルの海軍によって制海権を奪われてしまい、かつての繁栄を完全に失ってしまいます。
最終的には16世紀初めごろにオスマン帝国のセリム1世にカイロを征服されて、マムルーク朝は滅亡することになりました。
まとめ
MQ:マムルーク朝によってエジプトはどのように発展したのか?
A:イクター制の影響でナイル川の治水工事がおこなわれ、農村で生産力が向上した。カイロなどの都市ではカーリミー商人によるインド洋交易の恩恵をうけて富が流入し、有力者たちによるワクフによって社会インフラに整備されて学問・文化ともに発展した。
今回はこのような内容でした。
次回は北アフリカとイベリア半島のイスラーム世界についてやっていきます。西アジアを中心にイスラーム世界に変化が起きていた頃、北アフリカやイベリア半島ではどんなことが起きていたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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