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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は金という王朝についてです。金の統治にはどんな特徴があったのか?
MQ:金はどのようにして勢力を拡大していったのか?
今回の時代はここ!

建国と拡大
建国
中国で宋(北宋)が政治闘争によって混乱している最中、北方では変化が起ころうとしていました。
当時、華北からモンゴル高原にかけてはキタイ(契丹・遼)が支配していましたよね。

渤海も滅ぼしたことでその領土は中国東北部まで広がっていましたね。
※以下「キタイ(契丹・遼)」は「キタイ」と表示

キタイが支配していた中国東北部には女真族と呼ばれる狩猟・農耕をする民族が暮らしていました。

この中国東北部は”満州”と呼んだりもしますね。
女真族は11世紀後半から完顔(わんやん)という部族が勢力を拡大していき、族長の完顔阿骨打(わんやんあぐだ)の時代に女真族を統一します。

女真族を統一した完顔阿骨打は、キタイから独立するためにキタイとの抗争を始めます。
そしてキタイ軍を破り、1115年に女真族の王朝建国を宣言して、国号を金としました。

この金の台頭の様子を見定めていたのが、宋(北宋)でした。

宋にとってキタイとはどのような存在だったでしょうか?

澶淵の盟を結んでいて、毎年の贈与が財政を悪化させていました!なのでその関係を切りたいと思っていたと思います!

その通りですね!詳しい内容については[8-1.3]宋(北宋)でご確認ください。
なので、宋は金の台頭をチャンスと感じて、金に同盟を結んでキタイを挟み撃ちにすることを提案します。
金はこの提案を飲んで宋とキタイを挟み撃ちにして、見事にキタイを滅ぼすことに成功しました。

西遼
この時、キタイが滅亡する直前に遼の皇族だった耶律大石(やりつたいせき)が一部のキタイ族を引き連れて西に逃れて、トルキスタンを支配して西遼という王朝を建国しました。
もともと成立していたカラハン朝を倒して建国された王朝だったので、サマルカンドなどの西域のオアシス地帯を支配して、シルク=ロードである「オアシスの道」を抑えたことで、交易によって繁栄することができました。


靖康の変
こうして宋との挟み撃ちによってキタイを滅ぼして、北方に君臨した金でしたが、その後、宋と揉め事を起こしてしまいます
もともと、対遼同盟を結んだ時に、宋から金へ銀や絹が贈られるはずだったんですが、宋はそれを守らず、さらには金の勢力拡大を妨害しようとしたんです。

要は宋からすれば宿敵のキタイを滅ぼすために金を利用しただけだったんですね。政治といえ薄情ですね。
これに腹を立てた金は宋に対して軍隊を派遣して華北に侵攻し、宋の首都開封まで攻め入ります。

当時、宋の皇帝だった徽宗(きそう)の時代は、政治闘争によって政府が腐敗していて、地方では農民反乱が起こるなど、決して安定している時代ではありませんでした。


この徽宗は[8-1.3]宋(北宋)で出てきた神宗の息子で、新法党を採用した皇帝でした。
そこに金が侵攻してきてしまい、なんとかして退けましたが、その後の国内の混乱を治めることができず皇帝を退位することになってしまいました。

最後の方は、政治を官僚に任せて絵を描くなどの遊びに浸っていたそうですよ。現実逃避ってやつですね。
その後は、息子の欽宗(きんそう)が皇帝となって王朝を再建しようとしましたが、翌年にまたもや金が侵攻してきます。

宋には守り切る余力がなかったので、金は一気に首都の開封を占領してしまい、上皇の徽宗と皇帝の欽宗を捕虜として連行してしまいました。
この出来事を靖康の変(せいこうのへん)と言います。
この靖康の変によって上皇と皇帝を失った宋(北宋)は滅亡することとなりました。


南宋
宋(北宋)は滅亡してしまいましたが、靖康の変の際に皇帝の弟が金から逃げることができて、南の江南地方まで逃亡します。
そこで宋王朝の再建を目指して、臨安を首都とする南宋を建国しました。

南宋は豊かな江南地方を支配していたので、商業を中心に経済が発展していました。

そんな南宋ですが、度々金から国境を脅かされていたので、

金と徹底抗戦だ!
と将軍の岳飛(がくひ)を中心として、金と徹底抗戦する考えの主戦派が多くなっていきます。
それに対して、

金はこれ以上南下しない方針という情報が入っている。平和のためには和平交渉が必要だ!
という、宰相の秦檜(しんかい)を中心とする金との和平による平和を望む和平派が現れて、主戦派と対立するようになります。

両者の対立はしばらく続きましたが、金でも和平に反対する実力者が亡くなってしまったこともあり、次第に和平派が優勢になっていきました。
そんな中でも主戦派の岳飛は主張を曲げずにいたので、秦檜が、

このまま岳飛がいては南宋は危機に陥ってしまう。やつを捕らえてしまおう。
ということで岳飛を無実の罪で逮捕していしまい、息子と共に処刑してしまったんです。
秦檜はその間に金との和平を成立させることに成功します。


金との講和の内容は以下の通りです。
・淮河を国境として、互いに不侵攻。
・南宋は金に対して臣下の礼をとる。
・貢納として毎年南宋から「銀25万両」「絹25万疋」を贈る。
以上の内容をまとめると、
華北を放棄して、膨大な貢納によって平和を実現させた。
ということになります。
この条約はその後、南宋が金に臣下の礼をとるという条件が改められて、貢納の銀や絹の量も減っていきながらも、モンゴル帝国に支配されるまでの約100年間に渡って続いていきました。
金は南宋以前にも高麗や西夏からも臣下の礼を受けて、南宋からも臣下の礼を受けて華北を支配したことで東アジアで支配的な地位になっていきました。

統治
猛安・謀克
そんな金はキタイよりもはるかに広大な中国領土(華北)を支配することになったので、キタイと同じく女真族と農耕民で統治を分ける二重統治体制を採ることにしました。
女真族に対しては猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)という部族制で統治し、華北の農耕民は州県制によって統治していました。

猛安・謀克の内容は以下の通りです。
・謀克・・・300戸を1つの謀克として編成。
・猛安・・・10謀克(つまり3000戸)を1つの猛安として構成。
・軍編成・・・1猛安から成年男性1000人を兵士として徴兵。
・平時(戦争が無い時)・・・普段の狩猟と農耕に従事。
・戦時の役割・・・猛安を基礎とした兵士が従軍。

要するに、3000戸から1000人の兵士を徴兵する制度が猛安・謀克というわけです。
この「1000」を単位にする制度は、後に成立するモンゴル帝国の千戸制に引き継がれていくことになります。

南の華北地方では州県制によって統治されていましたが、女真族約100万人に土地を支給して駐屯させていました。

おそらく異民族による反乱防止の意味があったんでしょうね。
南宋との国境上には交易場が設けられて、南宋の茶や絹織物、金の毛皮や薬用ニンジン、馬などが盛んに交易されていたそうですよ。

女真文字
金では、独自の文字である女真文字が使用されていました。
これらの文字は漢字を模倣しつつ、契丹文字の仕組みを参考に作られ、表意文字の大字と表音文字の小字が合わせて使われていました。
女真文字は、契丹文字や西夏文字と同じように、中国文化の影響を受けながらも北方の異民族が独自の文化を発展させた例として重要とされています。

まとめ
MQ:金はどのようにして勢力を拡大していったのか?
A:女真族の完顔阿骨打の時に統一され、キタイを攻撃してその支配地を奪取し、さらに宋との靖康の変を経て領土を拡大した。また、猛安・謀克を基盤とした効率的な軍事制度を活用しつつ、和平の交渉を取り入れる柔軟な政策を展開した。これにより、強力な軍事力と政治力の両面から勢力を広げ、多くの地域を支配下に収めることに成功した。

今回はこのような内容でした。

次回は唐末期~宋(北宋)の社会と経済についてみていきます。宋(北宋)の経済発展は社会にどんな変化をもたらしたのか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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