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[6-2.5]ベルベル人とイベリア半島

6-2.西アジア

この記事で使用したPowerPointスライドは「note」にてダウンロード可能です。PowerPointスライドのダウンロードは記事の最後に貼ってあるURLから!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は北アフリカのベルベル人とイベリア半島の情勢についてやっていきます。ベルベル人によってイベリア半島ではどんな変化が起きたんでしょうか。

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:ベルベル人がイベリア半島に与えた影響とは?

今回の時代はここ!

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ベルベル人のイスラーム化

今回の中心となるキーマンは、北アフリカの先住民族であったベルベル人と呼ばれる民族です。

ベルベル人は北アフリカのマグリブ(現在のチュニジア、アルジェリア、モロッコ)地方で暮らしていた先住民族でした。

11世紀半ばになると、ベルベル人の間で熱狂的なイスラーム教運動が起きて、イスラーム教徒が急拡大していきました。

ベルベル人

ではなぜベルベル人の間でイスラーム教が急拡大していったんでしょうか?

SQ:なぜベルベル人の間で、イスラーム教が急拡大していったのか?

グシャケン
グシャケン

当時、北アフリカ(マドリブ)は地方政権が割拠していたということがヒントになります。

もとをたどると、7世紀ごろからイスラーム政権であるウマイヤ朝やアッバース朝が誕生して、信仰に基づく異教徒への聖戦(ジハード)がおこなわれました。

これによってイスラーム政権は各地に拡大していったんですが、北アフリカも支配下に入ったことでイスラーム化が起こったわけです。

ウマイヤ朝やアッバース朝、そしてファーティマ朝などのイスラーム政権による支配の後は、ベルベル人による地方政権が分立する状態が続きました。

グシャケン
グシャケン

まだこの時点では、イスラーム教だけでなく多宗教が混在する状況でした。

そのような状態のなかで、ベルベル人の中に厳格なスンナ派を掲げる修道士たちが現れます。

彼らは修道士はムラービトと呼ばれ、ベルベル人たちに熱狂的に布教をしました。

グシャケン
グシャケン

イスラーム教徒からすればイスラーム教義はこの世の真理で、それ以外は偽物ですからね。同じ民族を救うためにも熱狂的になる気持ちはわかりますね。

当時、ベルベル人は地方政権が割拠している状況だったので、紛争などで貧困や不平等が起きて社会不安が広がっていました。

そんな中で、ムラービト(修道士)たちからのイスラーム教義は、

ベルベル人
ベルベル人

みんな平等になって平和な世の中になるなら最高じゃないか!

という感じで、多くのベルベル人が教義に感化され、イスラーム教に改宗する人が急増したというわけなんです。

SQ:なぜベルベル人の間で、イスラーム教が急拡大していったのか?

地方政権が分立するなかで、貧困や格差などの社会不安が広がっていたなかで、ムラービト(修道士)による布教活動に感化された人が多かったため。

ベルベル人 ムラービト
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ムラービト朝

成立と拡大

そして、宗教活動によってイスラーム教徒に改宗した遊牧系のベルベル人たちによって、モロッコに建国されたのがムラービト朝というイスラーム政権でした。

ムラービト朝のイスラーム教徒は熱心なムラービト(修道士)に率いられていたので、

ムラービト朝
ムラービト朝

異教徒や堕落したイスラーム教徒たちを正すのだ!

ということで、彼らに対して聖戦(ジハード)を宣言します。

まず初めにサハラ南部にあったガーナ王国を滅ぼしてしまいます。

その後、モロッコも征服してマラケシュという都市を建設して首都にします。

この首都マラケシュは南北サハラをつなぐ交易の中心地として発展し、ムラービト朝以降も栄えました。

ムラービト朝

イベリア半島進出(対レコンキスタ)

ムラービト朝が北アフリカで勢力を拡大していた時、イベリア半島では後ウマイヤ朝が内乱によって滅びてしまい、小国分立の状態が続いていました。

イベリア半島でのイスラーム勢力が弱小化したことに乗じて進出してきたのが、キリスト教勢力です。

キリスト教勢力はウマイヤ朝によって西ゴート王国が滅ばされてから、イベリア半島をイスラーム勢力に奪われていたので、この機にイベリア半島の奪還を目指して侵攻してきたんです。

このように、キリスト教勢力がイベリア半島からイスラーム勢力を追い出そうとした運動をレコンキスタ国土回復運動といいます。

このキリスト教勢力による反撃をうけて、イベリア半島イスラーム政権から救援要請をうけて、ムラービト朝もイベリア半島に進出していくことになります。

ムラービト朝はこのキリスト教勢力を撃破して後退させ、その後も厳格なスンナ派に正すために各地のイスラーム政権を攻撃し、イベリア半島南部を支配するほどの強国へと成長していきました。

グシャケン
グシャケン

キリスト教勢力からすれば絶好のチャンスを潰した、憎き目の上のたんこぶですね。

ムラービト朝 レコンキスタ(国土回復運動)
ムラービト朝
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ムワッヒド朝

成立

イベリア半島まで進出したムラービト朝でしたが、もともと遊牧民系だったのが都市への定住が進むにつれて宗教運動が落ち着いていき、生活が堕落していく状態になってしまいます。

グシャケン
グシャケン

厳格なスンナ派信仰が緩くなり、なあなあになっていってしまったんです。

これによってもともと遊牧民同士の強い結束で成長していたのがなくなったことで、政治が弱体化していき、衰退していってしまいます。

そんな時に腐敗したムラービト朝を打倒しようと新たな勢力がモロッコに現れます。

その勢力はムワッヒドと呼ばれる神秘主義(スーフィズム)を大成したガザーリーの思想に影響を受けたスンナ派信者たちでした。

グシャケン
グシャケン

ムワッヒドとは、「神は唯一の存在であることを信じる人」という意味だそうです。

ムワッヒド
ムワッヒド

腐敗したムラービト朝を打倒して厳格なイスラーム教国家を建設するんだ!

という意気込みのもとムラービト朝に対して反乱を起こして、首都マラケシュを占領したことでムラービト朝は滅亡し、新たにムワッヒド朝が建国されました。

グシャケン
グシャケン

名称は似ていますが、ムラービト朝は遊牧民が主体でしたが、ムワッヒド朝は定住民が主体だったことに特徴の違いがあります。

ムラービト朝に代わってモロッコを支配したムワッヒド朝は、当時北アフリカ沿岸に進出していたノルマン人や、ファーティマ朝の後継王朝とも抗争してこれに勝利し、マグリブ一帯の統一することに成功しました。

ムワッヒド朝
ムワッヒド朝

イベリア半島進出と滅亡

ムラービト朝の滅亡後のイベリア半島では、再び地方政権分立してレコンキスタのキリスト教勢力も含めて群雄割拠の状態に戻っていました。

ムワッヒド朝も聖戦(ジハード)を宣言して、イベリア半島統一のために大軍を送り込みます。

地方政権はムワッヒド朝に吸収されていき、キリスト教勢力も敗れて、ムワッヒド朝は一時イベリア半島の支配に成功します。

しかしムワッヒド朝に対して、その当時西ヨーロッパで絶頂の権力を誇っていたローマ教皇が西ヨーロッパ全土軍の招集を呼びかけて大軍を編成し、ムワッヒド朝に立ち向かいました。

これにムワッヒド朝は大敗をしてしまい、イベリア半島から撤退を余儀なくされてしまいます。

撤退後も王朝内で反乱が相次いで起きしまい、反王朝勢力によって滅亡することになってしまいました。

ムワッヒド朝
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ベルベル人のイベリア半島への影響

政治・経済

イベリア半島はイスラーム地方政権の分立やレコンキスタ(国土回復運動)に対して、北アフリカからムラービト朝やムワッヒド朝が進出していきましたよね。

イベリア半島は政治の面でみればイスラーム教とキリスト教の間に挟まれてすごい混乱状態になりましたが、南部ではアラビア語やイスラーム教信仰が広がっていき、12世紀には大半がイスラーム教徒になるほど、イスラーム化が進んでいきました。

ベルベル人の進出によってイスラーム化が進んだので、現地ではベルベル人やアラブ人の地位が高く、社会的な格差が生まれました。

イスラーム政権の支配下に入ったトレドやコルドバなどの都市はムスリム商人が多く出入りするようになり、北アフリカやエジプトとの交易が盛んにおこなわれて繁栄しました。

ムラービト朝 ムワッヒド朝 イベリア半島

文化

文化面でも、イスラーム教徒が多く移住したことでイスラーム文化が開花します。

ここでは2人の文化人をご紹介します。

イブン=ルシュド

イブン=ルシュドはコルドバ出身の哲学者で、ムワッヒド朝に雇われて「万学の祖」といわれたアリストテレスの書物をアラビア語に翻訳する仕事に従事していました。

グシャケン
グシャケン

彼はアリストテレスの考え方にプラトンの価値観を取り入れた神学理論を解釈したそうですよ。

ムワッヒド朝の衰退によってイブン=ルシュドの事業は忘れられてしまいますが、キリスト教勢力がレコンキスタを完成させた後に、ラテン語に翻訳されてキリスト教神学者たちに愛読されて中世ヨーロッパ哲学に影響を与えました。

イブン=バットゥータ

イブン=バットゥータはモロッコ出身のベルベル人のムスリム旅行家でした。

メッカ巡礼を志して北アフリカを出発したんですが、アラビア半島の聖地メッカを通り過ぎて東アジアの中国まで大旅行をおこなったんです。

グシャケン
グシャケン

要は当時でいう世界旅行ですね。

彼はその旅の記録として『大旅行記(三大陸周遊記)』を書き、アフリカ、アジア、ヨーロッパの様子が描かれていて、イスラーム教の拡大やモンゴル帝国の進出などの当時の世界情勢が書かれています。

イブン=ルシュド イブン=バットゥータ
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レコンキスタ(国土回復運動)の完成とその後

ナスル朝とレコンキスタ完成

ムワッヒド朝が退却した後のイベリア半島では、小国の1つだった最後のイスラーム政権であるナスル朝という王朝が首都グラナダ周辺を支配していました。

グシャケン
グシャケン

ナスル朝はイスラーム式としてすばらしい完成度を誇るアルハンブラ宮殿をグラナダに建てました。

この宮殿は中世イスラーム建築を代表する建造物として、現在スペインで世界遺産に登録されているんですよ。

ナスル朝 グラナダ アルハンブラ宮殿
ナスル朝

このナスル朝は小国ながら巧みな外交によって、キリスト教勢力のレコンキスタ(国土回復運動)から独立を維持していました。

しかし、キリスト教政権の中で統合が起きてスペイン王国が誕生すると、ナスル朝に対するレコンキスタがさらに強くなって危機に陥ります。

そしてこのスペイン王国によって首都グラナダが陥落し、ナスル朝は滅亡したことで、キリスト教勢力は約800年ぶりにイベリア半島を奪還してレコンキスタ(国土回復運動)を成功させたんです。

ナスル朝 スペイン王国

レコンキスタ後のイベリア半島

レコンキスタ(国土回復運動)によってイベリア半島がキリスト教勢力のもとに戻ったことで、イスラーム教徒たちは北アフリカに移住せざるを得なくなってしまいました。

グシャケン
グシャケン

要は難民ですね。

しかし、一部のイスラーム教徒はキリスト教に改宗してイベリア半島に残る生き方を選択したんです。

SQ:なぜ一部のイスラーム教徒はキリスト教に改宗して半島に残ったのか?

ウマイヤ朝が支配してからイスラーム勢力によるイベリア半島支配から約800年も経っていました。

なので、

イスラーム教徒
イスラーム教徒

ここ(イベリア半島)を離れて新しい土地で新しい仕事を見つけて生きていくのは今更無理だ、、、

と考えるイスラーム教徒もいたんです。

なので、生活基盤を動かせない人や地元の文化や習慣に馴染んでしまったイスラーム教徒たちは、生き残るためにキリスト教徒に改宗してイベリア半島に残る選択をしたというわけなんです。

グシャケン
グシャケン

宗教よりもそこで生きていくことを優先したんですね。

SQ:なぜ一部のイスラーム教徒はキリスト教に改宗して半島に残ったのか?

イスラーム教の支配から数百年経ったことで、生活基盤を動かせない人々が生存や文化共存のためにキリスト教に改宗した。

レコンキスタ後のイベリア半島
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まとめ

MQ:ベルベル人がイベリア半島に与えた影響とは?

A:現地のイスラーム化が進み、高度なイスラーム文化が開花した。それらの文化はその後も中世ヨーロッパ文化にも影響を与えた。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回からは再び西ヨーロッパに戻り、ローマ=カトリック教会の権威についてみていきます。なぜローマ=カトリック教会は西ヨーロッパで絶対的権威を持てたのか?

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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