世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でしたね。
今回はヨーロッパにノルマン人と呼ばれる民族が侵入してきて、混乱が訪れます。ノルマン人はヨーロッパにどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ノルマン人がヨーロッパに与えた影響とは?
今回の時代はここ!
外部勢力の侵入
8~10世紀頃の西ヨーロッパは、絶えず外部から異民族が侵入を繰り返していました。
東からはスラヴ人がフランク王国に迫って国境を脅かし、アヴァール人やマジャール人なども東側から西ヨーロッパを脅かしていました。
加えてイスラーム勢力もシチリア島や南イタリア、南フランスに侵攻して混乱を招いていました。
SQ:なぜ東から絶えず異民族が侵入してきたのか?
ではなぜ絶えず東から異民族が西ヨーロッパに侵入していたのでしょうか?
それはヨーロッパの気候を読み解けば理解できますよ。
[5-2.1]ヨーロッパの環境と民族でもやりましたが、東ヨーロッパは大陸性気候で「寒く乾燥」しているのが特徴でしたね。
なので、穀物の栽培には向いていなく、放牧などに向いている地域なんです。
それに比べて西ヨーロッパは西岸海洋性気候で「夏は涼しく冬も暖かい」のが特徴です。
温暖・湿潤なので植物が育ちやすく、穀物の栽培や牧畜などに適している環境なんです。
これらの理由から東ヨーロッパでは主食となる穀物が安定して栽培できないので、穀物栽培に適した西ヨーロッパに土地を求めて、絶えず民族たちが西に移動していたんです。
ノルマン人の移動
ヴァイキング
現在のスカンディナビア半島(現在のノルウェー、スウェーデン、フィンランド)やユトランド半島(現在のデンマーク、ドイツ)には、ノルマン人と呼ばれるゲルマン人の一派が居住していました。
彼らは狩りや漁業で生活をして過ごしていたので、造船や航海術が得意な民族でした。
[5-2.2]ゲルマン人の大移動の時は特に移動せずに北ヨーロッパに留まっていたんですが、8世紀以降になると人口が増えたことで、新たな資源を求めて海上移動を始めます。
初めノルマン人は商業活動以外に、入江を出入りする船を襲撃して略奪する海賊行為を目的に海上に繰り出していきました。
そしてそのうち人口増加によって本格的にヨーロッパ各地に植民活動をするようになっていきます。
海賊活動とともに交易を行い、移住(植民)したノルマン人のことをヴァイキングと言います。
「ヴァイキング」は、ノルウェーの入り江(ヴィーク)に住む人々という意味から、そう名付けられたそうです。
ヨーロッパ各地の沿岸で恐れられたヴァイキングは、細長くて底の浅いヴァイキング船に乗って交易や海賊行為をおこないました。
西ヨーロッパで強国だったフランク王国が分裂して弱体化したことで、ヴァイキングがフランスの海岸や大ブリテン島(現在のイギリス)の海岸、アイルランドなどに侵攻して勢力を拡大していきました。
ノルマンディー公国、両シチリア王国
ノルマンディー公国
SQ:なぜ西フランク王国はノルマン人の公国を認めたのか?
10世紀初めには、ヴァイキングの首領だったロロ率いるノルマン人が北フランスに上陸して、ノルマンディー公国を建国しました。
「公国」とは国王(この場合、西フランク王国)の臣下として支配を認められた地方政権のことを指します。
では西フランク王国はなぜノルマン人の公国を認めたんでしょうか?
そもそも実はノルマン人はロロがくる以前からフランク王国内に居住していたんです。
その理由は、フランク王国が分裂する際に王位継承戦争が起きましたよね。
その時に、ヨーロッパ沿岸に居住していたノルマン人(ヴァイキング)を傭兵として利用して、度々ヴァイキング船を使ってパリなどの内陸都市への侵攻のために進出させていたんです。
そのようなタイミングでロロが西フランク王国内に侵攻してきたので、当時の西フランク王が、
ロロに領土を与えて王国の中心への侵攻を防ごう。
ということでロロに北フランスの領土を与えられたことで、その子孫は西フランク王の貴族である「ノルマンディー公」としてノルマンディー公国が建国されたというわけなんです。
初めは「伯」という扱いだったんですが、11世紀頃には上級の「公」を自称して独立地方政権化していきました。
両シチリア王国
そのノルマンディー公国出身のノルマン人が南イタリアとシチリア島に建国されたのが両シチリア王国です。
もともとノルマンディー公国の諸侯(領主)に仕える騎士階級のルッジェーロ1世が、イスラーム勢力からシチリア島を奪還して伯になった後に、息子のルッジェーロ2世が南イタリアも支配したことで教皇に認められて両シチリア王国が建国されました。
騎士・・・諸侯(領主)の臣下で防衛や戦闘に従事する特権階級
南イタリアは西ローマ帝国滅亡後、多民族によって小国分立状態だったんですが、両シチリア王国による統一王国ができたことは歴史的な転換点となりました。
大ブリテン島①(デーン人)
エグバード
大ブリテン島(現イギリス)のイングランドにはゲルマン人によるアングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)が割拠していました。
そして大ブリテン島にもヴァイキングが現れ、海賊行為をするようになった頃に、七王国はイングランドを治めていたエグバートによって突如として統一されたんです。
SQ:なぜアングロ=サクソン七王国は統一されたのか?
ヴァイキング(ノルマン人)の襲撃と時期が重なっていることに注目しましょう。
わかりましたか?
ヴァイキングの襲撃から守るために一致団結したと思います。
その通りです。
当時ヴァイキングの海賊行為に手を焼いていた七王国は「敵の敵は味方」理論によって、統一して手を組むことでヴァイキングと抗争したんです。
そこでリーダーとなったのがイングランドを治めていたエグバートで、各国から宗主と認められて七王国が統一され、イングランド王国が誕生したんです。
しかし、イングランド王国は中央集権的ではなく、地方には強力な王と伯が独立していて、実際はヴァイキングとの戦いでも充分な軍団を維持することができなかったそうです。
アルフレッド大王
そんなイングランド王国ですが、統一後もノルマン人の侵攻に悩まされていました。
大ブリテン島に侵攻していたノルマン人は現在のデンマークを拠点にしていたことから、デーン人と呼ばれていました。
そんなデーン人と死闘を繰り返して撃退したのがアルフレッド大王でした。
アルフレッド大王は、エグバードの子孫がデーン人との死闘で次々と戦死してしまい、順番が回ってきたことで王位についた人物でした。
アルフレッド大王はアングロ=サクソン人をまとめ上げることに成功して、デーン人との死闘の末、ロンドンを奪還するなどの勝利を手にしました。
その後、デーン人と協定を結んで大ブリテン島の北東部の支配を認める代わりに、イングランド王国を守り抜くことに成功しました。
アルフレッド大王は学問や信仰にも熱心でラテン語書籍を英訳させるなどの功績から「大王」の称号が送られています。
これらの功績から「イギリスのカール大帝」と呼ばれたそうですよ。
クヌート
アルフレッド大王亡きあと、再び勢力を回復したデーン人がイングランド王国に侵攻するようになります。
デーン人も粘り強いですね。(笑)
侵攻を許したイングランド王は大陸のノルマンディーに亡命してしまい、デーン人がイングランド王として君臨することになりました。
イングランド王を継承したデーン人のクヌートは、旧王族の勢力を一掃したことでデーン朝を確立させて、その領土はスカンディナビア半島の一部にまでに及びました。
大ブリテン島②(ノルマン朝)
ノルマン=コンクェスト
デーン朝のクヌートの死後は、貴族(諸侯)の台頭などで広大な領土を維持することができず、混乱が起きてしまいました。
有力諸侯(貴族)たちはデーン朝の国王に代わって、再びアングロ=サクソン人の王を迎え入れることで混乱を終息させます。
しかし、アングロ=サクソン人の王エドワードが後継者を決めずに亡くなってしまったんです。
ここで定番の王位継承者問題が起きます。
一旦は有力貴族が王位に就きますが、ここで待ったをかけたのがノルマンディー公ウィリアムという人物でした。
ノルマンディー公とはフランス北部に建国されたノルマン人王国でしたね。
そこの王ウィリアムが言ったことが・・・
私はエドワード王の母親の甥っ子に当たるから、私にも王位を継承する権利があるはずだ!
と言って王位継承権を主張して大ブリテン島に侵入してきたんです。
実を言うと、この時代にはイングランド王国内に多数のノルマン人が居住していて商人や傭兵など、ノルマン人なしでは国が回らない状況だったんです。
ノルマンディー公ウィリアムはそこに目を付けたのでしょう。
軍隊を率いて大ブリテン島に上陸したノルマンディー公ウィリアムはイングランド王と対峙してヘースティングズの戦いに挑みました。
この戦いは歩兵中心のイングランドに対して騎兵中心のノルマンディー公が優位に進めて勝利をおさめました。
このイングランドに侵攻した出来事をノルマン=コンクェストと言います。
簡単にいうと、「ノルマン人による征服」という意味です。
これによって勝利をおさめたノルマンディー公ウィリアムがイングランド王を継承することになり、各地で抵抗する貴族も力でねじ伏せて、強力な支配体制を築きました。
これによって、ノルマンディー公ウィリアムはウィリアム1世と改めて、ノルマン朝が成立しました。
この時に古フランス語が伝わり、現在でも英単語の約30%はフランス語由来だそうですよ。
特に政治や裁判、教会で使用され、例えば「government(政府)」、「judge(裁判)」、「prison(刑務所)」などはノルマン人から伝わったものなんですよ。
ノヴゴロド国、キエフ公国
ノヴゴロド国
一方、東ヨーロッパでもノルマン人が活発に活動していました。
現在のスウェーデンやロシアに移住したノルマン人のことを「ルーシ」と呼ばれていました。
そのルーシ人を率いていた首領リューリクによって、スラヴ人が多く住んでいたノヴゴロドに侵攻してスラヴ人たちを支配して、ノヴゴロド国を建国しました。
ノヴゴロドはロシア内陸の毛皮や木材をバルト海交易で売買する拠点となっていた商業都市だったので、支配下に入れることは経済的に重要だったんです。
ちなみにルーシ人はその後スラヴ人と次第に同化していって、“ルーシ”が“ロシア”と呼ばれるようになり、現在まで至るロシア国家の起源になったんですよ。
キエフ公国
ノヴゴロド国はさらに交易の利益を求めて南に勢力を拡大していき、ビザンツ帝国を脅かすほどの存在になっていきます。
現在のウクライナの首都でもあるキエフを占領して、そこに首都を移したことからキエフ公国と呼ばれるようになり、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシの原型となる国家が成立しました。
ちなみに「公国」とは王国に従属する地方政権のことを指しますが、キエフ公国の場合は創設者の階級が一番高いわけではなかったことから「公国」と名付けられました。しかし、実体は「王国」と同じだと思ってもらって大丈夫だそうです。
ロシアの原型となるキエフ公国の発展や衰退はまた後の章で扱っていきましょう。
大移動の結果
ノルマン人のこうした大移動は、[5-2.2]ゲルマン人の大移動になぞられて第2次民族大移動といわれたりもします。
上記で紹介した他にも、アイスランドやグリーンランド、一部は北アメリカ大陸まで到達したノルマン人もいました。
もともとしたスカンディナビア半島でもデンマーク、ノルウェー、スウェーデンに王国が建設され、現在の北欧諸国の原型になっています。
このようにノルマン人の大移動によって原住地である北欧も西ヨーロッパに組み込まれて西ヨーロッパ世界が拡大されていきました。
同時に各地に建国させたノルマン人王国が現在の国家の原型になっていき、現在のヨーロッパ世界にも影響を与えているんです。
このノルマン人の大移動自体は、原住民との同化やキリスト教化が進むにつれて落ち着いていきました。
まとめ
MQ:ノルマン人がヨーロッパに与えた影響とは?
A:北欧を西ヨーロッパ世界に組み込んで拡大し、ヨーロッパ各地に成立したノルマン人王国の多くが現在の欧州諸国の原型となっている。
今回はこのような内容でした。
次回は、西ヨーロッパ世界で発展した封建制度についてやっていきます。ヨーロッパ特有の封建制度とはいったいどんな仕組みだったんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
Xのフォローお願いします!
重要語句の解説や選択問題、ブログの更新を投稿しています。
ぜひX(旧Twitter)でフォローしてください!
コメント