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はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はローマは帝政時代を向かえます。同時にローマに平和が訪れるのですが、この平和はローマ帝国にどんな影響を与えたのでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:「ローマの平和」は帝国にどんな影響があったのか?
今回の時代はここ!
ここからのローマはざっくりこんな感じで進んでいきます。
帝政時代のはじまり
アウグストゥス
第2回三頭政治後の内乱の後、オクタウィアヌスはそれを平定して敵なしの権力者になりましたね。
元老院側はオクタウィアヌスのこれまでの戦績を考慮して、「インペラトル」の称号をオクタウィアヌスに贈ります。
インペラトル・・・外敵を討伐するなどの業績を上げた将軍(軍司令官)に対して「無限の権をもつもの」という意味の称号(引用:インペラトル (y-history.net))
ちなみに「インペラトル」は、後に「皇帝」を意味するようになり、英語「エンペラー(emperor)」の語源にもなってるんですよ。
そして、前27年には元老院からオクタウィアヌスに対して「アウグストゥス(尊厳者)」という称号が与えられます。
彼の功績を考えれば「尊厳される存在」として当然だろう。
という感じでアウグストゥスが贈られたんですかね。
そしてこれ以降、オクタウィアヌスはアウグストゥスと呼ばれるようになりました。
オクタウィアヌス = アウグストゥス
アウグストゥスは“称号”でもあり“呼称”でもあるのでご注意してくださいね。
元首政(プリンキパトゥス)
SQ:なぜオクタウィアヌスは元老院と協調しようとしたのか?
一度は私有する軍隊を解散して、自分が持っていた権力と一緒にローマに返還したオクタウィアヌス(以後、アウグストゥスと表記)でしたが、次第にまた権力が彼のもとに集まっていきます。
・治安が悪い属州の統治(全体の約半数)
・護民官の神聖不可侵
・コンスルの命令権
民衆からの支持や元老院からの推薦、災害時の緊急措置などが重なってこれだけの権力がアウグストゥスのもとに集まりました。
これだけの権力が集中すると、もはや「皇帝」といっても過言ではないですよね。
しかし、ローマでは共和政がおこなわれ、アウグストゥスも「皇帝」という地位に就いたわけではなかったんです。
むしろ、アウグストゥスは“共和政を尊重”していたんです。
ではなぜアウグストゥスは元老院の共和政を尊重していたんでしょうか?
ヒントは「過去の経験」です。
義父のカエサルが独裁をして元老院に暗殺されてしまったからですか?
そうなんです。
カエサルが独裁に不満を持つ元老院によって暗殺されたのを10代の頃に経験していたので。その失敗を繰り返さないために、元老院と協調しようとしたんです。
SQ:アウグストゥスは自分の地位をどのように捉えていたのか?
この史料はアウグストゥスが自分の功績を書いた遺書の一部です。
これを読んで当時、アウグストゥスが自分の地位をどのように捉えていたのかを考えてみましょう。
みなさんはわかりましたか?
模範解答は以下の通りです。
なのでアウグストゥスは、
私はあくまで元老院議員の筆頭で、市民の中の1人にすぎないのです。
という皇帝独裁を否定する立場をとって、「市民の中の第一人者=プリンケプス」を自称しました。
しかし上記の権限のように、元老院や民会は残っていてもその権力は全てアウグストゥスが握っていました。
なので、表向きは共和政が敷かれていましたが、その実態はアウグストゥスによる皇帝独裁だったんです。
このような政治体制を元首政(プリンキパトゥス)といいます。
ここからローマは帝政時代に入っていきます。
ローマ帝国の誕生ですね。
アウグストゥスの死後は養子が権力を引き継いだことで、ローマに共和政が戻ることはもう二度とかないませんでした。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
「ローマの平和」とは?
このアウグストゥスの時代から、ローマは約200年間にわたって繁栄と平和な時代が続きました。
この時代を「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)といいます。
この平和はあくまでローマからみた平和であることに注意しておきましょう。
国境付近では異民族との闘争はもちろんありましたし、軍事力で押さえつけた平和であったことを理解しておきましょう。
五賢帝
「ローマの平和」の中でも特に繁栄して平和だったのが、五人の優秀な皇帝が続いた五賢帝(ごけんてい)の時代でした。
①ネルウァ(在位96~98)
②トラヤヌス(在位98~117)
③ハドリアヌス(在位117~138)
④アントニヌス=ピウス(在位138~161)
⑤マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝は英語で「FIVE GOOD EMPERORS」といいます。
こっちのほうがイメージしやすい人もいるかもしれませんね。
順にそれぞれの特徴をみていきましょう。
ネルウァ(在位96~98)
五賢帝の1人目はネルウァという人物です。
前皇帝が暴君であったことから暗殺されて、元老院議員の中から指名されて皇帝になったのがネルウァでした。
ネルウァは元老院と良好な関係を築きながら政治をおこない、次期皇帝となるトラヤヌスを養子にとりました。
特に目立つような功績は残していませんが、ローマ黄金期のトラヤヌスを養子にとったことが評価されて五賢帝に選ばれています。
ローマ黄金期の基礎を作ったということですね。
66歳で皇帝に指名されて、他にも経験豊富なベテランを積極採用するなどしていたので「老人政治」ともいわれていたそうです。
トラヤヌス(在位98~117)
五賢帝2人目はトラヤヌスです。
トラヤヌスは前代ネルウァの養子として皇帝を引き継ぎ、属州出身初の皇帝でもありました。
トラヤヌスは積極的に遠征をおこなってパルティアのクテシフォンを占領するなど、トラヤヌス帝時代にローマ帝国の領土は最大となりました。
ハドリアヌス(在位117~138)
五賢帝3人目はハドリアヌスです。
ハドリアヌスも属州出身の軍人であり、各地の前線で活躍していました。
そんな時に前代トラヤヌスが急死してしまい、軍の支持のもとトラヤヌスの養子となって元老院から皇帝に指名されました。
ハドリアヌスはそれまでの領土拡大路線から売って変わって、帝国内の整備に努めた「平和的手段による国家経営」をおこないました。
ハドリアヌスは軍人として遠征をおこなっていた際にこう考えていたんです。
領土が拡大しすぎて戦線を維持するのが大変だな、、、
ということで、一部領土を返還して属州やローマ帝国内の整備に力をいれました。
なのでここでローマ帝国の膨張はストップすることになります。
邦画『テルマエ・ロマエ』では国内整備を充実させようとするハドリアヌス帝の姿が登場します。
アントニヌス=ピウス(在位138~161)
五賢帝4人目はアントニヌス=ピウスです。
ここらへんから名前がややこしくなってきそうですね。頑張ってください!
ハドリアヌスの養子として皇帝に就いたのがアントニヌス=ピウスでした。
アントニヌス=ピウスが皇帝だった時代は特に問題も起こらず、安定した治世だったそうです。
元老院とも良好な関係を築けていたので、元老院から「最良の君主」と呼ばれました。
皇帝になる前のアントニウス=ピウスも邦画『テルマエ・ロマエ』で登場しています。
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
そして最後の5人目の五賢帝がマルクス=アウレリウス=アントニヌスです。
世界史の中でも名前の長さは屈指です。リズムで覚えてしまいましょう♪
マルクス=アウレリウス=アントニヌスは前代アントニヌス=ピウスの養子として皇帝に就き、ストア派の哲学者としても活躍した人物でした。
哲学者が皇帝になったことから「哲人皇帝」とも呼ばれています。
『自省録』という著書でも皇帝に即位した後も、人間らしい生き方を忘れずに常に自己反省を続けた記録をみることができます。
これまで安定していたローマ帝国でしたが、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの治世から異民族の侵入が各地で起きて、その対応に追われていたそうです。
帝国内の繁栄
ローマ帝国が最大領域だった頃には、全人口が約5000~6000万人(現在の韓国やイタリアぐらい)にまで達し、中心地のローマだけでみても80~120万人もの人々が住んでいました。
帝国各地にはローマ風の都市や道路、水道などが国境付近まで建設されてしたそうです。
なかにはロンドン(ブリタニア属州)、パリ(ガリア属州)、ウィーン(パンノニア属州)など、後に近代都市へと発展していった都市もあるんです。
どこも世界的に有名な都市ですね。
ローマ社会
身分制
帝政時代のローマの身分は大きく自由人と奴隷に分かれていました。
~ 特権階層 ~
・皇帝とその一族
・元老院議員
・騎士
・都市参事会(都市の政務担当、地方公務員)
~ 下層民 ~
・平民(一般自由人)
・解放奴隷
・奴隷
これらの身分は比較的上げることが簡単にできたので、資産さえ持っていれば身分を上げることができました。
ローマ市民権拡大
ローマは帝国内の都市を通して各属州を支配して、徴税も都市単位でおこなわれていました。
都市の上層部にはローマ市民権が与えられて、帝国支配に貢献していました。
ローマは分割統治という方法をとっていましたね。
逆に属州の下層市民は徴税などで苦しい生活を強いられていました。
カラカラ帝
しかし、カラカラ帝の治世だった212年に帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられたんです。
この属州を含む全自由民への市民権の拡大は、ローマが単なる都市国家から「世界帝国」へと正式に変わったことを意味しています。
SQ:なぜカラカラ帝は全自由人にローマ市民権を与えたのか?
ここで疑問に思うのが、「なぜローマ市民権を与えたのか?」というところです。
なぜ全自由人にローマ市民権を与えたのでしょうか?
市民権を与えることで、反乱を防止することができるからです。
そうですね。たしかに市民権がないことで不満をもっている人々はローマ帝国に対して反感的になりそうですもんね。
しかし、これには他の理由もあったみたいなんです。
カラカラ帝が市民権を拡大した目的は、実は単に税収を増やすためだったともいわれているんです。
以前までは、市民権を持たない人々は相続税を支払う必要がありませんでした。
なので市民権を与えることで、相続税が発生して結果、帝国への税収がアップするという狙いがあったんじゃないかといわれているんです。
商業活動の発展
ローマ帝政時代には、国外との交易も盛んにおこなわれました。
隊商交易や季節風貿易でアジア各地から香辛料や貴金属、絹などが輸入されていました。
ローマ帝国からはガラス工芸品が多く輸出されて、ローマン=グラスと呼ばれて世界中で愛用されました。
このように『ローマの平和』によって、地中海を中心に世界各地と繋がるグローバル化がこの時代に発展していきました。
まとめ
MQ:「ローマの平和」は帝国にどんな影響があったのか?
A:広大な帝国各地にローマ風の都市が建設され、中にはロンドンやパリ、ウィーンなどの近代都市として発展した都市も多かった。商業活動も活発になり、季節風貿易などで世界各地と交易したことでグローバル化が発展した。
今回はこのような内容でした。
次回は全盛期を向かえたローマに危機が訪れます。ローマは帝国となってどのような変化が起きたのでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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