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[4-3.10]ローマ帝国の専制君主政

4-3.ローマ文明

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は分裂の危機に陥ったローマ帝国がどのように危機を回避していったのかについてみていきます。

その過程で新しい支配体制も登場します。

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:分裂の危機を回避する過程で、ローマ帝国の支配体制はどのように変化したのか?

今回の時代はここ!

専制君主政
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ディオクレティアヌス帝

SQ:ディオクレティアヌスはどのように帝国の危機を回避したのか?

ローマ帝国には「3世期の危機」と呼ばれる混乱が訪れていましたね。

その混乱をおさめたのが、284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスでした。

ディオクレティアヌス帝

ディオクレティアヌスは軍人として活躍し、軍隊の支持で皇帝になったTHE・軍人皇帝でした。

彼は皇帝就任後、これらの課題に取り組みました。

ディオクレティアヌス帝が取り組んだ主な課題

①政治的混乱の収拾

②皇帝の権威回復

それではこれらの課題にどう取り組んだのかみていきましょう。

①政治的混乱の収拾

四帝分治制(テトラルキア)

彼は皇帝に就任した後、

ディオクレティアヌス帝
ディオクレティアヌス帝

皇帝1人でこの広大な帝国を統治するのは、もう不可能だ!

ということを悟ります。

まあ、国境付近の異民族との抗争や、各属州の軍団との派閥争いなど問題は尽きませんでしたからね。

それに対処するためにおこなわれた政策が四帝分治制(していぶんちせい)です。

これは帝国を東と西に分けて、それぞれに正帝と副帝をつけて統治するやり方でした。

それぞれ正帝が南半分副帝が北半分を統治する計4人の統治体制だったことから四帝分治制と呼ばれいます。

これによって外敵の動きや領土内の監視が行き届くようになり、政治的混乱を収めることに成功したんです。

ディオクレティアヌス帝、四帝分治制
四帝分治制 資料:『詳説世界史探究』山川出版社

もちろんこれには各属州の軍団の反乱を予防する目的もありました。

グシャケン
グシャケン

ちなみにディオクレティアヌス帝は東の正帝を担当していましたが、実際には全ての決定権を握っていて、他の三人の皇帝は名ばかりで、彼の代理として統治の役割を果たしていただけのようですね。

ゴリゴリの独裁政治ですね。

①政治的混乱の収拾

帝国を東西に分割し、計4人の皇帝で統治する四帝分治制を導入して管理を行き届かせた。

②皇帝の権威回復

皇帝の神格化と専制君主政

軍人皇帝の時代では、軍人が皇帝が即位しては戦死や暗殺が繰り返されてコロコロと皇帝が入れ替わっていましたよね。

グシャケン
グシャケン

国のトップが頻繁に入れ替わる(平均で2~3年に一度)と、市民はどう感じますかね?

「またどうせすぐに変わるんでしょ。」と思って公約や政策に対して信用が持てなくなると思います。

グシャケン
グシャケン

私も同意見です。しかも暗殺も横行していたとなると国の将来がなおさら不安になりますよね。

なので、ディオクレティアヌス帝が即位した当時は、皇帝に対しての信用や権威が低下していたんです。

これを持ち直して権威を回復させるためにおこなったのが「皇帝の神格化」だったんです。

ディオクレティアヌス帝は自らを神と宣言し、宮廷で皇帝への礼拝を強制して、皇帝をドミヌス(陛下)と呼ばせるなどの制度を導入しました。

もちろん皇帝自身が神なので、すべての決定権を皇帝に集中させました。

要は“すべての権力を皇帝へ”が目的だったんですね。

それまでも皇帝は元老院議員と共に政策を決定する元首政が残っていましたが、この皇帝の神格化によって元老院は機能しなくなり、共和政的な雰囲気は一切なくなってしまいました。

これによって皇帝は専制的な政治をおこなうようになって、ここからローマ帝国は元首政から専制君主政(ドミナトゥス)へと変わっていきました。

専制政治・・・国家の統治権を君主あるいは少数の者が独占する政治体制

②皇帝の権威回復

皇帝を神格化し、権力を集中させることで権威を回復させた。

ディオクレティアヌス帝、専制君主政(ドミナトゥス)

これらの課題をクリアして自分を絶対的存在にさせたことで、政治が安定するようになり混乱を収拾することに成功したのです。

SQ:ディオクレティアヌスはどのように帝国の危機を回避したのか?

四帝分治制によって内外の敵の動きを監視し、皇帝の神格化による専制君主政にしたことで、政治的秩序を安定させて、帝国の分裂の危機を回避した。

キリスト教大迫害

SQ:なぜキリスト教を大迫害したのか?

ディオクレティアヌス帝はキリスト教に対してローマ帝国最後にして最大の大迫害をしたことでも有名です。

キリスト教の書物を処分し、教会の財産を没収、信者たちも大勢を処刑するなど、その弾圧は徹底されていました。

グシャケン
グシャケン

円形競技場にキリスト教徒を縛り上げて、猛獣に食べさせるなどの残酷な処刑をおこなっていたそうです。

ではなぜそれほどまでしてキリスト教徒を迫害したのでしょうか?

キリスト教についてはまだ勉強していませんが、キリスト教の特徴を調べて考えてみましょう!

それはディオクレティアヌス帝がおこなった「皇帝の神格化」が原因でした。

ディオクレティアヌス帝は皇帝を神として崇拝することを強制しましたが、キリスト教は「イエスのみが神」という一神教の宗教だったんです。

なので、当然キリスト教徒たちはディオクレティアヌス帝への崇拝を拒否します。

これでは皇帝の権威回復の邪魔になってしまいますよね。

なので上記の「②皇帝の権威回復」を課題をクリアするために、それに従わない人々(キリスト教徒)を迫害したんです。

SQ:なぜキリスト教を大迫害したのか?

ディオクレティアヌス帝は皇帝の神格化をおこなったが、キリスト教が一神教であったことから、皇帝への崇拝を拒否したため。

ディオクレティアヌス帝、キリスト教の大迫害
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コンスタンティヌス帝

改革の継承

ディオクレティアヌス帝の改革によってローマ帝国は安定し始めたと思いきや、ディオクレティアヌス帝が亡くなった後は、そのバランスが崩れてしまいます。

もともと四帝分治制はディオクレティアヌス帝の全権集中のもとで機能していたので、その亡き後は誰がその全権を引き継ぐかで内乱が起きてしまったのです。

最終的にその内乱を制して、皇帝を引き継いだのがコンスタンティヌスでした。

コンスタンティヌス帝

コンスタンティヌス帝はもともと軍人として活躍して軍の支持で西の正帝に選ばれました。

そして四帝分治による争いの中で皇帝を自称する敵対人物を次々と撃破していき、最後は単独皇帝としてローマ帝国に君臨しました。

コンスタンティヌス帝はディオクレティアヌス帝の改革を引き継いで実施し、専制君主政をさらに強化する政策を推し進めていきました。

特に機動的な軍隊(騎馬隊が中心)を増強することで、帝国の支配を安定させて治安を維持しようとしました。

グシャケン
グシャケン

コンスタンティヌス帝も軍人皇帝だったので、治安維持が力技ですね。

まあ、これぐらいしないともう安定しなかったという見方もできます。

キリスト教の公認

SQ:コンスタンティヌス帝はなぜキリスト教を公認したのか?

コンスタンティヌス帝はディオクレティアヌス帝から引き継がなかった政策もありました。

それが「キリスト教の公認」です。

ディオクレティアヌス帝の時は皇帝崇拝のために、一神教のキリスト教徒たち大迫害しましたよね。

ですがこのコンスタンティヌス帝は打って変わってキリスト教を公認したんです。

グシャケン
グシャケン

ではなぜキリスト教を公認したのでしょうか?

ヒントは迫害後もキリスト教徒たちは隠れながら信仰・布教を続けていました。

ローマ帝国内でキリスト教が広がりすぎてもう弾圧できなくなったからですか?

グシャケン
グシャケン

その通りです。コンスタンティヌス帝は帝国内のキリスト教の広がりを止めることができなくなってしまったので、弾圧ではなく公認したほうが、政治が安定すると考えたのです。

コンスタンティヌス帝の治世は再び軍人たちによる闘争や内乱が起きて混乱している時代でした。

なので、帝国を安定させるためにキリスト教の信仰をむしろ認めたほうが社会が安定するんじゃないかと考えたんでしょうね。

グシャケン
グシャケン

例えば学校のスマホの扱いで、もともと禁止だったけど、スマホの普及によって指導が難しくなっていき、スマホ所持を許可したことで学校が平和になった。みたいな感じですかね。

これらの要因によって、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認されて、帝国内での自由な信仰が認められました。

SQ:コンスタンティヌス帝はなぜキリスト教を公認したのか?

急速に広がっていたキリスト教を抑えることが困難になり、帝国の安定のために公認した。

コンスタンティヌス帝、キリスト教の公認
コンスタンティヌス帝、キリスト教の公認
グシャケン
グシャケン

ちなみに公認されたのはキリスト教だけではなく、他の宗教も信仰が認められました。とにかく帝国内の混乱を沈めることが重要だったんですね。

コロヌスの土地縛り

コンスタンティヌス帝はローマ帝国の税収を安定させるために、コロナトゥス(小作制)の強化にも取り組みました。

法律によってコロヌス(小作人)の移動を禁止したり、身分を固定させてコロヌスを土地に縛り付けて、税収を安定させようとしました。

これによってコロナトゥスが普及して、ラティフンディアに変わる生産方式としてローマ帝国内で固まっていきました。

コンスタンティヌス帝、コロヌス(小作人)の土地拘束

コンスタンティノープルへの遷都

帝国の再建に貢献したコンスタンティヌス帝は、ビザンティウムに新しい首都を建設してコンスタンティノープルと名付けました。

コンスタンティノープル

SQ:なぜ新首都を建設したのか?

グシャケン
グシャケン

なぜコンスタンティヌス帝は帝国の東側に首都を建設したのでしょうか?

ヒントは“交易”です。

東側の文明と接していて交易が活発な地域だったからですか?

グシャケン
グシャケン

そうなんです。この地域は東の文明(イランや中国)との交易の要衝だったんです。

なのでコンスタンティヌス帝は経済の中心地としてコンスタンティノープルを建設したんですね。

首都だった都市ローマは帝国の西側に位置していますね。

しかし当時、西側は異民族の侵入などによる不況で都市が衰退していました。

西側とは違い、東側は東西交易によって都市がにぎわっていました。

コンスタンティヌス帝にとっては不況の西側より、好況の東側に首都を置いた方が帝国の管理が行き届くと考えました。

グシャケン
グシャケン

コンスタンティヌス帝は経済の中心地を管理下に置くことで、さらに交易を活発にしてローマ帝国を安定させようとしたんですね。

SQ:なぜ新首都を建設したのか?

衰退した西よりも東西交易の要衝だった東を管理下に置いて、ローマ帝国の統治を安定させようとしたため。

これによってローマ帝国の中心地は西のローマから東のコンスタンティノープルに移っていき、都市ローマがある西側はさらに衰退して、東西格差が広がっていくことになりました。

コンスタンティノープル建設

官僚体制の整備

コンスタンティヌス帝の改革では、皇帝の政策を実行する官僚(官吏)の存在感が大きくなりました。

皇帝が官僚をつかってローマ帝国を専制支配する体制がコンスタンティヌス帝の時に出来上がったのです。

なので政治の世界でも政治家ではなく、官僚として出世することが望ましくなるような階層社会へとなっていきました。

コンスタンティヌス帝、官僚体制の整備
グシャケン
グシャケン

簡単にいうと、専制君主政の時代を経て、皇帝の権力がすさまじく大きくなったということです。

だって皇帝に従う官僚への出世が人生の成功と思われるようになったわけですから。

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まとめ

MQ:分裂の危機を回避する過程で、ローマ帝国の支配体制はどのように変化したのか?

A:様々な改革を行う中で、皇帝を崇拝させる専制君主政がおこり、帝国支配を安定させるために巨大な官僚機構が築かれたことで、皇帝が官僚を使って帝国を支配する体制が出来上がった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は専制君主政のローマ帝国に新たな危機が訪れて、帝国に分裂が起きてしまいます。その後ローマはどうなってしまったのか。

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

4-3.ローマ文明
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