世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はキリスト教公認後におこなわれた“教義の統一”です。誕生から時間が経ってざまざまな宗派が誕生し、どれが正統なのかが協議されました。
いったいどんな宗派が正統となり、異端となったのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:どんな宗派が正統とされたのか?そして異端となった宗派のその後とは?
今回の時代はここ!
ニケーア公会議
キリスト教はネロ帝から始まる長い迫害期間を過ごしましたが、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって公認されて晴れて迫害から解放されました。
ここから皇帝の保護を受けて急速に信仰を広げていきます。
しかし!
公認された時には、イエス=キリストが十字架にかけられてからすでに300年以上が経過していました。
なので、使徒たちによって教えは伝道されてはいましたが、教義を巡って解釈の違いが出てきていたんです。
さまざまな考えの宗派同士が議論をする中で、キリスト教を保護する皇帝として、これらの問題を仲裁するべく、
キリスト教の教義を一本化するぞ!
ということで、皇帝の名のもとに帝国全土から司教が集められて、キリスト教の教義について公会議が開かれました。
コンスタンティヌス帝が325年に開いた公会議をニケーア公会議といいます。
このニケーア公会議で重要な争点となったのが、
「神である父と、その子であるイエスでは、どちらが偉いの?」「イエスは神なの?」
という問題でした。
キリスト教は救世主であるイエス=キリストを信仰する宗教なんですが、イエス自身は神の子として人類の罪をあがなって十字架にかかったので、信徒たちの間で、
イエスは神の子だけど人間だから、神の方を祈るべきじゃない?
いや、イエス=キリストも神だから祈りを捧げるべきだ!
みたいな議論が起こったんです。
これらの争点をまとめるために開かれたのがニケーア公会議というわけなんです。
ニケーア公会議では主に以下の2つの宗派が正統をめぐって議論がされました。
・アタナシウス派
「イエス=神=父」であり、イエスは子でありながら、父と同じ神であるという考え。
・アリウス派
「イエス=人間」であり、イエスは神によって造られた人間であり、神とは異なる存在であるという考え。
この公会議は約2か月にもわたって議論されました。
最終的には、「イエス=神」を主張するアタナシウス派が正統とされて決着となりました。
逆に「イエス=人間」とするアリウス派は異端となって、皇帝によってローマを追放されてしまいました。
SQ:なぜアタナシウス派が正統となったのか?
このニケーア公会議でアタナシウス派が正統となったのには、理由がありました。
それはアタナシウス派が主張した「三位一体説(さんみいったいせつ)」と呼ばれるものです。
簡単にいうと、三位一体説とは、
神(父)=イエス=キリスト(子)=聖霊
聖霊・・・人に宿り、啓示を与える神と人間の仲介役
「それぞれ違う品格を持っているけれども、実体は一緒だよ。」
みたいな感じですかね。
実はこの考え方はキリスト教徒の中では主流で、ローマ皇帝にとって都合が良かったんです。
コンスタンティヌス帝はキリスト教を信仰していたので、
この三位一体説を利用すれば、民衆の多くも受け入れやすく、政治的な支持を受けやすいのでは?
ということで、一時はアリウス派に寄り添う立場を見せたコンスタンティヌス帝でしたが、最終的にはアタナシウス派を支持したというわけなんです。
ちなみにニケーア公会議では、キリスト教とユダヤ教の区別を明確にするため、暦と週末の休日が変更されました。
ユダヤ教徒は伝統的に土曜日を安息日として過ごしていましたが、キリスト教会は日曜日を公式の休息日として採用しました。
ローマ帝国を追放されてしまった異端のアリウス派はその後、北方のゲルマン人に布教されていきました。
アリウス派は神とイエスの関係がハッキリわかれていたので、ゲルマン人も理解しやすく、ゲルマン人が信仰していた宗教と合体しながら発展していきました。
正統教義の確立
ニケーア公会議でアタナシウス派が正統とされて、三位一体説が定説となっていくと、それらを理論化して確立させることに尽力した人物たちが現れます。
彼らは教父と呼ばれるキリスト教思想家として教義の確立に貢献しました。
教父・・・教会の指導者たちで、聖書の解釈において重要な著作を残した人物たち
エウセビオス
エウセビオスは、コンスタンティヌス帝の側近の教父として、初めて『教会史』などのキリスト教の歴史を書いた人物なんです。
『教会史』は、イエスの誕生からコンスタンティヌス帝の公認までの歴史が記されており、キリスト教の歴史を知るうえで重要な資料になっています。
キリスト教公認後は、皇帝の側近として教義確立の中心的役割を担いました。
エウセビオスは、皇帝の位は「神の恩寵(おんちょう)」であるとする「神寵帝理念(しんちょうてんりねん)」を主張し、皇帝の専制政治を支える役割を果たしました。
この考え方はビザンツ帝国や、西欧の王権神授説などに引き継がれていきました。
恩寵・・・神から受ける恵み。
アウグスティヌス
アウグスティヌスは西ローマ帝国時代の北アフリカで活動し教父で、『告白』や『神の国』を著して、教会の権威の確立に努めた人物でした。
『告白』
『告白』は、アウグスティヌスが若い頃にマニ教を信仰していた過去が過ちであったことについて書かれた著書です。
この著作では、信仰の正しい形を人の心の中から探し、三位一体説の教義を不動の原則として確立させることを主張しています。
『神の国』
SQ:なぜ『神の国』で、キリスト教がローマ帝国よりも永遠に続くことを主張したのか?
『神の国』では、キリスト教はローマ帝国(国家)に依存せずに、教会が『神の国』として永遠に続くことを説明した著書です。
ではなぜアウグスティヌスは保護を受けているローマ帝国に対して、「キリスト教はローマ帝国よりも永遠に続く。」と主張したのでしょうか?
ヒントはアウグスティヌスが生きていた頃は、どんな社会状況だったのかを考えてみてください。
アウグスティヌスの生きていた頃の西ローマ帝国は、帝国の東西分裂後、ゲルマン人の侵入を受けて、ボロボロになっていく時代でしたね。
ゲルマン人によって首都のローマが破壊されてしまった際に、キリスト教の教会も存続の危機を向かえます。
ローマが破壊されたのは、キリスト教に対する報復だ!
と批判されたりもしました。大変ですね。
そこでアウグスティヌスが考えて出したのが、『神の国』の主張だったんです。
この著書によってキリスト教会の正当性を示して、「国家<キリスト教会」と主張することで、キリスト教を守ろうとしたんです。
アウグスティヌスは最終的にゲルマン人の侵攻によって命を落としてしまいますが、『神の国』の考え方は、西ローマ帝国滅亡後もゲルマン人にキリスト教が浸透していくなど、世界宗教として広がっていくことに貢献しました。
背教者と国教化
「背教者」ユリアヌス帝
キリスト教は公認されてしばらく後に、ユリアヌス帝という皇帝が即位します。
ユリアヌス帝が就任した頃は、帝国の財政が膨らんで悪化していました。
なので、そうした状況を解決するために、財政改革に乗り出します。
宮殿の維持費や官僚の人件費などを削減していったんですげ、なんとその中でキリスト教の教会への支援なども打ち切りにしたんです。
ユリアヌス帝はキリスト教会への支援の反面、ギリシアなどの伝統的な神殿の維持が疎かになっていたことに疑問を感じていたので、伝統的宗教の復興支援をしようとしていたんです。
ユリアヌス帝はギリシア文化に興味を持っていて、愛好していたようです。
伝統的な宗教の復興に取り掛かろうとしたユリアヌス帝でしたが、帝国の治安を安定させるために東の国境と隣接していたササン朝に遠征に行った際に、戦死してしまいました。
ユリアヌス帝の在位期間はわずか2,3年で終わってしまいました。
ユリアヌス帝はキリスト教の公認を取り消し、教会への保護を打ち切りしましたが、キリスト教を禁止したり迫害したわけではなく、伝統的な宗教に敬意を込めて他の宗教に対しても寛容になった、ということなんです。
ですが、キリスト教の保護を中止したことで、ユリアヌス帝はキリスト教から批判をうけて「背教者」と呼ばれるようになってしまいました。
「背教者」というのは、あくまでキリスト教からの評価であることに注意しておきましょう。
テオドシウス帝の国教化
アタナシウス派の三位一体説が正統の教義となった後も、異端な宗派ができたりとローマ帝国内は混乱していました。
これに対処したのが、テオドシウス帝でした。
死後に帝国を東西に分けた皇帝でもありましたね。
テオドシウス帝は公会議を開き、アタナシウス派の三位一体説を正統教義として再確認しました。
さらに国内の混乱を治めるために大胆な政策にでます。
なんとキリスト教以外の宗教を禁止する異教徒禁止令を出したんです。
これによって、アタナシウス派のキリスト教を事実上の国教となりました。
これによってキリスト教がローマ帝国の権威のもとに国教となっていきました。
五本山
この国教化によって教会組織も確立されていきました。
ローマ帝国末期には、大きく5つの区にわけて教会と信徒を管理するようになっていきました。
その5つの区には大司教がおかれ、それらの教会をまとめて五本山といいます。
・ローマ
・コンスタンティノープル
・アンティオキア
・イェルサレム
・アレクサンドリア
エフェソス公会議
キリスト教が国教化されたことで、ローマ帝国へのキリスト教信仰は盤石のものになったと思われたのですが、、、
実は教義が完全に統一されたわけではなかったんです。
ニケーア公会議では「イエスは神なのか?」について話し合って、アタナシウス派が正統とされましたよね。
これで「イエスは人間ではなく、神である。」とされたんですが、、、
「イエスは神であり、人間でもある。」という考え方が出てきたんです。
その中心となったのがネストリウス派という宗派でした。
父は神だが、母マリアは人間でしょ。
人間が神イエスを産んだら、神が創造主であることに矛盾が生まれるじゃないか。
だから、イエスは人間として産まれたけど、神の性質も持ち合わせたということになるんじゃないか。
という主張をしたんです。
・ネストリウス派
「イエス=人間性をもつ神」であり、イエスは神であるが、人間性も持ち合わせているという考え。三位一体説を否定。
ネストリウス派は、正統とされた三位一体説を否定していたことから、教義の再統一を巡って公会議が開かれることになりました。
431年に開かれた公会議をエフェソス公会議といいます。
結果はイエスに人間性を認めるエフェソス派が異端となって、ローマから追放されてしまいました。
その後、ネストリウス派は東に布教していき、ササン朝を経て中国(唐)まで教えが広がっていきました。
中国ではネストリウス派キリスト教が“景教”と呼ばれて信仰されました。
シルク=ロードを伝って広がっていったのがわかりますね。
こうした教義に関する宗派同士の論争は民衆レベルにも発展して、しばしば暴動が起きて軍隊が導入されるほどでした。
まとめ
MQ:どんな宗派が正統とされたのか?そして異端となった宗派のその後とは?
A:イエスは神と精霊と同質である三位一体説を主張したアタナシウス派が正統とされた。イエスは人間であるとするアリウス派や、神であるが人間性も持つとするネストリウス派は異端とされ追放された。その後、アリウス派は北方のゲルマン人に広がり、ネストリウス派はササン朝を経て唐にまで広がっていった。
今回はこのような内容でした。
次回からは新章の「イスラーム教世界」に入っていきます。世界三大宗教最後のイスラーム教とはどんな宗教でなぜ誕生したのか?
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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コメント
いつもありがとうございます。授業作成の参考にさせていただいております。
精霊ではなく聖霊ではないでしょうか。
その通りですね。こちらの表記ミスなので訂正させていただきました。ご指摘ありがとうございます。今後もよろしくお願いします。