世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は、ローマ帝国でキリスト教はどのような扱いを受けてきたのかについてみていきます。
ローマ帝国はどんな対応をしたのでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:キリスト教はローマ帝国にどんな扱いをうけたのか?
今回の時代はここ!
迫害のはじまり
SQ:キリスト教はなぜ迫害を受けたのか?
新興宗教キリスト教の見られ方
まず前提として、ローマ帝国は広大な領土にさまざまな民族を抱えていたので、各地の文化・宗教に対しては、比較的に優しい対応をしていました。
なので、キリスト教もはじめは他の宗教と同じように禁止されてはいなかったんです。
しかし、キリスト教がイエス=キリストを信仰する唯一神の宗教であったことが、次第にローマ帝国内で反キリスト教精神が芽生えていくことになります。
例えば、ローマの神々への供え物を拒否するなどのローマ法違反で罰せられるとか。
しかも、絶対愛の考えから奴隷も信者として礼拝に同席していることが、市民や帝国から、
奴隷も一緒に礼拝に参加しているなんで非常識だよね。
あいつらは変わってるから危ないね。
と噂(うさわ)されるようになって、ローマ帝国内で「危険な宗教」とみられてるようになっていったんです。
血と肉を象徴するブドウ酒とパンをキリスト教徒が食べる儀式が誤解されて、「人を食べている。」などと誤解されたりもしたそうです。
新しいもの(この場合、宗教)に対してはいつの時代も偏見がもたれるものですね。。
迫害と殉教
そして3世紀に入ると、ローマ帝国は「3世紀の危機」を向かえます。
不安と混乱の時代になると、皇帝は権威の回復と帝国の安定のために、国家宗教の再興に乗り出します。
皇帝の神の1人として、帝国全土に神々への崇拝を命じたんです。
もちろん皇帝崇拝も含めて。
これに待ったをかけたのがキリスト教徒でした。
キリスト教は唯一神であるイエス=キリストのみを信仰する宗教なので、この命令に背きます。
皇帝の命令に背くとどうなるか?
ローマ帝国に対する「反社会集団」として見られしまったんですね。
これによってキリスト教徒たちは、帝国や民衆から危険視され迫害を受けるようになったわけなんです。
迫害の中で殉教者(じゅんきょうしゃ)となってしまう方も多く、多くの犠牲者を出してしまいました。
殉教・・・信仰する宗教のために自分の命を捨てること。
実は、当時のキリスト教徒にとっては、殉教は望ましいことだったんです。
特に公開処刑など、反キリスト教の人々の目の前で死ぬことが重視されていました。
これはイエスの十字架とシチュエーションが重なって、人類の罪をあがなう行為だとされていたからなんです。
ネロ帝の迫害
キリスト教迫害をローマ帝国の主導で始めておこなわれたのは、ネロ帝の時代でした。
ネロ帝は皇帝就任初期にストア派学者のセネカを補佐につけていましたね。
ことの発端は、64年に起きたローマ大火でした。
「ローマの平和(パクス=ロマーナ)」に入り、当時の首都ローマは100万人もの人口を抱える大都市に成長していました。
しかし、建物の多くが木造で密集していたので、ボヤ騒ぎが相次いでいたんです。
そしてその中でも、64年に起きたローマ大火は最大規模を誇り、鎮火までに約1週間かかったとされているんです。
まさに大災害ですね。
ネロ帝は大火に対して、鎮火活動や被災者への仮設住宅や食糧配布などの支援を積極的におこなったのですが・・・
なんか皇帝が新しく都を建設するためにわざと放火したらしいわよ。
というネロ帝への悪評がローマ中に流れてしまいます。
実際に広大な焼け跡に「黄金宮殿」なる壮大な建築物を建てているので、そういったうわさが流れるのも無理ないですね。
そこでネロ帝がおこなったのが、放火の責任をキリスト教徒と断定して処刑するというものでした。
この対応はネロ帝からすると、
キリスト教徒はイエスという神だけを信じるとか言って神々への供物も拒否するし、民衆からも警戒されるような集団だから、放火を責任を負わせることで民衆の怒りをキリスト教徒へ移そう。
といった考えからキリスト教徒が利用されてしまい、放火の責任がキリスト教徒であると断定され、史上初めてのキリスト教迫害がおこなわれたんです。
これによってネロ帝は民衆の自分への怒りをキリスト教にスイッチさせたわけなんです。
当時、キリスト教は使徒たちの伝道活動がおこなわれていたところで、まだ新興宗教として知名度が低かったのですが、このネロ帝の迫害によって奇しくも世間に認知されるようになりました。
ネロ帝は捕らえたキリスト教徒を円形競技場で猛獣のエサにしたり、十字架にかけて燃やしたりして、「見世物」として公開処刑しました。
なんと残酷な・・・
これらの行為でネロ帝は「暴君」として認識されることが多いですね。
使徒のペテロやパウロもこの迫害によって殉教したといわれています。
ディオクレティアヌス帝の大迫害
ネロ帝によって史上初のキリスト教徒への迫害がおこなわれましたが、本格的な迫害は2世紀以降も続きました。
特に専制君主政を始めたディオクレティアヌス帝は、皇帝の権威回復のためにおこなった皇帝崇拝をキリスト教徒が拒否したことから、最初で最後のキリスト教大迫害をおこないました。
こちらもキリスト教徒たちを円形競技場に引きずり出して、猛獣に食わせるなどの公開処刑をおこなって、「見世物」にしました。
ネロ帝といい、ディオクレティアヌス帝といい、なんて残酷な、、、
ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒たちの拠り所を無くすために、聖書の原型であった書物を燃やしたり、教会の財産を没収するなどの政策もおこないました。
国家として市民の意識統一のために、政策に批判的な思想を弾圧するのは、世界史ではよくみられることです。
例えば、中国の秦の始皇帝がおこなった「焚書・坑儒」あどがあげられますね。
公認
カタコンベでの活動
以上2人の皇帝による迫害をみてきましたが、実は皇帝主導による迫害自体の数は少なく、民衆による迫害運動の方が頻繁におこっていたんです。
だってキリスト教は絶対愛の考えから身分制を否定しているので、元老院や騎士などの貴族層や、奴隷制などの身分制があるローマ帝国では受け入れ難い教義だったんでしょうね。
なので、迫害を受けたキリスト教徒(特に下層市民)は、誰にも見つからない地下墓地であるカタコンベということろに逃げ込んで、そこで密かに礼拝を続けました。
キリスト教徒たちは、カタコンベで隠れながらもイエスからの救済を求めて信仰を続け、徐々にその信仰を広げていきました。
カタコンベに残っている壁画は、初期キリスト教の信仰を伝える美術品として評価されています。
コンスタンティヌス帝の公認
SQ:なぜ迫害されていたキリスト教は公認されたのか?
度重なる迫害をうけたキリスト教ですが、それにも関わらず信仰の拡大が止まりませんでした。
なぜキリスト教は迫害を受けても帝国全土へ拡大していったんでしょうか?
やはりそれだけ救いを求めている人が多かったからですか?
そうですね。混乱の時代だったので、個人的な救済を求める人が多かったのはもちろん、キリスト教自体が土地や民族、身分などに縛られない開放的な宗教であったのも理由の1つですね。
伝統的な宗教と違って、民族や身分に縛られない開放的な教義を持っていたことで、下層市民を中心に拡大していったんです。
そのうち、上層市民にも信徒が現れていき、社会全体へと広がっていきました。
こうなってくると、迫害してもさほど効果が出ない状況になってきますよね。
キリスト教徒の数が増えれば増えるほど、迫害によって帝国内が混乱し、収拾がつかなくなってきます。
そこで帝国を統一して安定させようとしたのがコンスタンティヌス帝でした。
コンスタンティヌス帝は帝国内のキリスト教の広がりを止めることができなくなってしまったので、迫害ではなく公認したほうが、政治が安定すると考えました。
そして313年に、ミラノ勅令によってキリスト教が公認されたのです。
ミラノ勅令では特にキリスト教を名指ししたわけではなく、「いずれも宗派の信仰も認める。」という形で信仰が公認されました。
ちなみにこの時、コンスタンティヌス帝は同じく皇帝を争っていたライバルが、キリスト教を迫害していたこともあって、キリスト教公認を政治的に利用したんじゃないかともいわれています。
このミラノ勅令によってキリスト教に対する迫害が終わりを告げて、帝国各地で表立っての活動が再開されました。
これ以降はキリスト教は帝国によって保護される宗派として位置づけられ、信徒拡大を続けていきました。
キリスト教は長い迫害生活を送りましたが、最後は粘り勝ちといった感じですね。
ちなみにキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は欧州では人気が高く、いたるところに像が建っているんですよ。
まとめ
MQ:キリスト教はローマ帝国にどんな扱いをうけたのか?
A:教義から、皇帝崇拝を拒否するなどの行為によって、皇帝や民衆から迫害を受けた。多くの殉教者を出しながらも拡大を続けたことによって、313年のミラノ勅令によって信仰が公認された。それ以降は帝国の保護のもと、帝国全土へと信仰が拡大していった。
今回はこのような内容でした。
次回は、ローマ帝国で公認されたキリスト教が、信仰を統一するための「教義の統一」の流れをみていきます。最終的にどんな宗派が公認されたのでしょうか?逆に異端となった宗派はその後、どうなってしまったのか?
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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