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[2-4.8]唐の滅亡と五代十国

2-4.隋、唐

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は財政難を克服しようと始めた政策の副作用によって、唐に対する反乱が起きてついに長年繫栄してきた唐が滅亡してしまいます。

その後中国ではどんな国が興るのか、それではいきましょう!

MQ:唐の社会変化によって、その後何が起こったのか?

今回の時代はここ!

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黄巣の乱

9世紀末、唐では黄河下流を中心に農民反乱が相次いで起きました

875年、この地域ではイナゴが大発生し、農地がイナゴによって壊滅したことで、その怒りが国家(唐)に向かって反乱が起きてしまいました。

イナゴの大発生・・・乾燥した地域に大量の雨が降るなど、いくつかの条件が合わさって起こる現象。

この農民反乱に乗じての密売人であった黄巣(こうそう)が起こした反乱が黄巣の乱でした。

黄巣

当時、塩は唐王朝の専売特許として国家財政を支える存在でした。唐は塩に重税をかけて販売したため、市場では元塩商人たちが安価な値段で闇市で販売(密売)をしていました。

これに対して唐が塩の密売を厳しく規制したので、それに反発した密売人たちが黄巣を中心に商人ネットワークを活かして秘密組織を作りました。それによって起こったのが黄巣の乱でした。

黄巣の乱

反乱軍は南下していき、広州に入って外国人商人を虐殺して資金を調達しました。そこから世直しを宣言して長安を目指して北上していきます。

唐の皇帝は長安から逃げ出してしまったので、黄巣は長安に入城して新しい国号(大斉)をたてるなど反乱は激化していきました。

窮地に陥った唐は突厥系の異民族に救援をもとめ、この援軍によって長安を包囲し、黄巣たちを追い込んでいきます。

この包囲戦によって最終的に黄巣軍は次々と降伏していき、黄巣も長安から脱出せざるを得ない状況になってしまいます。この時、突厥系の援軍によって長安に火がつけられて長安は火の海になり、数百年の繁栄が灰となってしまいました。

黄巣は長安を脱出後、逃走中に部下に殺害されてしまい、約10年間にも及んだ反乱は鎮圧されました。

首都の長安は荒廃し、反乱との戦いで唐社会は急激に衰退していきます。

黄巣の乱
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唐の滅亡

この黄巣の乱で、黄巣軍の部将として頭角を現すも、黄巣を裏切って唐に投降し、黄巣を長安から追い出した人物がいました。

その人物は朱温(しゅおん)といい、反乱鎮圧後は唐の皇帝から朱全忠(しゅぜんちゅう)という名前を与えられて節度使に抜擢されました。

朱全忠

黄巣を裏切って鎮圧に貢献した対価ですね。もしかしたら、これを条件に裏切りの交渉があったのかもしれませんね。

朱全忠は大運河と黄河が接している開封(かいほう)を拠点に国力を蓄えていきました。

国力を蓄えていった朱全忠は次第に唐に政治的な圧力をかけていき、当時の昭帝を殺害し哀帝を建ててしまいます。もちろんこの哀帝は朱全忠の操り人形です。

そしてその哀帝から禅譲をうけて、907年朱全忠はみずから皇帝として後梁(こうりょう)を建国します。

この後梁の建国によって、約300年にわたって繁栄した唐は滅亡することとなってしまいました。

朱全忠
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五代十国

後梁

SQ:朱全忠の貴族勢力排除はどのような意味をもっているのか?

朱全忠は唐を滅亡させた後、宮廷で権力をもっていた宦官勢力を処刑、貴族階級も排除するために首都機能を開封に移すなど、旧勢力の打倒をおこないました。

もともと節度使だったことからその武力を背景に統治する武断政治によって国を治めていました。

グシャケン
グシャケン

みなさん貴族階級が現れたのはいつか覚えていますか?

う~ん。覚えてないです。

グシャケン
グシャケン

まあ、無理もないですね。

貴族階級は主に魏晋南北朝時代の魏まで遡ります。

この朱全忠の武断政治による貴族階級の排除は、魏晋南北朝時代から続いた貴族階級中心の政治の終わりを告げ、後におこなわれる皇帝中心の時代が始まったことを意味しているんです。

SQ:朱全忠の貴族勢力排除はどのような意味をもっているのか?

魏晋南北朝から続いた貴族の時代が終わり、後の皇帝による専制政治の始まりとなった。

朱全忠

しかし、後梁は唐を滅ぼしたからといって決してその治世は安定していたわけではなかったんです。

唐後半から節度使たちが自立して地方政権(藩鎮)として台頭していたので、朱全忠が後梁を建てた後も対抗勢力が多く、朱全忠自身も子どもに殺されるなど、政治が不安定な時期が続きました

五代十国

その混乱の中から、藩鎮出身の武人たちが台頭して政権を奪い合い、華北には十数年ごとに後梁から始まる5つの王朝が建てられました。この5つの王朝のことを五代(ごだい)といいます。

五代

後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5王朝

さらにその華北以外の地域に10か国もの王朝が興亡しました。

十国

呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢の10王朝

五代とこの10王朝とあわせて、唐滅亡後の群雄割拠の時代を五代十国といいます。

五代十国
五代十国

この五代十国は979年に宋が統一を果たすまでの約70年間続くことになります。

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まとめ

MQ:唐の社会変化によって、その後何が起こったのか?

A:財政難解決のための専売や重税によって密売人による黄巣の乱が起き、唐は急速に衰退し、節度使の朱全忠によって政権を奪われ滅亡した。その後は、藩鎮出身の武人たちによって五代十国が興亡し、群雄割拠の時代となった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は唐後期の文化についてやっていきます。まだしばらく「隋・唐」カデゴリーの記事が続きますが頑張っていきましょう!

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓

グシャケン
グシャケン

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主な参考文献

『世界史の窓』世界史の窓 (y-history.net)

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社

・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社

2-4.隋、唐
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