[3-1.3]クシャーナ朝と大乗仏教

3-1.仏教と南アジア

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。このブログから世界史を深めてくれると嬉しいです。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

※1記事で教科書0.5~1ページほどの文量です。実際の授業は記事複数分に相当すると思いますので、MQ、SQの設定などは各自で自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はマウリヤ朝の衰退後、新たな王朝が誕生し、南アジアが世界の重要拠点として文化が花開きます。その過程を一緒にみていきましょう!

MQ:クシャーナ朝は周辺の文明とどのような関係を持って発展したのか?

今回の時代はここ!

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クシャーナ朝の建国とカニシカ王

建国

マウリヤ朝はアショーカ王の死後、財政難に陥地方勢力離反するなど衰退の一途をたどっていました。

マウリヤ朝やアショーカ王については[3-1.2]マウリヤ朝をご覧ください。

そして中央集権が行き詰まり、統治が届かなくなることで、周辺からさまざまな民族が南アジアに進入してくることになります。

まず、西北インドにバクトリア地方(現在のアフガニスタン北部)からギリシア人勢力が進出し、続いてイラン系遊牧民も進出してきました。

さらに紀元1世紀ごろにバクトリア地方から大月氏の支配から脱して進出してきたのが、クシャーナ朝を建国したイラン系民族のクシャーン人でした。

マウリヤ朝の衰退とクシャーナ朝
グシャケン
グシャケン

大月氏は前漢の武帝が対匈奴のために同盟を結ぼうとした国家でしたね。クシャーン人はこの大月氏のもとで有力な部族として台頭し独立しました。

大月氏については[2-2.3]前漢の政治をご覧ください。

クシャーナ朝はプルシャプラに都を置いて西北インドを支配します。

クシャーナ朝
グシャケン
グシャケン

上の地図からもわかるように、マウリヤ朝と違ってその支配が西北インド周辺に限定されていたことに注意しておきましょう。

カニシカ王

このクシャーナ朝は2世紀ごろのカニシカ王の治世に全盛期を向かえます。

SQ:カニシカ王の像からどのような特徴がみられるか?

カニシカ王の像 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

上の像を見て、いったいどんな特徴がみられるでしょうか?

着ているものからなんとなく遊牧民に似ているような気がします。

グシャケン
グシャケン

よく気づきましたね。少しわかりずらいですが、この像はコートを羽織ってベルトを締めていますね。これらの特徴は遊牧民の特徴と一致します。

これらのことから、クシャーナ朝を建てたクシャーン人はもともと遊牧民であったことがわかるんです。

SQ:カニシカ王の像からどのような特徴がみられるか?

厚手のコートやベルトを締めているなどの遊牧民らしい特徴から、クシャーン人がもともとは遊牧民であったことがわかる。

グシャケン
グシャケン

ここでもマウリヤ朝と違い、外からやってきた民族によって建国された国家であることに注意しておきましょう。

このカニシカ王の時代にクシャーナ朝は領土を中央アジアからガンジス川中流域まで支配することになりました。

カニシカ王はゾロアスター教の信者でしたが、仏教にも理解があり「第4回仏典の結集」をおこなうなど手厚く保護していました。

当時、仏教が広く信仰されるようになったので、仏教を保護して仏教徒を取り込んだ方が統治が安定すると考えたのでしょうかね。

保護といってもマウリヤ朝とは違い、クシャーナ朝は当時新しい宗派を保護していました。それについては後ほど解説していきます。

仏典の結集については[3-1.2]マウリヤ朝をご覧ください。

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クシャーナ朝の国際交流

SQ:なぜクシャーナ朝は国際色豊かな文化になったのか?

カニシカ王をはじめ、クシャーナ朝は国際的な交易が活発におこなわれました。

クシャーナ朝の硬貨にはギリシアやイラン、インドなどの神々が描かれていたことから、東西交易が盛んに行われていたことがわかっています。

ではなぜクシャーナ朝は東西交易が盛んだったのか?

それは南インドの位置関係を見ればわかります。

クシャーナ朝

ちょうどクシャーナ朝が東と西の国々の真ん中に位置しています。

グシャケン
グシャケン

そうですね。歴史法則の「複数の大国に挟まれた(または囲まれた)地域は中継貿易で栄える。」という原則から、クシャーナ朝は東西交易路の要衝であったことから交易が盛んだったんですね。

SQ:なぜクシャーナ朝は国際色豊かな文化になったのか?

東西の文化圏の間に位置し、東西交易路の要衝となったため。

歴史法則

複数の大国に挟まれた(または囲まれた)地域は中継貿易で栄える。

クシャーナ朝の東西交易

特にローマとの交易が盛んで、常にクシャーナ朝が輸出超過だったことから、支払いとしてローマから大量の金貨が流入しました。

主な輸出品

クシャーナ朝・・・香辛料・宝石・真珠・象牙・綿布など

ローマ・・・ぶどう酒・オリーブ油など

参照:クシャーナ朝 (y-history.net)

それまで南インドでは主に銀貨が使われていましたが、ローマからの金貨流入によって使用硬貨が金貨へと移行していきます。

この出来事はインド貨幣史の転換点として重要な位置をしめています。

王朝はローマの金貨を参考に、独自の金貨を大量に発行し、東西交易の影響によってさまざまな文明(ギリシア・イラン・インドなど)の神々が刻まれました。

まさに国際色豊かな文化ですね。

クシャーナ朝の金貨流入
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菩薩信仰と大乗仏教

菩薩信仰

クシャーナ朝と重なる紀元前後には、仏教の中から新しい運動が出てきました。

それが菩薩信仰(ぼさつしんこう)という運動です。

「菩薩(ぼさつ)」とは、「ブッタ(悟りを開いた人)になる決意をした人。」という意味で、「自己救済よりも多くの人々を救済しよう。」という仏教宗派としてうまれました。

なので修行も自分が悟りを開ためではなく、他人を救済することを目的としておこなわれました。

グシャケン
グシャケン

始祖のガウタマ=シッダールタ(ブッタ)も悟りを多くの人に説いて救済しようとしましたからね。そのようなところを見習って「自己救済よりも始祖のように他者を救済しよう。」となったのかもしれませんね。

しかも出家する必要もなく、在家(普段の生活をしながら)での修行も認められていたんですよ。

以前に出てきた上座部仏教に比べるとかなり大衆うけの良い仏教ですね。

菩薩信仰

大乗仏教

SQ:なぜ大乗仏教はそれまでの仏教を「小乗」と呼んだのか?

このような菩薩信仰は自分たちを大乗と自称していました。

この大乗とは「あらゆる人々の大きな乗り物」という意味で使われています。

まさに自分だけでなく、多くの人を救済しようとした考えから「大きな乗り物」と表現したんでしょうね。

そしてこの大乗派の人々は、それ以前の仏教宗派を「小乗」と呼んでいました。

グシャケン
グシャケン

なぜ大乗以前の旧宗派を「小乗」と呼んだんでしょうか?

「小乗」は先ほどの「大きな乗り物」に対して「小さな乗り物」という意味として捉えることができるので、厳しい修行で自己救済しようとした宗派を批判する意味で呼んでいたんではないでしょうか。

グシャケン
グシャケン

その通りですね。

大乗仏教はそれまでの自己救済型の仏教を「利己的」だとして批判する意味で「小さい乗り物」と批判的な言い方をしたんですね。

利己的・・・自分の利益だけを追い求めること。

SQ:なぜ大乗仏教はそれまでの仏教を「小乗」と呼んだのか?

大乗が大衆の救済と目的としたのと対照的に、旧来の仏教は出家による自己救済を重視していたので、「小さい乗り物」という批判的な意味で「小乗」と呼んだ。

大乗仏教と小乗仏教

現在では、蔑称である「小乗」に変わって、それまでの仏教を「部派仏教」と呼んでいます。

その中でも上座部仏教はセイロン島(現在のスリランカ)を皮切りに、東南アジアを中心に大きな勢力をもっているんですよ。

大乗系と上座部系の広がり

上座部仏教については[3-1.2]マウリヤ朝をご覧ください。

仏像の出現

また、アレクサンドロス大王の侵入や東西交流によってギリシア文化が入ってきたことで、この時代にヘレニズム文化の影響をうけて、仏像が生み出されました

ヘレニズム文化・・・ギリシア文化が波及し、各地域の文化からも影響をうけて生まれた独自の文化。

それまではブッタは崇高な存在であったため、偶像にするのは恐れ多いとされて避けられていたんですが、ギリシアの偶像文化の影響をうけてこの時代に仏像が作られるようになったんですね。

クシャーナ朝の保護と拡大(ガンダーラ美術)

クシャーナ朝が保護した仏教とはこの大乗仏教のことでしたね。

加えてヘレニズム文化の影響をうけたガンダーラ美術と共に各地に広がり、中央アジアや中国、日本にまで影響を与えました。

ガンダーラ様式の仏像 出典:『詳説世界史探究』山川出版社
ギリシア彫刻とガンダーラ仏像
グシャケン
グシャケン

この上の2つの仏像の顔つきにはいったいどんな特徴がありますか?

鼻が高くて彫りが深いので、何だか白人系の顔つきのように見えます。

グシャケン
グシャケン

そうですね。ギリシア文化の影響から顔つきもギリシア系に似ていますね。

竜樹(ナーガールジュナ)の「空」

さらにカニシカ王とほど同時代に生きたバラモン出身であった竜樹ナーガールジュナは、

竜樹
竜樹

この世のすべてのものは存在せず、名前があるだけです。だから欲を追い求めても意味はありません。そこにものは無いのだから。

という「空」の思想を説いて、その後の仏教思想に大きな影響を与えて大乗仏教を大成したと言われています。

竜樹(ナーガールジュナ)
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クシャーナ朝の滅亡

クシャーナ朝は大乗仏教の保護活動や東西交易などによって繁栄しましたが、3世紀になると交易相手だったローマ帝国内で混乱が起き、交易が減少したことで国力が低下していってしまいます。

加えて、イランのササン朝によって西側を奪われてしまい、それに乗じて東側でも地方勢力が離反したことで、最終的にクシャーナ朝は3世紀に滅亡してしまいました。

クシャーナ朝の滅亡
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まとめ

MQ:クシャーナ朝は周辺の文明とどのような関係を持って発展したのか

A:東と西の文明圏を結ぶ交易路の要衝として発展し、国際性豊かな文化が仏教などに影響を与え、それが中央アジアや中国、日本などにも波及していった。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

今までは南アジアの中でも北インドを中心に話してきました。

次回は南インドについてやっていきます。南インドはインド洋と接していることから海の交易と密接に関係しているので意外と重要なんです。それらを詳しくみていきましょう!

それでは次回もお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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