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はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はヴァルダナ朝が新たに成立し、仏教活動が盛んになります。しかし、その後仏教は衰退していきます。なぜ衰退していったのか、その経緯を一緒にみていきましょう!
MQ:なぜ南アジア(インド)で仏教は衰退していったのか?
今回の時代はここ!
グプタ朝の滅亡
インド古典文化の黄金期を向かえたグプタ朝でしたが、5世紀ごろから王朝に陰りが見え始めます。
まずは中央アジアから外敵が侵入してきます。
それがエフタルと呼ばれるイラン系の遊牧国家です。古代から読んでいる方は突厥のところでも出てきたお馴染みの遊牧民ですね。
このエフタルは西のササン朝に侵入し、東は北インドのグプタ朝にまで侵攻してきたんです。
エフタルはパンジャーブ地方を含む西北インドを支配し、西方との交易路を押さえてグプタ朝に打撃を与えます。
グプタ朝は西方との交易路を絶たれたことで国内の貨幣量が減少し、経済が不況に陥ります。加えて国家にとって重要な収入源を失ったことで、王朝も財政難に陥って弱体化してしまいます。
国家の弱体化によって中央集権が行き届かなくなり、地方勢力が言うことを聞かなくなってグプタ朝から離反していき、550年頃に王朝は滅亡してしまいました。
交易路を絶たれたことが原因で滅亡したグプタ朝は、それだけ交易の利得権益によって統一国家を支えていたんですね。
逆にエフタルは交易路を押さえたことで、西方や中国と交易をおこなって強力な国家を支えることができました。
ヴァルダナ朝
グプタ朝が滅亡した後は、分裂期が訪れます。
しかし、606年に最も有力だったハルシャ王率いるマガダ国のヴァルダナ朝が北インドを統一しました。
分裂期を統一するのはいつもマガダ国ですね。さすが資源が豊富な国ですね。
しかし、このヴァルダナ朝の繁栄はハルシャ王の一代限りで、ハルシャ王の死後は王朝は衰退していき、またしても分裂期に入っていくことになります。
仏教の盛況
当時の支配者は熱心なヒンドゥー教徒が多かったんですが、仏教やジャイナ教も保護していました。
ヴァルダナ朝のハルシャ王も仏教とヒンドゥー教をともに保護していました。
当時はヒンドゥー教徒や仏教徒、ジャイナ教は国内でも比較的大きな勢力であったため、統治を安定させるために保護していたんでしょうね。
インドの王朝では仏教寺院が多く建てられ、当時最先端の仏典研究が盛んであったため、仏教が伝わった地域から仏典をもとめて修行に訪れる他国の仏教徒もいました。
玄奘
唐建国当初の長安で仏教を学び始めた玄奘(げんじょう)でしたが、中国での学びは飽き足らなくなって、本場インドで学びたい意欲が強くなっていきます。
現代でいう日本の英語教育ではモノ足らなくなって、英語圏に留学にいくような感覚ですかね。
ですが、当時の唐は海外への個人旅行が禁止されていました。ですが熱意がそれに勝ってしまって、玄奘は昼間隠れて夜行動することで、秘密裏に出国して陸路でインドまで向かってしまったんです。
ヴァルダナ朝のハルシャ王の時代にインドに訪れて王の保護のもと、仏典の研究が行われていたナーランダー僧院で5年間、仏典について学びました。
ナーランダー僧院とは、グプタ朝時代に造られてた仏教を学ぶために造られた学院です。
仏教教学を中心に、バラモン教や哲学、医学、天文学、数学など様々な分野が研究されていました。
今でいう総合大学みたいな感じでしょうか。ナーランダー僧院は多い時には数千人が通っていたそうですよ。
唐に帰ってからは、インドの仏典の漢訳に従事して、中国の仏教学の水準を高めるのに貢献しました。
玄奘の17年にも及ぶ旅行を弟子たちがまとめたのが『大唐西域記(だいとうさいいきき)』です。これによって、当時のインドや西域の状況が詳しく伝えられているんです。
この玄奘は日本でも映画化されるほど人気のある物語のモデルになっています。
義浄
義浄(ぎじょう)は、玄奘がインドへ渡った7世紀前半から時が経って、7世紀後半に海路を使ってインドへ留学に行った人物です。
玄奘と同じナーランダー僧院で仏典を学んで、多くの仏典を持ち帰りました。
インドに渡ってから唐に帰るまでの24年間を記した旅行記は『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』といわれ、インドだけでなく、帰りに寄った東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国で、仏教が盛んであったこともを伝えられています。
仏教の衰退
グプタ朝で大きく発展し、ヴァルダナ朝以降で多くの外国人僧侶が訪れた仏教でしたが、グプタ朝の衰退と共に徐々に陰りが見え始めます。
インドで仏教が衰退した原因は以下の3つです。
①商業不振
仏教はもともと商人層からの寄付によって活動が支えられていた宗教でした。
SQ:なぜ仏教は商人から支持されていたのか?
なんで仏教は商人層から支持されていたんですか?
この問いは仏教誕生時の状況を復習すると理解できます。
もともとバラモンがトップのヴァルナ制に対して、商工業(経済)が発展して財を成したヴァイシャ階級が特権身分のバラモンに対して不満を待ち始めました。
そこに反ヴァルナ制・反バラモンを説いた仏教が現れたことで、ヴァイシャ階級であった商人たちがこぞって仏教を支持したというわけなんです。
さらに商工業(経済)が発展して大商人となった人々が仏教に寄付したことで仏教は発展することができたんですね。
しかし、厚い保護を受けていたグプタ朝末期に、エフタルの侵攻によって王朝が衰退してしまいます。
同時に交易路を失ったことで商業不信になってしまい、商人たちが仏教に寄付ができなくなってしまいました。
この商業不振が仏教が衰退してしまった原因の一つとされています。財政悪化による衰退ですね。
やっぱり何をするにもお金って大事ですね。
②バクティ運動
そしてグプタ朝が滅亡する6世紀ごろから、南インドで起こったのが、バクティ運動でした。
このバクティ運動とは、
ヒンドゥー教徒の民衆による、インド古来の神々の信仰を復興しようとする宗教運動。
であり、「バクティ」とは「(ヒンドゥー教の)最高神に帰依することを指す言葉」だそうです。
要するにヒンドゥー教を純化しようとした思想から、
仏教やジャイナ教のような宗教は邪道だ!あんな偽物は排除すべきだ!
という考えにいたり、仏教やジャイナ教などがヒンドゥー教徒から迫害を受けました。
これによってインドではヒンドゥー教が一層優位に立ち、仏教やジャイナ教は南アジア(インド)で肩身が狭くなってしまったんですね。
このバクティ運動はヒンドゥー教の最高神への熱烈な信仰によって他宗教を攻撃しましたが、ヒンドゥー教の優位が確立すると宗教対立は徐々になくなっていくことになります。
しかし、バクティ運動時代は16世紀ごろまで続き、一種のナショナリズム運動としてイスラーム教やカースト制を否定する運動へと変化していきました。
③民衆との乖離とイスラーム教の侵入
上記のバクティ運動でもあるように、インド(南アジア)ではすでに民衆の多くがヒンドゥー教徒でした。
その根幹にあるカースト制を否定する仏教は民衆には浸透せず、仏教は商人や僧侶などに留まっていたんです。
要は仏教は民衆信仰というよりも学識のある人が信仰する「お高い宗教」になってしまっていたんですね。
この民衆との乖離によって信仰の拡大が止まっていたことも衰退を招いた原因でした。
加えて、8世紀以降にイスラーム勢力が侵入してきて、仏教寺院などが破壊されたことも仏教衰退の決め手となりました。
これらの出来事によって仏教の僧侶たちは南アジア(インド)での信仰が困難となって、チベットなどの他地域に避難したことでインド仏教は消滅してしまったんですね。
ちなみにヒンドゥー教やジャイナ教はイスラーム勢力の破壊行為の後、その地にとどまったため、南アジア(インド)で復興を成しとげました。
まとめ
MQ:なぜ南アジア(インド)で仏教は衰退していったのか?
A:グプタ朝の衰退にともなって、商業不振から商人からの支援が得られなくなり、バクティ運動やイスラーム勢力の侵攻によって迫害や破壊行為を受けたことで南アジア(インド)で仏教が衰退していった。
今回はこのような内容でした。
次回はヴァルダナ朝の滅亡後、またしても分裂期が訪れて諸国がどのような政策をおこなったのかをみていきます。
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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